桜梅的芸術論#4  『虚無』

私は自由である。たまたま手にした三連休を漫画を読んで過ごそうが自由なのだ。

私は、おおよそリバタリアン、そしてニヒリスト(積極的ニヒリズム)である。
 ただし、私は無政府主義者ではないので、完全なリバタリアンという訳ではないが…。

他者に自身の活動、ひいては人生を制限されることを良しとしない。
 友人も恋人も、自身の活動を縛るものは必要無いと切り捨てて約21年間生きてきた。
 私の身体、思想、能力、資本は、常に私の為にある。この世に産まれた理由などどうでもよくて、また生きる理由などは無い。
 人生の意味は、自分自身で考え出すものだ。
 自己犠牲精神は自身の人生への冒涜である。
 他者に依存する、不確かな何かを信仰するなど有り得ない。
 私のいう“幻想”は単なる思考に過ぎないのだ。

昔、『桃源郷を目指して』と標榜してインド神話をモチーフに何枚か描いたことがある。あの頃は、まだ幽かに私にも“信仰”というものがあった。超自然的めいたものを、ただそのまま美しいと思っていた。と、思っていた。
 それは、間違いであった。私が美しいと感じていたのは、装飾や模様、色合いの方であった。私が好んでいたのは、絵の表面であった。
 それからは、ひたすらに美しい模様を模索する日々だった。様々な資料を集めては、作品に落とし込むにはどうすれば良いかを考えた。随分迷って、分かりかけたところで、また困った。人物を描くのが楽しくないのだ。私が描きたいのは、人物の纏っている服飾の方であって、その奥の他人には関心が無いのだ。
 ちょうど、『月世界でお茶会を』を作った後ぐらいから、いよいよ何も描けなくなってきた。SNSの使用率も減った。

まず困るのは、ポーズ。複雑なポージングをさせたり、全身を描いて人物が小さくなると、服の面積が減ってしまうが、そのせいで私の絵はバストアップばかりなのだ。
 次に髪型。人物に関心が持てないせいで、髪型を考える気力が沸かないのだ。
 そして顔の造形。気を抜くと同じような顔になってしまう。そういえば、なんとなくでいいか…という気持ちのせいでだんだん人物が幼くなっていってる…。
 だめだーと思いつつこんなもんです。

ちゃんとやるのだ。今は宝石を擬人化しています。ケイ酸マンガン、菱マンガン鉱。えっさほっさ えっさほっさ


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