見出し画像

【デザイナー修行時代-1】1990年バブル、職業は破壊され続ける。そんな中、デザインに対する憧れだけで生きてきたのです。

電気を消して、窓際に近寄るな。
そんなお達し。

笑う。スナイパーに狙われてるのかな…?
そんな冗談を心の中で呟いていた。
1991年8月27日に電通の社員が過労により自殺した事件が社会問題になっていた。

生活大国5か年計画-『地球社会との共存をめざして』と称して、厚生労働省労働基準局は『ゆとりのための労働時間の短縮』をはじめた。
”計画期間中に年間総労働時間1800時間を達成することを目標とする。”

平成4(1991)年6月30日閣議決定だ。

大手の印刷会社のフロアに寄生していたデザイン事務所だったために世の中の風潮には抗えなかった。
挙げ句の、働いていないように見せかけるために「電気を消して窓に近寄るな」というお達し。

まぁ、日本経済の皺寄せは、全部従順でたくましい下請けにくるんだ。
でも、半死半生で日常を破壊しながら逞しくなっているだけ。
そんな毎日。
いつか、何かが途切れて全てが終わってしまう。
そんな、予感さえ感じるほどの毎日。


2017年になった今、今年50歳気弱なデザイナーのじじいになった僕は、当時を振り返っている。

アナログを根こそぎ駆逐した、破壊的なデジタル革命を経験して、生き延びるって難しいなと実感した。
一つの業種が1年待たずに全滅。
デザイン業界に絡んだ離職者が、その時代恐ろしく増えたはず。
版下屋、写植屋などが、僕の周りから消え失せた。
恐ろしいスピードで、時代が変化した。

多分、兆候はみえていたけれど、気づくことができなかったのかもしれない。
当時のデザイン業界の人たちは今現在の生命維持活動に集中しすぎて、先のことなんて考えられなかった。
その頃の印刷業界は、丸ごとブラック企業の集まりのようなもの。

個人には欲求の一番下層の生理的欲求さえ満たせていない感じ。(笑)
大きな石臼に精神を投げ込んですりつぶされながら生きているような感じ。

締め切りが、分刻みでやってきて、睡眠おろか、トイレに行くのさえ我慢して作業しながらパンをかじる。
そんな職場。そんな作業が深夜まで続く。明け方まで続く。
そして、帰宅後、そのままベッドに倒れ込んだ後の出社時間は3時間後。

僕は、大手の印刷会社の内部にある下請け会社にいて、その頃も、今のように業界に、労働時間の問題で行政指導が行われていたが、同じフロアにいる親会社が我々に出した指導は、電気を消して、窓際に近寄るな。(笑)という指導だった。そんな『卑屈を要求するアナログ対策』で今考えるとすごく笑える。

そんな時代だったから、先のことなど考えられなかった。
とにかく、仕事をすべて殲滅するか、我々が絶滅するまで手を動かし続けるのが使命だと考えていたけれど、そこに僕たちの勝算は皆無だった。

常識ってなんだ?

我々は大企業の中に入り込んだ異分子の小さな下請け会社で、常にその親会社内部での生贄となる対象だった。
朦朧とした意識の中で実行したデザイン作業は、精度が低くエラーを大量に詰め込んだ危険な制作案件となる。
営業からの指示は曖昧で、ミスが発覚すると「常識で考えてください!」という罵声が飛ぶ。

全くデザインに素人の営業は、この色を「青に変更」と漠然と書き殴った指示書を手渡してくる。
「どんな青ですか?掛け合わせは?」と、デザインチーフが問う。

「お客さんが、うわぁって言うような青!」
背中で、そんな声を聞きながら、口元がいびつに歪んでいくのが自分でもわかった。
印刷物は、基本C(シアン)M(マゼンタ)Y(イエロー)K(ブラック)で成り立っている。プリンターが普及して常識になっている今なら、皆わかっているかもしれないけれどね。
今なら。

僕たちは”お客さんがうわぁって言うような青”を想像しながら脂汗をかきながら色指定をする。

でも、当時でも、カラーチャートっていうものがあったんだけどね。
営業も持っていたはずなのだけど。

そんな、曖昧な狂った常識の中で、わたしたちは生きていた。



「ジョウシキッテナンダ?」
すみませんとうなだれるチーフデザイナーの背後で、そんな言葉を、異世界の言葉のように聴きながら思っていた。

さらに続く
おたくがデザイン出すのが遅いから、チェックもできないじゃないですか!そのままクライアントに出してこのザマじゃないですか!?
遅く出すんだったら、完璧なチェックしてからにしてください!

