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#463 「違和感センサー」は今日も順調に作動中

 今の私の生活のなかで大切にしていることがいくつかありますが、その一つに違和感を持ったら、その感覚を大切に、その正体を突き止めることがあります。

 私は昔から普段の暮らしの中で様々な事柄に違和感(納得できないこと)が多くある人間でした(もちろん、自分の無知や傲慢さに起因するものも少なからずあるわけですが)。ただ、自分が所属する組織や集団で「常識」や「当たり前」とされている事象に対して、その価値観を受け入れる方が過ごしやすくなります。しかし、私の場合、それは極度のストレスとなり、結果辛い思いをしたこともあります。

 違和感とは、自分の心が「ほんのちょっと」ザワザワする感覚。その「ほんのちょっと」をやり過ごさないことは自分が自分で存在するためには必要なのだと感じています。

 私が時々拝聴するラジオ番組「生活は踊る」のメインパーソナリティーを務めるジェーン・スーさんが「違和感の正体」についてのエッセイを婦人公論に寄稿したという記事を見つけました。

 自己防衛のために、違和感という名の勘が働くのは良いことだ。「なんだか違和感がある。早く帰ろう」とか。しかし、すべてにおいてジャッジメンタルな人間にはなりたくない。だが、確実にそうなりつつある。「違和感」という言葉で、私は他者をジャッジしている。そして、どこかで自分の違和感を絶対的に信用している。恐ろしいのは、自分が他者に与える違和感を察知できないことだ。私が他者に「違和感があるよ」とは言わないように、他者も私にそうは言わない。だから、心と言動がそぐう状態にあるかを、自分でこまめにチェックするしかない。自分に嘘をつかないでいることは、子どもの頃からずっと難しい。でも、やるしかない。だって、私が違和感を持った人たちは、たいていあとから辻褄が合わなくなって、大変な目にあっているから。

 違和感は自分自身を守る防衛力として働く。一方、それはあくまで主観的感覚であるから、ジェーン・スー氏がいうように時にジャッジメンタルになり、他者の本質をしっかり理解する前にシャッターをおろしてしまう危険性もある。適切な違和感を抱くためには、その物事に対する確かな知識、その違和感が何なのかを考える思考力、、そして時間的幅をしっかり取ることが大切なのだと感じるのです。


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