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「ハーレムアニメ」の依代としての男性声優:豊永利行の代表作『のうコメ』を振り返る(旧稿改題)

※本稿の「はじめに」と「おわりに」は全文書き下ろしである。


はじめに:『恋きも』評の付録として

ほとんどの場合、政治家は理論家にはなれない。そもそも思想ができないことが多く、政治家の過酷な日常には大きな理念に費やせるような時間的余裕もない。何よりも、理論家には間違いを認める態度が必要とされる。「知識の暫定性」である。理論上の難題は巧みな弁舌では解決されない。
――ポール・メイソン
(ヤニス・バルファキス(早川健治訳)『世界牛魔人――グローバル・ミノタウロス:米国、欧州、そして世界経済のゆくえ』那須里山舎、2021年、12頁、メイソンによる序文から引用)

 私は、先日投稿したTVアニメ『恋と呼ぶには気持ち悪い』(通称『恋きも』)評のなかで、主人公・天草亮役を演じた豊永利行について、TVアニメ『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』(2013年10月期、通称『のうコメ』)という忘れがたい作品が「豊永の役者としてのリミッターを何段階か一気に外してくれた」ことにさらりと触れた。

 『のうコメ』が2010年代に燦然と輝くギャグアニメの殿堂であることは疑いない。まずは、『のうコメ』を知らない読者のために梗概を述べておこう。茨城県水戸市で暮らす高校生の甘草奏(CV: 豊永利行)は、自ら「絶対選択肢」と名付けた呪いに行動を支配され、学園中から「お断り5」(容姿は優れているものの、性格や奇行から恋愛対象としてはありえないと判断された鼻つまみ者)の一人として白眼視される日々を送っていた。「絶対選択肢」は、①そんなことよりパンツ見せてくんない?/②この場でパンツを脱いでトレードを申し入れる(第3話)、①冷たい女たらしのキャラを演じて突き放す/②冷たい鼻水をたらしてつきまとう(第5話)、①とんでもなくつまらないダジャレを言う/②何があっても詰まらないと評判の排水溝になる(第7話)のようにふざけたものばかりだが、いったん「選べ!」という声(CV: 中田譲治)が奏の脳内に響き渡れば最後、どちらかの選択肢を選んで実行するまで、奏は激しい頭痛に苛まれることになるのだ。ある日、奏が「美少女が空から落ちてくる」という選択肢を選ぶと、空から神の使い・ショコラ(CV: 佐土原かおり)が飛来し、「あなたを助けに来ました」と言うではないか! こうして、奏は「絶対選択肢」という呪いから解放されるため、神から課されるさまざまなミッションに挑むことになる――。堅苦しく書いたが、『のうコメ』はミッションの攻略過程で起こるドタバタがとにかく楽しい快作である。未視聴の方は配信サービスなどでご覧になってから本稿を読まれると、よりご納得いただけるはずだ。
 声優の話に戻ろう。『のうコメ』の主人公・甘草奏役を好演した豊永利行が、8年越しに「アマクサ」という名字のキャラクターを演じることになるとは、偶然とはいえ面白く、豊永のキャリアは「甘草」と「天草」の2点を通る線で表現される、などと整理したくもなるくらいだ。しかし、『恋きも』の声優評のなかで『のうコメ』の話を長々とするのは迂遠であるとの判断から、『のうコメ』がいかに「豊永の役者としてのリミッター」を外すことに貢献したのかについては、呑み込まざるをえなかった。割愛したこの点を補足すべく、本稿を別立てで公開することに決めた。
 本稿は、私が過去に執筆した『のうコメ』に関する声優アニメリヴューを一部修正して再掲し、豊永利行の大きなターニングポイントとなった作品を振り返るものである。また、リヴューとは「再び見る」(Re-view)営みでもあるため、『のうコメ』の再視聴を通じて、8年前に執筆した文章を自己批判することも行う。前掲の『恋きも』評の付録としてお読みいただければ幸いである。

『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』評

(この節は2013年12月に同人誌に掲載した劇評を一部修正したものである。いま読み返すと目に余る部分もあるが、若書きのアーカイブであることに鑑みて、最低限の修正にとどめた)
 「のうコメのおかげで男性の方からもリプを飛ばしていただけるようになりました」。豊永利行のこのツイートに『のうコメ』の全てが集約されている。豊永が世間的には「ハーレムアニメ」とやらにカテゴライズされるであろう作品の主役を務めるのは、2010年代に入ってからは『お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!』(2011年1月期、通称『おちんこ』)に続いて二回目だ。何が豊永にこれほどまでの達成感と喜びを与えたのだろうか。『おちんこ』放送から丸二年以上が経過し、声優界は大きく変わった。豊永だって大きく変わった。本稿はそんな豊永の一つの到達点を明らかにするものである。

