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死という話

人は死にたい、死ぬんだ、殺されていくんだ、死んだようなものだ…と、そう思うのが当然の感覚なのだと思っている。

ジブリの風立ちぬの映画。
キャッチコピーで『生きねば』という言葉があったけど、これは、生きることが難しくても生きねば。なのだろうが、人はきっと死と対比することでしか生きることを自覚できない。

生きることを自覚している必死な人は、いつも死を意識している。

さまざまな痛みに耐えながらも当然のことのように死ぬことを夢想する。

死にたいなぁという言葉に、僕は死んじゃダメだよとは言い切れない。

だって自分がいつもその衝動を抱えているから。

ついこの前も、その言葉と出会った。

「そうだよねぇ」と話す。
「最近どうやって死ぬのが理想かなぁとか考えるんだよねー」
という僕の会話から始まって、最近眠る前に繰り返し夢想する自分の死のイメージを話す。

「例えばさー、飛び降り自殺するじゃん?失敗したら下半身不随になって自分では身動きとれなくなってさー、そういうのってダメじゃん?」

「首吊りとかしても、なんか生き延びちゃって植物人間みたいになるのも嫌だしさー」

「例えばお家で死んでも、集合住宅だから、ご近所さんに迷惑かけるしなぁ…」

「行方不明になって富士の樹海とかでひっそりと死ぬとして、幽霊とか見ちゃったらどうしようとか思うし…」

相手は、「幽霊みたら、ちょっと生きてみたいとか思うかもなー」と言う。

まあ、死ぬと言うことは、きっと最後の大切なイベントとして夢想しながら生きていくんじゃないかと思ったりする。

迷惑かけずに人が死ぬなんてことは出来ない。

正しく死んだとしても、見送る人たちに儀式を要求してしまう。

その人は言う「最後くらいは、人に迷惑をかけてみようかな。もし死んだら私の亡骸は運んで埋葬をお願いします」

「どうやって!?警察に捕まるわ!腐乱しないように冬にお願い!間違っても真夏はやめて!んで、遺書を書いといてよ!私の死体を運んでもらってますって!」

「喜んで運んでくれそうだ」

そんな笑い話にもならないような死の話を繰り広げる。
あまり出会って間もない人と、そんな話ができる稀有な経験ができることに不思議な感覚に陥っている。

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