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久々に本屋を回りながら感じた出版業界と本というメディアの根本的な問題について

今日は久々に本屋さんに行きました。

私は本をkindleで買うか図書館で借りることが多く、最近はほとんどリアル店舗に行ってなかったので新鮮でした。

本がどのような企画を経て出版されたのだろうかという問題意識を持って、いろんな棚を観察しました。

普段、私が見ていたコーナーは以下の棚に偏っていました。

  • 技術書(プログラミング関連)

  • 学術書(数学、情報科学関連)

  • 哲学書(現実主義寄りの思想)

  • ビジネス書(自己啓発等含む)

今回、あえて普段行かない以下のコーナーを見ていました。

  • スピリチュアル

  • 老後の生き方

  • 終活

  • 独身女性の人生指南

  • 部屋の整理

  • アウトドア

  • 麻雀

  • 筋トレ

  • 栄養学

普段見ないジャンルだと、視野が広がって楽しかったです。

とはいえ、情報の正確さや有効性の点で疑問を持ちました。

体系的にまとめてないですが、おそらく出版業界や本というメディア自体の構造的な問題点で引き起こされている私の違和感について書いてみました。


出版業界の問題

科学的でない本が普通に並んでいる

「量子力学を勉強するほど、量子力学がまるでわからないものだとわかる」と聞いたことがあります。

波動の振動数で惹かれ合うとかは、理系に進んだ人間であればデタラメだとわかるのですが、理系に進んでない人間がそうだと思い込んでしまうのは、量子力学は極めて難しいため、仕方のないことだとは思います。

大体、スピリチュアルで量子力学に言及している人のプロフィールを見ると「一流大学卒、社会に出て精神を病むが、教えに出会って今は復活」というエピソードが書かれているケースが多い印象です。

その学歴であれば確信犯的にデマを撒き散らしていることは明らかですが、病んだ人間に対して、あまり個人名をあげて攻撃したいとは思えないです。

しかし、学術的な審査を通らないだけで、信用はここまで貶められるのかと驚きます。

そして、そうした言説を平然と並べる書店に対しては、稼ぐためとはいえ、プライドのない商売をしているなと思ってしまうわけです。

要するに、真実とか読者の利益とかはどうでも良く、ただ単に紙が売れればそれで良いのだという魂胆から、良くも悪くもハングリー精神が学べます。

知識不足で嘘を書いてしまう著者も、資金不足で嘘を書くしかない著者も、どちらも悲しい存在ではありますが、そうした著者を間接的に支援している中間業者も同様に残念に包まれていて、祈りを捧げずにおれませんでした。

しかし、そのような状態になってしまうのは、道徳的な問題だけではなく、経済的な問題も関わっています。

出版点数を増やさないと成り立たないビジネスモデル

内容が多少アレでも出版できてしまう理由は、出版社がとにかく出版点数を増やさないと成り立たない自転車操業だからです。

出版点数を増やすことで、最低限の販売数を中間業者に売ることで確定し、減少する売上を補うというビジネスモデルが根本的な原因になっています。

そうした営業努力があるからこそ、面白い作品が世の中に出ているわけで、内容が正確でない本であっても、出版業界に利益をもたらしていて、結果、文化の醸成には貢献しているという見方もできなくはないです。

しかし、それは、読者間の知的格差と情報格差をさらに広げるという点で、メディアとしての役割を果たせて言えるのかどうかには疑問が残りました。

本は別の商品の広告としての役割を持っている

本の著者は、本の印税ではなく、本で得た信用を使った本業の成功によって対価を得るケースがあります。

仮に1000円の本が1万部売れたとしても、印税の割合が10 %なら本の印税は100万円になります。

執筆に時間をかけて、商業出版ではそれなりの部数が売れた1万部であっても著者の労力などを回収するだけの利益が見込めなさそうな計算になります。

それでも本を出版したい人が多いのは、コンサルタントや起業家、医師など別の利益率の高いビジネスのある人が権威性を高めつつ顧客獲得へと繋げる明確な狙いがあるからです。

