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夏の思い出

よく、このプライドの高い僕が、生きてこれたなぁと思う。
ふと、派遣労働をしてた頃のことを思い出してそう思う。

あの頃は、ほんとうに最下層の生き方をしていた。
二十位年下の柄の悪い配送の兄ちゃんから凄まれ馬鹿にされながら引っ越しのスタッフをやっていたり。

大晦日に文字通り凍った路面で転げながら棒振り警備をやっていたりした。

特に、その警備の仕事は、僕にとって今でも思い出すような強烈な印象を抱くものになった。

そこで働くみんなが、絶望していたから。

そこで聞いた話。
三十代の男性が言う。
僕は、もう人生の終わり方を考えています。
こんな生活をしていても、結婚もできないし。

知り合いの同僚は、夏の暑い日バス停で眠るように死んでました。
もう一人は、部屋で首吊ってました。

五十代の男性が言う。
手持ちのお金が十円玉しかなくって、千円前借りしたいって言ったけど、聞き入れてもらえずに飲み物を買う金さえなくて、炎天下の中警備してた。
そこで、どっかのお婆さんが「これで何か食べて」と500円くれた。
神様っているのかもしれないと思った。と。

500円で神様を感じる人がいる。

僕は、その現実に愕然とした。

建築現場で、マッチョな若い作業員に嘲笑われながら、こそこそとその視線から逃げるように冷えたかたいおにぎりを食べる。

卒業したてみたいな現場監督に、契約にない掃除をしろと怒鳴られ、意地でもやらないと言い張るおじさんもいて、そんなおじさんは、どんどんシフトから外されていった。

年末の寒い日だったのに、なぜかその人たちの思い出の夏で自分の記憶が塗り替えられている。
あの時の人たちは今、どうしてるだろう。

派遣という弱い立場で、誰にも守ってもらえずに、生きていけただろうか。

なぜ、僕はそんな環境から抜け出せたんだろう…。
わからない。

ただ単に、運が良かっただけなんだと思う。

今でも時折、死にたいと思う。

最近、本当に死にたいのかと自問自答するようになった。
多分、生きることに疲れたんだろう。

生きることに疲れ果てて、周りがお前なんていらないという声のない声を聴き続け、忖度するように生きていたくないと思うようになったんだと思う。

男性にとって生きてきた仕事は、信仰のようなものだと、そう思う。
その生きてきた縋るべき仕事という信仰を捨てることで自分の生きる価値がなくなっていく。

僕にとっては、デザインが信仰だった。
その仕事がなくなってきたことで…
その仕事から離れようと思ったことで。

自己の有用性を自分で放棄して、自分に何も期待できなくて。
それでも、自分のプライドだけは維持したくって。
プライドがズタズタになる前に消えて無くなりたいと切に願っていた。

死ぬという勇気はなくて、いつか唐突に世界が終わればいいと思って。
唐突に世界を壊す方法を思いついた。
それが、自分が死ぬと言うこと。

あの時は、ぐるぐると、きっとそんなことを考え続けていた。

今も、自分の本質は変わらない。

多分。クリスチャンになったとしても。
誰も救えずに、自分さえ救えずに、ただ、ただ無為無策に生きている。

ずっと、世界を壊したいと思いながら、ずっとずっとこうやって、誰の思いも背負うことなく生きていくんだろう。

きっと。
多分。

善人ヅラしながら。

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