それは、我々からすれば絶望的に不可能な要望。
早々に帰宅する営業、朝早くにクライアントへ提出する案件を、早朝に確認する。
指示と違うと罵声。
それから、常識という言葉を叫び、舌打ちと荒々しいドアを閉める音で営業は駆け出して行く。
戻ってきて、さらに、業務を止めて叫び続ける。

大手の景気のいい会社の中で、我々の5人しかいない、下請けの制作プロダクションは異分子だった。

必死に残業して給料は15万ほど。
残業なかったら、12万。
それが、僕の労働の対価。
羽振りのいいバブル期でも、それをおかしいとも思わなかった。
圧倒的に、立場が違う階層社会で、親会社の社員は別の選ばれた人たちだったから、嫉妬もしなかった。



目を血走らせて、虚ろな目で作業する我々の横で、印刷会社の社員達は綺麗な女子社員と合コンの話をする。
様々なリゾートの話を旅行のパンフレットを片手に、営業所でできない話をアートルームヘ持ち込んできて話す。
我々の内線電話を使い、社内恋愛の相手に電話をする僕が目を合わせることもできない綺麗な女子社員。
感じのいい笑顔が素敵な男性社員が、賭け事で日に5万突っ込んだと誇らしげに話す会話を聞きながら、俺の24時間をデザインに費やしている給料の1/3の金額が一晩で賭け事に消えるのかぁ。と別世界の話のように聞いていた。


そのアートルームで綺麗な女子社員の中の何人かは、聞こえよがしに「なんか、変な臭いしない?」と叫ぶ。
そりゃ変な臭いするさ。風呂にも入れないし、洗濯もできてない。
僕は、人語を解さない別の生き物に成り下がっているふりをした。
彼らを僕はそう見ていたから、彼らにも僕がそう見えるように振る舞ったんだ。そこで、コミュニケーションをとれるなんて思わなかったから。
襟首の伸びきったTシャツで、寝癖のついた頭。
目を合わせないデザイナー。
一見して危ない人、それが僕たちデザイナーの存在だった。

DTPという破壊的な波がやってきた

東京の本社発、地方の営業所長経由のお達しで、DTPという横文字が飛び交い始めたのは僕が入社してしばらく経ってから。
親会社は、我々に早急にDTP(デスクトップパブリッシング)に取り組むようにと通達。
僕は、Macintoshの記事が掲載されている本を、全くわからない言葉を呪文のように唱えながら必死に読み漁りながら寝落ちを続ける。

モニターに40万
MacintoshIIcxのマシンに50万
プリンターに40万

それは、当時の資金力が皆無の貧乏なデザイン事務所にとって、生き死にをかけた投資だったかもしれない。
バブルだ。
金なんて水道の蛇口を捻ればジャブジャブ出て来ると思い込んでいる大手からの通達だ。

しかし、日々の作業が忙しすぎて、全く進まないデジタル化。
イライラする我が社の女社長。
そして、彼女のイライラは、おそらく僕にも原因があった。
それは、あとで話すけれど。

コピー用紙や、トレシングペーパー。
大量の写植の切り屑。
そんなものに埋もれながら、皆が、戦場で倒れたように眠っている。

入社した当初、僕はそんな光景を見て、カッコいいと思い、
少しでもそのデザイナーになれる日を夢見た。
夢見ながら、永く永く下働きを続けた。
僕が下働きで何年も費やした理由は、ただ一点にある。
赤緑色盲、いわゆる色弱だからだ。
そんな奴がうまいことデザイン事務所に入れたのは単純な理由だ。
仕事がハードすぎて、新人が取れない。
入ったとしても、入った次の日には来なくなる。
チーフデザイナーは笑いながらいう。
入社した初日に徹夜させたら、次の日何の連絡もなく来なくなったよ。
初日に徹夜させちゃだめだってわかったわ。