 誤解のないよう予め断っておくと、筆者は「ハーレムアニメ」や「ラッキースケベ」を低俗なものと評価しているわけではない。むしろ逆である。筆者の考えでは、「ハーレムアニメ」や「ラッキースケベ」にこそ、声優アニメの本質が見出される。というのも、「ハーレムアニメ」の爆発力は、主役に据えられた男性声優の説得力と牽引力(求心力と言ってもよい)にかかっているからだ。「ハーレムアニメ」に次々と登場しては喘ぐ女性声優の痴態や媚態を受けて前後不覚に陥るのは、ある意味素直ではあるものの、重大な一つの要素を見落とした態度である。そう、女性声優の痴態や媚態はもれなく「ハーレムアニメ」の主役を務める男性声優に向けられているのであって、我々に向けられているのではない。決して視聴者たる我々が主役に成り代わることはできない。この単純な事実に目をつぶれば、「ハーレムアニメ」を声優の観点から総合的に評価することは不可能となる。だからこそ、「ハーレムアニメ」の成功如何は男性声優の手腕にかかっていると言わなければならない。我々が「萌え死ぬ」だの「脳がとける」だの「シコった」だのと思考停止できるのは、女性声優の総攻撃を一身に受けきる男性声優のおかげなのだ。そして、『のうコメ』における皆のまとめ役こそ、豊永その人なのである。だが本作は、以上縷々述べた「ハーレムアニメ」の一般論にとどまらない。『のうコメ』は近年稀に見るストイックな作品だ。謎の光や湯気で隠されるお色気シーンはほぼゼロと言ってよく(謎の光や湯気を逆手に取ったギャグシーンまであったくらいだ)、「ラッキースケベ」展開も影を潜めている。恋愛沙汰や痴情を持ち出す代わりに、あまりに強烈すぎる個性を持った女性陣を配置し、これでもかとばかりに豊永扮する主人公・甘草奏を振り回すのが本作の基本線となる。
 第一に、メインを張る佐土原かおり、近藤唯、辻あゆみの三人には、徹底した二重人格ないし二重TPOが要求されている。本作で初のヒロイン・ショコラ役を務める佐土原かおりは、「できるだけバカっぽく、かつ空気の読めないウザい感じで」という演技指導を受けたという。つまり、豊永を徹底的に苛立たせることが当初から狙われていたということだ。雪平ふらの役・近藤唯は、不可思議な発音を伴う毒舌で豊永をきりきり舞いさせる。思わず「プァィョツ(パイオツ)」と声真似をしてしまったのは、筆者だけではあるまい。何をしても面白く聴こえる新人声優の特性を最大限活かした遊びが楽しめた。遊王子謳歌役・辻あゆみは、最近メイン級の出演が少なかったとはいえ、流石にキャリアの長さを感じさせる安定感でおこちゃま全開のキャラを演じきる。ブレーキが搭載されていないスピード感が豊永の気をもませる。このように日常シーンの間ずっと豊永に負担をかける三人全員に裏の顔があるというのだから、やりすぎで最高と言わざるをえない。豊永扮する奏は三人娘の純情な裏の顔まで含めて支えきる。豊永の好感度が上がらないわけがないではないか。「誓ったんだ……人の気持ちをふみにじるような選択肢だけは、絶対に……!」という最終話の台詞は、豊永の説得力をさらに一押しする。何気なくこんなことが言えるなんて、格好良すぎはしないか。従前の奇行とのギャップで、感動が堰を切ったように溢れだす瞬間である。
 第二に、脇を固める箱庭ゆらぎ役・大空直美、柔風小凪役・味里、麗華堂絢女役・松嵜麗、黒白院清羅役・五十嵐裕美は、徹底的に頭の悪い演技で攻める。こうして並べてみると、見事に新人から中堅までがグラデーションで並んだものである。むせ返るほどに濃厚な萌え属性のエキスだけで構成されたようなキャラクターを、成分無調整でそのまま放り込んでくるのは本当に頭がおかしい(褒め言葉)。次々に頭のおかしいキャラクターが声優渾身の解釈をもって迫ってくるために、「お断り5」は常に相対化されてしまう。こうした緊張感が、「お断り5」と「表ランキング」の対抗戦に顕著に見られた存在感の示し合い、意地の張り合いにリアリティを与える結果となった。本作は歯止めの効かない物語の展開ととめどない誇張を響かせ続ける声優陣のおかげで、最後の最後まで攻めの姿勢を貫くことに成功した。豊永は両陣営の限度を知らない大暴れに翻弄されつつも、最後まで耐えぬいた。ボロボロになりつつも発した「どもり」には圧倒的なライヴ感があった。拍手喝采。
 第三に、ベテランの声優陣が予想外の方向から容赦なく攻め立ててくる。「オラがクソアニメに出てる!」とでも言いそうな矢島晶子が、これまた萌え属性のエキスの凝縮であるかのような道楽宴先生として出演する。最近は『戦姫絶唱シンフォギア』(2012年1月期)の高山みなみ、『ダンガンロンパ』シリーズの大山のぶ代など、国民的長寿アニメの出演者を用いた「ずらし」が散見されるが、本作への矢島晶子の登用もその流れなのだろうか――と言おうとしてふと立ち止まった。『けんぷファー』(2009年10月期)の野村道子で既に、この手の「ずらし」は実践されていたではないか! 「ずらし」の系譜を辿ることはさておき、本作の鍵となる絶対選択肢/ナレーションを務めるのは中田譲治だ。アフレコの前には必ず原作を一読するという彼のプロ意識が、一瞬でピシャリと空気を引き締める発声に表れていたように感じた。『アマガミSS』の中多紗江パート(2010年7月期)で一番面白かったのは中田譲治の神ナレーションだったというのは衆目の一致するところだろうが、本作も例に漏れず中田譲治の存在感は群を抜いている。ストーリーの上でも存在感の上でも、最後まで豊永を苦しめた。そして、奏に情報提供を行う「チャラ神」に命を吹き込むのが、ナヨさを出させたらピカイチの立花慎之介だ。本作ではナヨさというよりは軽妙さ、いや軽薄さをビンビン響かせてきたので驚いた。このように、本作は視聴者にとっては発見の連続であるが、豊永にとっては先輩方から愛のムチを受ける地獄の現場にほかならない。極限状態に置かれた豊永はコメディアンとしての才能を開花させた。第2話の連続ギャグの「ホントにこんな売れない芸人いそう」感はただならぬものがある。だからこそ却って笑ってしまう。ここに来て、豊永は笑われてナンボなのである。
 以上の三段落をまとめてみよう。嵐のなかで『のうコメ』丸という船が沈没しないのは、豊永という辣腕の操舵士がいるからである。全編通して声優陣の迫真の殴り合いから構成された本作は、常に攻めの姿勢を崩さないという点で非常にストイックである。そして、豊永に「ハーレムアニメ」の主軸のみならず、全力のぶつかり稽古の受け手の役割まで担わせたという点でエポックメイキングかつチャレンジングである。豊永はこのハードな要請に応えきり、説得力と牽引力(ないし求心力)を備えた「頼れるお兄さん」としての名声を確実なものとした。本作を観て豊永の好感度が上がらない者はモグリである。いま思えば、豊永の「頼れるお兄さん」感の片鱗は、『アイカツ!』(2012年10月~)『絶園のテンペスト』(2012年10月期・2013年1月期)において表れていた。『おちんこ』から若干の準備期間を経て、いよいよ開花した豊永オリジナルの説得力。間違いなく『のうコメ』は豊永の代表作になるだろうし、21世紀(控えめに言えば2010年代)のアニメ史上に燦然と輝く名作となるだろう。『のうコメ』はどの角度から眺めても完璧としか言いようがない、完全無欠の声優アニメである。
 さて、こうして『のうコメ』を考えてきた筆者の脳裡に、『のうコメ』と似たような方法論で編まれた一つの名作が思い出された。その名は『アキカン!』(2009年1月期)という。我々がいま『アキカン!』を視聴し直すと、福山潤は勿論として、豊崎愛生と悠木碧に改めて驚くに違いない。数年後に『のうコメ』を視聴し直すとき、一体どんな驚きが巻き起こるのだろう。これだから声優は最高で、その飛躍は至高なのである。

