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反出生主義で読み解く「魔法少女まどか☆マギカ」

今回は「魔法少女まどか☆マギカ」を反出生主義の観点から読み解きます。

反出生主義の概要

反出生主義とは「全ての人間は生まれてくるより生まれてこない方が良く、したがって新たに人間を産まない方が良い」という哲学の一種の思想です。

生命倫理学者のデイヴィッド・ベネターが精力的に研究と啓蒙をしており、邦訳された「生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪」で厳密かつ論理的にあらゆる価値観のもとであらゆる人生を過ごしたとしても「人間は存在するより存在しない方が倫理的に望ましい」と示されました。

反出生主義を裏付ける全ての証明を書くのは冗長になるので割愛しますが、詳しく知りたい方は、ネットの記事や関連図書を読むのでなく、大元にあるベネターの著書を読むと納得できると思います。

簡単な証明は「生まれてくることで快楽を味わうのは善、苦痛を味わうのは悪である。一方、生まれてこないことで快楽を味わえないのは悪ではなく、苦痛を味わわないのは善である。生まれてくるよりも生まれてこないほうが必ず良いことから、生まれてこないことと産まないことは善である」となります。

なぜ、生まれてこないことで快楽を味わえないのは悪ではないかというと、誰かが生まれてこなかったとして、その人が快楽を味わえなかったとしても「その人が快楽を味わえるように誕生させなければならない」というように道徳的な責任を負う必要はないからです。生まれてこないことで苦痛を味わわないのは、もし生まれてきて苦痛を味わう人間がいたらその苦痛を取り除く道徳的な義務が発生していたはずなので、その苦痛がないことは善であると言えるという論理です。

もし、どんなに成功し続ける人生を送ったとしても、擦り傷一つをすれば、生まれてこなければ味わう必要のない苦痛を味わうという悪をなしたので、その成功者であっても生まれてこないほうが良かったと結論されます。

あらゆる価値観のもとであらゆる人生が生まれてくる価値がなかったことを証明する場合は、この世界の多くの価値観を三つの価値観に分類して、そのいずれを採用しても上記のロジックが崩れないことを確かめることで証明が完了します。価値観とは、「快楽説」「欲求充足説」「客観的リスト説」の三つに大別されますが、第3章「存在してしまうことがどれほど悪いのか」において、それぞれ「内在的な快楽を追求するために、人生を始めることは馬鹿馬鹿しい」「人生の多くの場合、完全に欲求を満たされることはなく、欲求が満たされない期間によって欲求が満たされた時の満足感を増大させるとしても、欲求がすぐ満たされたほうが望ましく、欲求が満たされることで得られる満足感は一時的である」「客観的な価値判断リストが存在しても、人間の人生の価値を判定する基準は永遠の相のもとでの超越的尺度でなく、人間の尺度で判定すべきである」と言った反論で論破されています。

それではなぜ人間が生まれてくるのか、あるいは産むのか、という現実への説明としては、ポリアンナ効果と呼ばれる、人間が悲惨な状況に対しても、楽観的に適応してしまう性質で、現実の苦しみを直視しないことと、人間の進化的な適応により、子孫を残そうとする遺伝子が残り続けるので、子孫を残そうとする個体が増え続けるという説明がなされます。

ベネター自身は、何らかの理由で人類は遠い将来絶滅すると予測しながら、その絶滅のタイミングが早く訪れた方が人類の苦しみがより少なく済むのでできる限り人類は早く絶滅した方がよいと主張しており、そのための避妊や中絶を奨励する言論を展開しています。

ただ単に人生が苦しいからという理由で生まれてきたくなかった言っているのではなく、分析哲学的な言語操作と論理的な思考に基づき、冷静な観点で「生まれてこないほうが良かった」と主張している点が個人的に面白かったところでした。

魔法少女まどか☆マギカの印象的なシーン

ところで、私は最近とあるドラゴンオタクの方と魔法少女まどか☆マギカの作品としての良さについて六時間ほど雑談する機会があったのですが、彼は鹿目まどかが神の視点から魔法少女たちを救済する美しさが好きだったとのことなのですが、私はアニメのエンディングにおいて、鹿目まどかのいない鹿目家の食卓シーンこそがあの作品のクライマックスでありピークなのだと強く訴えたところ、彼もその観点に同意し、「新海誠作品における一枚絵の美しさは、思春期の少年少女の感性の揺らぎと、世界全体の揺らぎの共鳴がセカイ系作品の特徴が表れていた。魔法少女まどか☆マギカにおいて、その食卓シーンで描かれた、「鹿目まどかの不在」こそが、まどかの救済による世界への影響を物語っており、それでも鹿目家の家族たちがまどかの面影をうっすら覚えているシーンに美しさがあり、それを描くためのストーリーと言えるかもしれない」と共感してくれた記憶が私にはあります。うろ覚えで自分が言っていただけかもしれませんが…

鹿目まどかは、魔法少女が願いを叶えることと引き換えに、戦いに身を投じ最終的に魔女に変身してしまう苦しみに満ちた運命を変えるため、「全ての魔女を生まれる前に消し去りた い。すべての宇宙、過去と未来の全ての魔女をこの手で」と願うことで全宇宙から魔女を消し去るのですが、この結末は「苦しみに満ちた生=魔女の存在」がなかったことにしているという点で、反出生主義的な幕引きだと個人的に振り返りました。魔法少女として快楽を味わいながら(希望を叶えながら)、苦痛を回避する完全な人生であれば、反出生主義的な観点でも、存在しても良かったことになり、過去現在未来の全ての時空において自分の存在を肯定する非常に喜ばしいシーンでしょう。

「出生/反出生ゲーム」と「繰り返しゲーム」

親が子を産むかどうかを決めて、子が生まれるかどうかを決める、ゲームがあるとします。仮に「出生/反出生ゲーム」とすると、このゲームでは、親が決めた戦略が、中絶や流産にならない限り、親の戦略が「産む」の時に子は「生まれる」となり、親の戦略が「産まない」の時に子は「生まれない」となるため、親側に決定権のあるゲームとなります。子側のプレイヤーの利得(効用)がどのような場合であれ、親側が「産む」ほうが「産まない」より利得が高まるのであれば「産む」を選択することが合理的になる観点から、親が「産む」選択をすることは「利己的」と言える状況であり、親のエゴで子が生まれるゲーム構造になっています。

鹿目まどかは強制的に魔女を「産まない」選択をしたので、魔女の苦しみを回避させ、魔女の利得を「存在させない」ことによって向上させた観点から「利他的」なプレイヤーだったと言えます。また、そのような利他行動には出生/反出生ゲームが延々と続いてしまう繰り返しゲームにおいて、確率rでの次世代への苦痛の伝播が起きるとしたら、一回の人生の苦しみをPとすると無限等比級数の公式から苦痛の合計値はP/(1-r)になりますが、親が利己的なプレイヤーであり続ける限りr=1であり、苦痛の合計値は無限大になります。鹿目まどかは全宇宙の全時空での魔女の存在を消したので、効用は無限大と推算できます。

鹿目まどかが救済を実行できたのは、暁美ほむらが、ループという繰り返しゲームで常にまどかのことを考え続けた結果であり、暁美ほむらの利他的な行動が積もった結果としてのエンディングであり、暁美ほむらのループでの苦痛=無限大の負の効用が、鹿目まどかの救済=無限大の正の効用になった、反出生主義的救済が効用の釣り合いを保ちつつ実現した美しい結末だったと読み解きました。

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