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人生の節目、あるいはコンマについて5

「いっけいくんの携帯につながらなかったって、実家にかかってきたんだよ。あんたすごいじゃんー、本当におめでとう!」

電話の向こうで、妹が話をつづけている。

そうか、とはたと気がつく。銭湯に入る前、脱衣所で鳴っていたあの着信。てっきり家具屋からの連絡だと思っていた、地元市外局番の電話番号。


あれは、●●大学からのものだった。補欠合格の、繰上げ通知。


頭の中が、にわかに慌ただしくなる。同時に、胸の音も高く鳴り始めた。なんということなんだろう。なんというタイミングで。

現在、月日はもう3月の終わり。ひと月以上前に決めた、九州という僕の進路。それ以来、下見へ行き、住まいを借り、1,000kmをトラックで走り家具を運び、他に必要なものはすべて購入し発送手続きを済ませた。「戻る頃には小学生か」なんて妹に抱かれ眠る甥を眺めながら、家族に見送られて僕は夜行バスに乗り、今ここ京都にいる。

一昨日昨日と同様、今日明日と友人に報告を済ませたあと、この街から新幹線に乗れば、その数時間後には現地へと入る。改装されてまもない駅を出てから大通りを渡り、並木道をしばらく歩く。大学病院の敷地に入り、一階が薬局の小さなビルに到着したら、まずエレベーターで最上階へ出向き、優しい大家さん夫妻に到着の挨拶を済ませる。そして三階へと下って自室の扉の鍵を開け、まだ家具の揃っていないがらんとした部屋にひとり、靴を脱ぎ足を踏み入れる。そうして僕は翌週の入学式を控え、ひとりの下宿者として、この地の新参者として、六年間の生活を始めていく。

それはこれまでに何度でも、心に決め頭に思い描いていたことだ。それ以外の未来など、ありえなかった。これこそが自分に与えられた選択であり、この与えられたカードで、僕はとにかく人生というゲームを続けるしかないと。これが自身にとっての運命なのだからと、そう何度も言い聞かせてきた。

それが今、まさにその運命へと飛び込もうと身体を屈(かが)めたその時、突然に提示されたもうひとつの選択肢。まったく思いも寄らなかった、別の未来の可能性。

地元で過ごす、六年間の大学生活。家族と共に暮らし、よく知る街で、馴染みの電車に乗り、市営バスに乗り、学校へと通う毎日。

これまでに昂(たか)め続け、そして固め続けてきた心を、いきなり引きずり下ろされるような感覚。それが自身にとっての、素直な気持ちだった。

予想に反して、電話越しに曖昧な反応を続ける僕を不審に思ったのだろう。妹が訝(いぶか)しげな調子で畳み掛けてくる。

「...ねぇいっけいくん、もちろん戻ってくるんでしょう?」

僕は平静を装いながらも、半(なか)ば上ずった声で応えた。

「父親はこのこと、もう知っているの?」

「いや、今お母さんと二人で喜んでたところ。まだお父さんには言ってない」

「そうか。ちょっと電話してみるよ」

「わかったー。学校にも折り返しておきなよ」

妹との電話を切ると、大変なことになったなと思いながらその手で電話をかける。父親は報告を聞くと、僕と同じく「えぇっ」と驚いた声を出した。

「このタイミングかぁ。もう少し早ければ素直に喜べたけれど、今はどれだけ九州に思い入れがあるのか、私にもわかるからなぁ。自分が納得できるような選択をしなさい、それについて何も言わないから」

この父親の応答は、僕の気持ちを随分と楽にしたように思う。彼はこの一ヶ月のやり取りを通じて、今の僕が感じている戸惑いを、よくわかってくれていたのだ。また、僕は父親自身も、あの南方の地をそれなりに気に入っているように感じていた。駅前にあるステーションホテルでは、朝食のパンがとても美味しいとご満悦だったことを思い出す。トラックで息子二人と2,000kmを走ったことは、やはり彼にとっても大きな出来事だったのかもしれない。

僕は、ありがとうと伝えて電話を切った。まだ全身には浴場で温めた熱が残り、服の下では汗がじんわりとにじみ出ている。

(つづく)

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