おわりに:『のうコメ』の遺産とその限界について

(2023年7月11日追記:過去に執筆した文章を読み返し、一部の表現に反省すべき箇所があったと判断したため、本文に修正を加えました。)
 「数年後に『のうコメ』を視聴し直すとき、一体どんな驚きが巻き起こるのだろう」と書いていた8年前の自分にまず言いたいのは、驚きはいわゆる「ポリコレ」の方向からやってくるということだ。いま改めて『のうコメ』全11話(TV放送分10話+OVA)を見返して目につくのは、ある種のルッキズム(容貌差別)とゲイフォビック(ゲイ恐怖症的)な描写である。
 前者については、第1話から早々に登場するご近所さんの権藤大子(CV: 古城門志帆)の使い方が気にかかる。「ブスな女から情熱的に迫られる」という笑いは、『釣女』(歌舞伎舞踊、1901年初演)の醜女からガモウひろし『とっても!ラッキーマン』の不細工です代に至るまで、本邦の「伝統芸能」の域に達していると言っても過言ではないが、わざわざイケメンの主人公にそのような女性をぶつける必要があったのかはどうしても疑問が残る。仮に権藤大子が容姿端麗であれば、迫られた主人公が「ヒエ~ッ」という感じにはまずならないのであるから、権藤大子の登場シーンの背後には、不器量な者に「罰ゲーム」と称して告白を強いるような残酷なせせら笑いが控えていると言うべきであろう。
 ルッキズムに関連して、大学講師・ライターのトミヤマユキコは「未来の森喜朗」に待ったをかけることの大切さを訴えているが(下掲記事参照)、確かにルッキズムとミソジニー(女性嫌悪)が近接した問題であることは否定しがたい。第7話で「お断り5」のチーム名を「ザ・スイーツ(笑)」にするというボケが出てくるのも、2013年当時の「女叩き」の最前線と見るべきなのだろう。

