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子供が不登校だった時、行動したこと。


小学4年の秋から
中学3年の卒業まで不登校だった娘。
保健室登校、応接室登校、適応指導教室、教室を
あれこれ試しながら過ごした。

最終的には、
娘には適応指導教室が合っていたみたい。


息子は中学1年の1月に
インフルエンザで欠席したのが
きっかけで不登校になって
中学3年まで適応指導教室や
中学校の応接室で
過ごしていた。

給食が食べたかった息子には
応接室登校が合っていたようだった。



2人とも高校に入学してから
学校に行くようになった。

息子は休んだりしながら
も授業に割と出席して成績も良かった
ので指定校推薦で大学に入学。

大学に入学してからも
成績を維持しつつ飲食店でのバイトと
両立しながら順調な毎日を送っている。


娘は不登校だったっけ?
と言いたくなるほど高校に入学してから
週5日当たり前のように
学校に行くようになった。

何で学校に行くようになったのかは
結局のところわからないけれど

これがいいんじゃないか?
ということは
手当たり次第なんでも出来ることはやった。

児童精神科に通院した

12年前、家出する直前から精神的に不安定だった子供達。

家出してシェルターで3週間過ごし、母子自立支援施設へ入所することした頃、児童精神科に通院を始めていた。


授業に集中できず落ち着きのない息子は発達障害ADHD、保育園に行き渋る娘は母子分離不安障害と診断を受けていた。

ずっと通院を続けていたため、不登校になったことは相談しやすかった。


娘は鬱状態だったため、抗うつ剤などを処方
された。

息子は自分と同じく気分の波があったので
双極性障害の薬デパケンと抗うつ剤を処方された。

通院して子供達が何かしてもらうというより
私が叱られることが多かった。
不登校の子供への接し方が分からなかったから
失敗ばっかりの日々。
息子の診断も反応性愛着障害へ。

間違えた対応をしていたなぁ。


訪問看護をお願いした

精神の訪問看護で男性の作業療法士さんと
女性の看護師。

週6日!!
ほぼ毎日、息子、娘、自分の3人に
約2年間来てもらっていた。
後にセクハラに遭いやめることにしたけど。

男性の作業療法士さんが週5日来ていて
コンビニスイーツとか買って来てくれて
皆で楽しくスイーツ食べたりしてたっけ。

時には息子に勉強を教えてくれたり
漫画やDVDを持ってきてくれたり。

自分は心理学や精神医学、いろんなことを
教わって本当に勉強になった。

そこで一番学んだことは
『サボる、甘える、頼る』

被害妄想は自分が思っていることを
相手に投影していること、とかね。

訪問看護に頼るってことも
最初は抵抗があって
自分で不登校を解決しなければって
気持ちも強かった。

結局プライドが捨てられなくて
人を頼れなかった自分に気づいた。

登山を始めた

やってみたかったことに挑戦しようと
思うようになった。

作業療法士さんからの指導でも
子離れできていないことを指摘されて
自分の世界を持ったほうがいいなって。

山のサークルにポッと入って
最初に行った山は
妙義山!!

どんな山だかもわからず登ってみたけど
ロッククライミングのような
鎖場といって鎖をよじ登って上がっていくような
山で頂上は一歩足を踏み外したら
命を落とすようなところ。

一家心中しようとしてた私には
命の大切さを身に染みて
いい経験になった。

そこから登山にハマって、
金時山、赤城山、大岳山、日の出山、高尾山に
登ってコロナ禍に。

英会話教室の体験にワンコインで行ってきた

英語が得意だった学生時代。
20年以上経ってるけど英語どのくらいできるかな。
500円で体験できるなら試してみようと
入門クラスへ。

当日教室へ行ってみると
全員日本人、先生も。
だけど日本語は一切話さず英語のみ
なんだけど知らない単語ばかり
飛び交って
全然わからない。

質問されても
何を聞かれても聞かれてることも
分からず手も足も出ない感じで
本当に挫折体験。
学生時代得意だったけど
予習もせずに
よくもいったもんだ。
英語をなめてた。
20年以上経っていたら
勉強も忘れるし。


陶芸にチャレンジしてみた

モノ作りが好きな自分は陶芸もやってみたかった。
最初から急須にチャレンジ!!

難しい。

オリジナルの急須を作って作品を応募した。
作品の出来はひどいもんで
最近思い切って断捨離しようと捨てちゃった。

思うように作れないものなんだなって
初めて知った。
またまた挫折体験。
でも経験は大事だなということを

チャレンジしてる親の姿から何か
感じ取ってくれたらいいなと
背中を見せるつもりで
いろいろなことにチャレンジした

ずっと働いてた水商売から足を洗った

家出する数年前から貯金するため
家出してからは生活と貯金のためと言いつつ
性依存症だったんだと思う。
なかなか水商売から抜けられなかったけど
子供に胸張って言える仕事じゃないことを、
子供が自分の仕事のせいでいじめられてるのでは
とか妄想がすごくって
辞めることを決意。