それでも、経験もない僕のような人間を採用したのにもプロセスがあった…。
一度、面接に落ちて、落ちたという知らせをもらうことができずに、何度か電話。
不採用通知を出すほど、構われるような新人ではなく、無視を決め込まれたにも関わらずだ。

そして、仕事にあぶれて、就職離職を繰り返していた僕は、もう一度、そのプロダクションの求人広告を見て、応募した。
落ちても、また応募してきやがった。こいつ、すぐ辞めないんじゃない?
その一点で採用試験もなく採用された。
完全な頭数揃え要員。
そこから始まったデザイナーのキャリア。
そして、働き始めて発覚した赤緑色盲という事実。
何で言わなかったの!?無表情な顔で問い詰める女社長。
問い詰められた時、もう、クビになるなと思いながら、ただ、うつむいてコーヒーの黒さに反射する光だけ見ていた。
ちらと、表情を盗み見ると、彼女は、腕組みをして僕を見下ろしていた。
目を半眼にして、言う。
わかった。
親会社の人たちにはバレないようにして。
私たちの能力が疑われるから、隠し通して。
彼女は、労働力としての僕を再度採用した。

それから僕は、強くデザイナーになれる日を夢見た。
夢見ながら、永く永く下働きを続けた。
色と関わらない部分しか触れることができないトレース作業や、使いっ走り、資料探しに奔走する毎日を過ごしながら…。

「俺は、この会社にとって存在していてはいけない人間だ。だから色に関して聞かれたら息を殺して見つからないようにしていなければならない。」
それでも、その現場にいることができることが幸せだと思えた。
日々、人との会話もなく、心から笑うこともない日々が続いたとしても。

僕は、睡眠時間を削って、DTPという言葉にしがみ付いた。
新卒に近い状態で入社した僕は、もし、クビになったら、今まで支払った給与は全て返さなければいけないかもしれないと思い込んでいたから、その会社で少しでも役に立たなければならなかったし、役に立たなければ、その組織で言葉を発することもできない状態だったから。

深夜、みんなが帰った事務所に一人残って、血走った充血した眼をこすりながら初めてのイラストを描く。
大きな腕を四方に伸ばした巨大な観覧車。
カラフルな、空を飛ぶ巨大な魚。
Adobe Illustratorなら、先輩にも負けない!
見るも無残なちびまる子ちゃんのピクト画像を悦に入ってマウスで描き、上手!と周囲から賞賛されていた先輩を背後から眺めながら、「俺ならまだ上手く描ける!その、商品にならないレベルで褒められて満足しているあんたには負けない!」普通の顔をしていたけれど、僕は内心嫉妬で満たされていた。

いつか引き摺り落としてやると無表情な顔で、先輩を呪うようになった。

所詮僕は色弱だけど。
もしかしたら、パソコンが僕を変えてくれるかもしれないと、そう願っていた。デザイナーになれるかもしれない…とそう思っていた。
嫉妬の反動で、描いた夢だった。


色が見えない、他人が見ている色がわからない僕にも色を数値化してくれるMacintoshのアプリケーション全般は、僕の機能を補完してくれこそすれ、足を引っ張るものではなかった。
自分のアナログな腕に頼りきったイラストの作成プロセスに依存しきった奴には負けない。失敗したら、何度でも色はやり直せる…。
クリアすべきは、跳ねまくるベクトルの曲線のみ。
そんなもの、すぐにクリアできた。
背後で見るチーフデザイナーが、作った観覧車を宗教画みたいやなぁ。と薄笑いで揶揄した。

そうだ、宗教画なんだ。
Macintosh教の宗教画だ。
心の中でそう思いながら、無言で我ながら薄ら寒い愛想笑いを湛えてチーフデザイナーに応える。

手描きがうまい先輩デザイナー達を駆逐一掃してやると、昂った心で必死で技術を磨いた。
ペンやトレースの手描きでレイアウトを組む高度な職人芸を身につけていた先輩を尻目に、写真をスキャンし、配置し、プリントアウトで指示書を作った。

半年、黙々と続けた。
できない人間が進めるDTP化は、侮られていたが、先入観を覆すのに、時間はかからなかった。
イラストを作成するのも、そのうち、Macintoshでスキャンしたものをトレースするようになる。

