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対峙・Mass

最近、敵対的共存という言葉が気になっています。
人はどうしても争い合う生き物だから、敵対するとしても共存できる方法を知りたいと考えてたりします。

そういう意味では、今、何もとっかかりのないその疑問に少しでも近いだろうこの映画は、考え方の手がかりになるかもしれません。

僕自身の話で恐縮なのですが、考え方のベースを映画やアニメーション、漫画などを呼水にして本を読んだり資料を集めたりという作業をすることが多くあります。



動画やストーリーは流動食だと言ってた人がいて、そうなのかもなと思ったことがありました。

流動食だから、動画やエンターテイメントは知的な栄養やエッセンスが吸収しやすく作られています。
考え方の土台となるとっかかりが必要な時には、映像と音楽と演出という総合芸術的に構築された世界は、言葉で表現できないことまで表現できる可能性があると思っています。


良い作品との出会いは、自分の感じた違和感や、ニュアンスを言語化するために降ろす錨のような役割を果たしてくれるような気がしています。
錨を下ろし、漂いながら波や風を読み、それに規則性を見るような作業です。

僕は、感情が揺さぶられなければ、思考は生まれないと思っています。
それには、作品の与える言語化できないインパクトが必要で、だから、僕は映画やドラマ、アニメーションや漫画や小説が大好きで、それらから離れられないのです。

生きていく上で、出会った人から学ぶことも多くあります。
ただ、現実は、自分という今まで生きてきた中の枠があって、自分の忌々しい欲があって、その、自分の中の業という枠組みから離れられないのです。

その業の枠組みから離れられない思考では、何も超えられない気がします。

何かを越えるためには、綿密な世界観が構築されていて、その世界を主観的に、あるいは客観的に見つめられるギミックが必要になっていくのだと思います。

ある意味、自分ではない、誰か。
他人になれる仕組みが必要で、それがあることによって、自分を自分の外から見つめるという、メタ認知が可能になるのではないかと思ったりするのです。

最近、観に行きたい映画が多くなってきました。

この対峙という映画もその一つです。

『対峙』
高校銃乱射事件の被害者家族と加害者家族による対話を描いたドラマ。

アメリカの高校で、生徒による銃乱射事件が発生。多くの同級生が殺害され、犯人の少年も校内で自ら命を絶った。事件から6年。息子の死を受け入れられずにいるペリー夫妻は、セラピストの勧めで、加害者の両親と会って話をすることに。教会の奥の小さな個室で立会人もなく顔を合わせた4人はぎこちなく挨拶を交わし、対話を始めるが……。


『対峙』原題は『Mass』

Massの意味は
ミサ,ミサ聖祭,ミサの儀式
ミサ曲

塊,集まり,集積≪of≫(◆不定形の大きな塊)
全体,集合体
一般大衆,庶民,労働者[下層]階級

銃乱射事件の親同士の会話が、この原題をどう反映しているのか、すごく気になる。


憎しみと後悔との落とし所がどうなっているのかすごく観たい。
憎悪が解けていくというのならどういうプロセスを辿るのか。

ミサの儀式という意味合いを含むタイトル。
ここに、救いがあるとしたら?
互いの存在を認めることができるのか?
どういう結末を迎えるのか?

そんなことを考えながら、敵対的共存とは、対話を交わしながら赦すことはできないけれど、自分もその状況に陥ることがありうるということを理解することなのかもしれないと考えていたりします。


2023/03/17 中洲大洋映画館にて公開予定

初日に行けたらいいな。




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