 後者については、2000年代から2010年代前半にかけてのインターネット・ミームの悪影響を強く受けていると言ってしまえばそれまでだが、「ノンケ男性がゲイから無理矢理犯されそうになる」という笑いが繰り返し押しつけられるのはかなりつらいものがある。第3話から「柔風親衛隊」と称して主人公のケツを狙う男が登場し、第4話では山川純一(ヤマジュン)の漫画のパロディが「挿入」されるなど、見ず知らずの男から無理矢理「掘られる」ことを笑いに変えようとする姿勢が前景化している。さらに、第6話では「いい加減掘っちまうぞテメエ」、第9話でも「それはそれ、ホモはホモです」という台詞があるなど、『のうコメ』には全編通してゲイいじりが蔓延している。
 ただ、これは『のうコメ』の特質と言うよりは、2010年代前半の空気感のなせるわざと言うべきであろう。例えば、『R-15』(2011年7月期)の第6話では、スランプに陥った天才ポルノ小説家・芥川丈途(CV: 合田彩/現・喜多丘千陽)に「筋肉同好会」の屈強な男たちをけしかけ、女への渇望を呼び覚ますことでスランプを脱出させる展開が見られるし、『俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」としてゲッツ♡された件』(2015年10月期)では、主人公・神楽坂公人(CV: 田丸篤志)が「マッチョな肉体にしか性的興奮を覚えない筋肉フェチであり、ガチのホモ」であるという嘘の設定が鍵となっている。名家の令嬢たちが集う清華院女学校でただ一人の男=「庶民サンプル」として学園生活を送るために同性愛者という設定が必要になるというのは、かなり露骨なゲイフォビアであろう。ちなみに、一橋大学でのアウティング被害によりゲイ男性が転落死したのは2015年8月24日のことであり、いま振り返ってみると、2015年の第4四半期に本格的なゲイいじり作品を放送するのは相当挑発的であったとも言いうる。
 以上の指摘に対しては、何をバカアニメにムキになっているのか、お前も8年越しに「ポリコレ棒」に打擲されたのかという反論・揶揄があるかもしれない。しかし、小山田圭吾のいじめ問題もさることながら、悪趣味な文化を無邪気に享受していた当事者が「現代の価値観で過去を裁くな」と騒ぎ立てるのは傍から見て大変醜悪であり、文化の愛好者であればこそ不断の自己批判を厭わぬ気概が求められると言うべきではないか。「人の気持ちをふみにじるような選択肢だけは、絶対に……!」と主人公に言わせていた『のうコメ』にも、他人(とりわけマイノリティ)の気持ちを逆撫でするような要素が含まれていることは当時からわかっていたはずだが、8年前の自分はそこを糾弾することを怠った。要は、私は「ギャグアニメ」の可能性を優先し、差別的な要素を些末なこととして捨象したのである。
 言うまでもなく、ルッキズムやゲイフォビックな描写はギャグアニメ(ないしバカアニメ)に欠かせないなどという主張は成り立たない。「誰も傷つけない笑い」が本当に可能なのかどうかはともかく、差別・憎悪的表現を公の商業媒体で発信することは(売上至上主義的な観点からしても)不適切だと言うほかない。『のうコメ』に関しても、前述のような差別的描写を排除したら『のうコメ』らしさがなくなるなどということはなく、これは言ってみれば残渣にすぎないのである。
 それゆえ、本作を手放しに全肯定することはさすがに不可能であって、「21世紀(控えめに言えば2010年代)のアニメ史上に燦然と輝く名作」という8年前の評価が不用意であったことは認めざるをえない。しかし、問題点を認識することで、ひとは同じ場所での座礁を回避することができるはずだ。そこで、本作を今後のギャグアニメを計る試金石とすることは許容する、という態度を暫定的にとることにしたい。いささか歯切れの悪い結語ながら、ギャグアニメが役者の可動域を広げるということまで否定するのは難しく、ギャグアニメの力を差別ではなく風刺によって増幅させる可能性は十分に残されているため、このような不徹底で無様な姿勢をとることを選ぶ次第である。かかる物言いを「言い訳」と解釈するかどうかは読者に委ねられているが、本稿がブリコラージュの一種として読まれるとすれば、私にとってこれ以上の喜びはない。

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