ほら、みろ。

一人でほくそ笑みながらも、そのイラストの仕事が、僕に回ってくることはなかった。

実績がない。
色が見えない。
だから、仕事を任せられない。


イライラはつのる。
くそ、俺は人一倍努力してる!正当な評価をよこせ!
Macintoshの知識を積み上げて、パソコン通信を始め、外と繋がる。
大阪、東京のユーザーと繋がり、社外でデザインを認めてもらいながらも、社内での評価は依然として底辺だ。仕事を任せてもらえない苛立ちが頂点に達していた。

営業にも、ディレクターにも腹立たしさを隠さなくなっていた。
不機嫌なデザイナーの出来上がりだ。

そんな日が、入社して10年続く。
もちろん、その間に、DTPは進む。
消えてしまった、写植と版下、製版、それぞれの分業が一極集中でデザイナーへのしかかる。

作業量の増加、時間の短縮。
MacintoshがもたらしたDTPは、地獄を加速させた。
あまりの頭痛で、嘔吐しながらも、モニターにしがみついて、作業を続けた。
作業がひと段落したあと、帰宅する体力が無くて、床に突っ伏してゴミ箱に嘔吐して、意識を無くして夜明けまで。

荒みきっていた。
僕が住んでいたアパートの人の良さそうな笑顔の管理人のおじさんが「お疲れですね」という労りの言葉にも「寝てないんですよ、疲れもしますよ!」と怒鳴り散らすほどのクズっぷりだった。管理人さんのせいでもないのに。

休日は常に、吐き気をともなう、のたうちまわる頭痛が襲う。
MRIを撮っても原因はわからない。

そんな時代を過ごした。仕事場で机に突っ伏して死ぬことを覚悟した時代だった。バブルが描いた夢の裏側で、ドロドロとした怨念だけが自分の中を占めていた。

仕事ができないデザイナーの夢想の終わりとともに訪れる限界。

今の時代が、普通ではない。
昔は、ブラック企業しかなかった…。
僕が生きてきた世界は、真っ黒だった。
華やかなバブルの時代の裏側は、どす黒くって狭苦しくって、呼吸さえできなくなる。
そんな中でもデザインに対しては憧れしかなかった。

憧れを抱いた自分は、赤緑色盲で、

いつか、自分の手で綺麗なデザインを作れる日がくれば嬉しい。
いつか、自分の、自分だけの世界を表現できる人間になりたい。
いつか、誰かを感動させられる、求められるデザイナーになりたい…。
いつか、生きるってことを誰かが実感してくれるデザインを作れるデザイナーになりたい…。
艶のある紙に乗ったインクの匂い。
大量に刷り上がった印刷物の重量感と、指が切れるほどに整えられ、しっかりと揃った断裁面。
大量に配布され、ゴミになって捨てられるとしても、印刷物になった自分が関わったデザインを街中で見ると心が踊った。
たとえ、それが、《おひとり様1名限り》の激安プライスがメインの赤や黄色でギラギラ下品な安売りチラシのデザインだとしても。
色が見えない赤緑色盲である自分が、命を削って作った、心を削って作った、その時、今の自分の全部だったから。
デザインに対する憧れだけで、死にかけながらも今まで生きてきたんだと思う。

暖房がない雪が舞うクリスマスの夜も、指先の血が凍るような作業場で作業した。
待ち合わせの場所で、時間変更の余った時間を公園でうつらうつらしながら必死に作業にあてた。
データをCDに落とす、たった10分。そのわずかな時間が無くって、焼き込みをしつづけるPowerBookと一緒に車を走らせたこともある。


なんのハンデも持っていない、才能のある他人に嫉妬し、布団の中で号泣して、自分が10年間ずーーーーっと辛かったことを、全部そこで理解して、自分はデザイン業界でスポットライトを浴びることは無いと、自分の立ち位置を自分で把握して、もう一度歩き出した。

所詮、色弱デザイナー。
できる限界は決まってる。
だから、その限界でできることもある。
だから、必死に生きていく方法を探るんだ。

また、時代が変わる。
以前のデジタル革命よりもさらに激しく、根本的に時代が覆る。

そんな時代に、自分が死ぬまでデザイナーでいられるように、共に皆と歩いていけるように、ここで必死に考えている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?