本自体の価値というよりは、その先のサービスの価値も込みで考えるため、読者は知らぬ間にセミナーの勧誘、それこそ「量子力学的成功セミナー」の扉を開いている場合があるというわけです。

YouTube動画やウェブメディアの広告はスキップしたいほど嫌悪するのに、本自体が広告の場合は、本はあくまでコンテンツであるという先入観から、スキップせずにじっくり取り組んでしまうという心理が働きがちです。

全てのセミナーが無益であるとは言いませんが、本を出版してブランド力を高めてまで売りたいものがなんなのかは、よく考えておく必要があります。

本というメディアの根本的な問題

アップデートの難しい固定的な形式

業界のメディアとしての役割とは別に、本というメディア自身の形式にも、柔軟さがないという欠点があります。

元々、時代を超えた昔の人間の思想と触れ合える手段の価値がありました。

それは、現代においても同様にあります。

例えば、noteというプラットフォームが事業の都合でなくなったとしたら、note上に存在したコンテンツは、電子的にはなくなります。

もちろん、プラットフォームがなくなる前にパソコンなどに保存をすれば、個人としては保管はできます。

しかし、低コストで多くの人に伝わり、出版社の審査を通過したお墨付きを保有する本は、広範囲で物理的に存在し続けるというメリットもあります。

問題は、最新情報を伝える上では、本だと企画されてから出版に至るまでの期間が長すぎて、出版される頃に情報が古くなってしまう恐れがあるため、「保存はできても旬が過ぎている」賞味期限切れに陥りかねないことです。

最近では、ChatGPTの本が出版されるたびに、出版時点でChatGPTに新たな機能が追加されていて、本の一部の記述が「時代遅れ」になっているような状況が見られました。

また、本はSNSと比べて情報を修正することが難しいので、内容の正確さを慎重に吟味すると考えられますが、経済や技術のような移り変わりの激しい分野に関しては、情報の正確さも「過去の情報の正確さ」を保証する以外の意味を持たないので、正確さにどれだけの価値があるかに疑問が残ります。

本以外の面白いメディアで溢れている

今、スマホを手に取れば、無限に画像、映像、AR、VRのようなメディアや、ユーザと対話してくれるAIなどもあるため、読者が能動的に読む必要のある本という手段への負担感が昔よりもより感じられるのではないでしょうか。

文字情報だけでは伝わりきらないものがあるため、逆説的に想像力を鍛える訓練にはなるでしょう。しかし、想像力を駆使することすら面倒と感じて、タイムパフォーマンスを最大化するのであれば、あえて本を読むことを選ぶ必然性はないと考えます。

本で売れた商品が、映像化されるといった流れもあるので、本を試作として市場に投下する実験として活用する道もあります。しかし、動画の制作へのコストが下がりつつあるのと、一般のアイデアが注目される過程は本でなくSNSでの認知であることが増えている現状では、制作過程でコストのかかる出版をテストマーケティングとして採用するのも有効でない気がしました。

出版当時理解されず売れなかった古典がある

歴史に残る古典のなかには、出版当時は注目されなかったものもあります。

これが、ただ単に商業的な失敗というよりは、同時代での理解を得られない作品こそが本物であるとしたら、本自体の抱えている致命的な問題であると考えられます。

なぜなら、商業的な成功を見込めない本は、出版社の企画を通らないので、時代を超えて残る可能性のある作品は、かえって見過ごされてしまう恐れがあるためです。

これは、本当に先見の明のある編集者が、商業的な成功を収められる形で、ロングセラーを狙った良質な企画へと収斂させる必要があります。

本を読むことが人生をよくするとは限らない

本の根本的な問題で、さらに本質的なのが、本を読むことが人生を必ずしも良くするとは限らないということです。

本に書かれていることは、あくまで事実または他人の意見です。事実は単に事実であり、それが絶対的真理というわけではありません。

他人の意見は、もっともらしく聞こえたとしても、著者に当てはまっても、自分に当てはまる保証はありません。

自分と生まれた時代や環境が異なり、持っている能力や条件が違うならば、そのまま真似をしようとしても、いつか無理が来ます。

結局、本から知ることができるのは他人のゲーム実況のようなものであり、あくまで自分が自分の人生を進めることでしか、難関を突破するポイントは体得することができないのです。

本を読むだけでなく、それをどのようにして自分ごととして活かせるかは、単に本を読むだけでは実践できないので、高度な能力が求められています。

どんな本が現代に求められているのか?

