18年間生きてみて。

18年間生きてみて。

今日で僕が生まれてから正真正銘18年が過ぎた。ジャネーの法則では19歳が体感的に人生(80歳)の折り返し地点らしい。たしかに、そんな気がする。きっと今まで通り、「僕」は僕だろう。こればっかしはどうしても変えられない。風が強いとか弱いとか。暑いとか、寒いとか。お腹が痛いとか、頭が痛いとか。。変わらないもの。変わっていくもの。。変わっていくものも僕には変わらないもののように移る。生命が消えたり、した時にやっと、実感する。誕生日を迎えた時にやっと、実感する。
どんな風に変わってきたのか。生まれてきて、今日まで知らないうちにどれほどのものが変わっているのだろうか。そして何が変わらずにいるのだろうか。すべてのものは「変化」している。そう本に書いてあった。蛍光ペンでマークもした。僕たちは全員大きなゆっくりとした波に流されているだけなのかもしれない。時々ちょっと波が荒くなったり勢いが早くなったりすることもある。でも、止まることは決してない。どんぶらこー、、、どんぶらこ、、、とのっそーりとそして着実にその巨大な波に流されているのだ。

あと一年生きたら10代が終わる。恐ろしいが、でも僕のやることは変わらない。やりたいことを本気でやるだけだ。

思い返してみれば、10代はいつも勉強をしていた。俗にいう勉強は16歳(高校)からだが、人間関係(いじめたり、いじめられたり、一人ぼっちになったり、、)、将棋、中学の受験勉強、実況動画の撮り方、サックス、Twitterでの有名への試行錯誤、テスト勉強、留学、ベース、フラワーアレンジメント、バスケ、プログラミング、塾講師、恋愛、哲学、文学、英語、卒論、地学、ゲノム編集、AI、、、数え切れないものを勉強してきた。いつもそれは新しいものだった。だから僕はいろいろなことが実はできる。いろいろなものだから、なかなか一つに決まらないのだ。

あと一年で20歳を迎えるという現実から、そんな抵抗のしようのない恐怖から、ここいらで一旦「僕」とは一体何者であるのかというのを整理する必要に迫られているように感じる、から整理する。しよう。
僕は本来真面目な人間だ、ただし、その真面目さゆえに不真面目さを求めている。旅人のような。そんな不真面目さを。
そして、独立心が強い。自律しているとかいう話ではなく、心の話である。完全個人至高主義と自分で名付けてしまうほど、僕はひとりを好むし愛する。というのも、第一他人の人生は操作不可能だからだ。おもしろくないし、それじゃあ何の意味もないからだ。その人しかその人の人生を動かせない。だから、僕にはどうしようもない話なのである。嫌なことがあっても、選択肢は容認か、放置だけだ。

そういえば18歳のうちに新しい考えというのは少し生まれた。
ひとつは、「個人至高主義は他社幸福に派生する」というものと、「知っているのにやらないのはただの怠け者じゃないか」というものだ。(もう少しあったかもしれないが、現時点で忘れているのなら、それはもうないものだろう)
他社幸福の話は大事だ。ただ既にしたことがあると思うので、それはもう大丈夫だろう。
二つ目の話をしよう。大切なのは2つだ。まず「知ること」である。知っていなくちゃ何もできない。そして、自分が知らないものを知ることもできない。だから、手当たり次第に、手探りでいろいろな物事に参加することだ。僕はいろいろな説明会などにできるだけ参加をしている。知るためである。特に、「時間という資産」や孫さんの話、トビタテやWILLFUなど、ホリエモンのTEDや、もうそれはそれはたくさん知った一年だった。本ももちろん読む。授業も受ける。それは何もかもまず一つ目に大事な「知ること」のためである。
二つ目は「やること」である。知っているだけでは意味がない。やって初めて結果が生まれる。結果が生まれないものは、あてもなくても意味がない。やらなくちゃ何の意味もないのである。そしてこれがなかなか多くの人間の苦手なものだ。なぜならこれは能動的にこなすことが不可能だからである。ここで別れる。できる人ができない人か。

これからも僕は変わらず勉強をしていくだろう。これは割と安心して言える。なぜならそういう性格だから。

実行も結構好きだ。でも、まだまだ満足できやしちゃいない。実行する。思えばこっからの一年は実行しまくりの一年になるんじゃないかと思う。インターンもあるし、音楽もそうだし、作品も作るし、webページもそうだしICUをかき乱していくとも思う。

僕はできる人間か。いた「できる人間」というのは不真面目を追求する僕にとって褒め言葉にはならない。
僕が欲しい言葉は「天才」である。
僕は天才か。どうか。それは常に試されている。1分1秒と。