辛いことももちろんあったけど
楽しかった思い出のほうが強い。

でも、もうやりたくない。

2度目の離婚裁判に出廷しなかったモラハラ夫に連絡を取った

2回の離婚調停、離婚裁判となった我々夫婦問題の
最終回で夫が出廷しないという結末で
判決離婚した。

離婚にはなったけれど
話し合いが出来ていないことに
納得がいかなかった。

子供達のことも私のことも
捨てられてた。。。
そう絶望もしたけど
勇気を出して手紙を送った。

DV被害で逃げていたから住所とか
分からないようにしていたのに
血迷って差出人住所を書いた。

数日後、元夫から手紙が届き
連絡先が書いてあったので
電話をかけてみた。


子育てに困っても
一番そのことを伝えたくない
頼りたくない相手だった元夫。

元夫だけは
頼りたくなかった。
けれど背に腹は変えられない。

行き詰っていた自分には
どんな手段だって
子供達が良くなるためなら
なんだってする。
そんな勢いで元夫に
説明した。

そしてできる限り
協力をお願いしたいといった。

面会交流をする際の仲介に努めた

子供達がパパと交流するといっても
怖がっているし
月日も経っている。

すぐに子供達とパパだけで会うことは
難しい。

子供達と交流する前にも
元夫と自分の話し合いも必要になってくる。

何度も何度も元夫と直接会って話したり
電話で話したりと続けた。

面会交流するときは4人で会っていた。
その方が子供達も安心するからという
理由で。

ほとんどが子離れできない自分を相手してくれる
誰かを探していた。

婚活パーティーにも参加したし
山の仲間など出会いもあった。


けれど、子供達が未成年で
新しい見知らぬ彼氏をひょっこり連れてくる
ということで娘に何か被害がいくのではないかとか
息子も被害にあったらとか
考えると元夫のほうが
まだ安心だ、という結論に
たどり着いたから夫にお願いした。

2回離婚したけれど
元夫が忘れられなかったんだと思う。

元夫は息子にも、娘にも
それぞれと出かける日ができて
謝ったそうだ。
詳しい内容は自分は知らないけれど。

仲介に入るのは苦しい時もあった。
元夫とも関係が改善したわけでもない頃は
特に。

食事中、たまに席を外して外で待っていたことも
あったなぁ。

不仲だった母とも話し合いが出来るようになった

長年、自分の母との関係を悩んでいたけど
子供の不登校を機に、自分は自分の統合失調感情障害を
認め、受け入れて落ち着いたことによって
母と話し合いができるようになった。

自分も正直な気持ちを話すし
母も正直にはなしてくれるようになった。
ケンカもできるようになった。

今、心は割と穏やかで無理しないで
生きられるようになってきた。

良いお母さんを卒業し
ポンコツだけどポンコツなりに
出来ることをして生きる。

ちょっと変わったお母さんかも
しれないけれど

そんなお母さんくらいで
子供にはちょうどいいのかな
自然体で。

とか思うようになった。

泣いたり、笑ったり、落ち込んだり悩んだり
怒ったりコロコロ気分は変わるけど
真の部分、自分はこう思う。
みたいな部分はそこまでズレなくなった。

失敗してもいい。
間違えてもいい。
引き返してもいい。


そんなありのままの自分を
さらけ出して生きられるようになって

ずいぶん楽になった。

公園で会ったおじいさん

子供達が思うようにいかないと怒りが沸いていた時期に
よく歩いた。
歩くとスーッとする。
歩いてもスッキリしない時は走ったりもした。

よく行く公園である日
おじいさんに話しかけられた。
おじいさんの過去の経歴などを話してくれて
聞いてるうちに

『うちの子、学校行ってないんですよ』
とついこぼしていた。

おじいさんは
『お母さんが笑って過ごしてるといいよ』
と言っていた。

自分がどんな状況だったとしても
笑っていれば子供達は
元気が出る。

子供が不登校だとどうしても
悩んでしまっていた自分は
段々と学校行かない生き方もいいじゃないか、
子供達がずっとそばにいる生き方も
いいな。
子供達が愛おしくてずっと一緒に
いたいと思うようになった頃には

子供達は友達を作って
自分の世界を作って
飛び立ち始めた。

たまに甘えてくっついたりしてきた
時にはたっぷりスキンシップをとって。


いろいろやってみて思うこと


何が良かったのかは結局わからない。


他にも、

歌のオーディションを受けて
審査員5人くらいの前で
アカペラでEGO-WRAPPINの
『色彩のブルース』を歌ったり
(カラオケも得意でもないのに)
子供達に失敗してもいいから
チャレンジするってことを
背中で見せたかった。


占い師を目指して占いの講座
受けたりとかね。
いろいろやった。



子育てで大事なのは見守り信じること。
簡単なようで難しい。

子供を信じるためには
自分を信じられなくてはできない。

自分を信じられるようになるために
やろうと思ったことは行動に移して良かったかな、と思う。

自分の不安から子供を心配して
失礼だったなということも気が付いた。

我が家の子供達は自分が思っている以上に
良くできる子供達だって
知ったのも適応指導教室の先生から
話を聞いたりして。

勉強もできるし、運動も得意。
何より賢い。

自分がポンコツだから
子供もポンコツでくくっていた
ことがあぁ恥ずかしい。
子供のこと見えていなかったんだなぁって。

子供を信じて見守るようになって
グングン成長していく姿は

今まで何の心配をしていたんだ自分。

子離れできなくて
子供にしがみついてた自分を
救ってくれたのは元夫でした。

母子密着の状態から
変化したのは
元夫の存在があってのことじゃないかと思う。

パパがいてくれることで
ママへの心配も軽減したんじゃないかな。


絶対に元夫だけは不登校のことで
頼りたくないって思ってた自分の奥の奥まで
子供達に全部見抜かれてたと思うこの頃。

子供って親の隠したい部分ぜーんぶ
さらけ出すまで引っぺがすよね、本当に。

こうして我が家の不登校は、元不登校になっているけど
またいつ不登校になるかもしれない、気持ちを
持ちつつ、子供を信じて学校に送り出している。








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