本屋さんをざっと回りながら、このようなことを考えていました。私も本は大好きだったので、いつか本を出したいなと思うこともありましたが、今は沈みゆく国の斜陽産業に自分から飲み込まれに行くという、タイタニック号に乗船するようなチャレンジの必要はないのではという考えになりました。

そもそも本を書くべき人間は本を書く時間が取れないほどにメインの活動で忙しい人間という言葉もあるので、本を出したいという願望自体の筋が悪い可能性すらありました。

こうした本にまつわるいろいろな問題点を列挙しましたが、それでもやはり出版業界と本は面白いとは思いました。

フィクション作品は結局嘘であり、何も情報の正確さだけが全て出ないのも理解しています。

スピリチュアルについても、人生を破滅させるほどの高額な商品やサービスなどを提供していないのなら、歴史的な都合で伝統的な宗教と切り離された日本の国民の精神の安定につながるなら、一概に悪とは言い難いでしょう。

むしろ、人間の間違いも含めて、その多様性を楽しんだ方が人生は良くなるとすらも思っています。

要するに、作り手や関係者に悪意がないのであれば、いくらでもやり直せるということです。

また、本からは多くを学んだので、私はこれからも本は読むことにはなると思っています。

以上の問題をクリアするような、現代に求められている本があるとすれば、それは次のような本ではないかと予測します。

科学的に書かれている

ここでの科学的とは、単に、高学歴で学問的なバックグラウンドがある人が書いたということではないです。

高学歴で学問的なバックグラウンドがある人でも、科学的でない本の出版をしているケースはあるからです。

重要なのは「内容の真偽を現実世界で検証でき、再現性があること」です。

内容の真偽を検証できなければ、本当に役立つと言えないし、再現性がなければ、特殊なケースについての報告でしかないということになります。

一見、科学とは関係なさそうなトレーニングやアウトドアの本でも、上記の「科学的」の定義を十分に満たした本があることは本屋さんで確認できて、少しホッとしました。

出版点数を増やす仕組みがある

出版点数が多いこと自体は悪いことばかりではないです。ニッチなニーズを満たす本が多いことは、文化の発展という点でむしろ望ましいと思います。

スピリチュアルの本からは、学べることがあります。有名人の霊との対談は出版点数を増やすアイデアとしては合理的ではあります。

大学受験の対策本も、大学の数と教科数だけ作れるのでわかりやすいです。

より本質的には、人間の脳がそれらへの快と不快を判断しているので、脳と神経の多様性に沿ったシステマチックな興味関心の分類ができるならそれがベストではないかと考えています。

読者一人一人のために書かれている

読者が自分で考えることをサポートするような本であれば、読者が考えない「他人の真似路線」に陥ることなく、本当に有益なヒントを掴むことになるのではないでしょうか。

一つの可能性としては、ChatGPTのような対話型AIに読者が普段書いているSNSの投稿やメモ書きを読み込み、そこから一人一人が人生について考えるヒントとしての「問い」を生成するプロンプトと、そのプロンプトの結果をさらに深めて自分なりの「答え」を導くためのフレームワークを提供する、脳科学の観点から見た脳の多様性も考慮した自分で考えるための書き込み式ドリルがあったらいいななどと、個人的には妄想していました。

私は本を読み飽きている可能性もあり、正直古典だけ読めば良いのではとも諦め気味だったのですが、やはりもっと面白い本に出会いたいなという欲望もあります。

他の人はどんな本を望んでいるのかななどとも気になるような週末でした。

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