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【第6話】ライチをむいたように

今回の2分で読める1000文字小説は、人生でたまにある心が震える体験がテーマです。日常の些細な瞬間にそれは突然やってきて過ぎ去っていきます。自分の中で消化しようにもよく分からないままで、次のきっかけを待つしかない。今回の主人公は、暇を持て余した学生です。時間つぶしにCDショップに足を運び無料ライブを楽しんでいたときにそれは突然やってきました。



1000文字小説

 今日もまた自転車を走らせCDショップがある商業ビルにやってきた。ビルの1階につくと本日13時から我那覇さくらの無料ライブがあると張り紙が貼ってあるのが目に入った。そう!この無料ライブがたまに開催されるのもよく来るようになった理由だ。


 我那覇さくらとはラッキーだ。彼女はもうちょっとした有名人である。時計に目をやるとちょうど30分後の開催なので会場は一杯になっているだろうと半ばあきらめつつも会場がある7階に向かった。7階についた時は少し拍子抜けした。場所を間違えたかと思うくらい人はまばらだったからだ。数人しかいない。おかげでほぼ最前列を陣取ることができた。かなりついている。


 定刻から2,3分ほど遅れて彼女はギターを携えて登場した。おー、ギターの弾き語りか。一曲目は「涙」だ。ゆっくりとしたテンポに少し悲しげな歌詞が乗る。二曲目は「ふたつの春」、ヒットソングだ。気づけばギターの生音とともに彼女の歌声はただ耳に聞こえる音ではなく、私の体の中でも響いているようで、音に包まれる心地良さがますます高まる。普段はおざなりにしがちな、今という時間にこれほどまでに集中させてくれる。これを感動というのかはよく分からないが興奮にも似た気持ちはしばらくおさまることはなかった。


 私は社会人になってからもしばらくはこのライブの体験をする機会を作った。道端で歌う路上ミュージシャンの歌に足を止めることもある。しかし、ライブの良さは確かにあれど、あの時に感じた心が震えるような体験はほぼない。ある日「一口で分かる美味しいトマト」という本を夜な夜な家で読んでいたとき、珍しくも不遇な状況に陥った主人公の展開を夢中で追っていた。静かではあるが我那覇さくらの無料ライブで感じた時に似た感情のゆさぶりと高まりを感じはじめていたことに気づく。夜遅い時間であることも忘れ一気に読みきった。少しばかり読後感に浸っていると我那覇さくらの無料ライブのことが鮮明に思い出され何かが結びつく。

 そしてその何かの正体はすぐに分かった。共感だ。正確にいえば私のことだという錯覚だ。安易に正解ばかり選びがちな毎日の中ではひっそり隠している自分をじっくりと表現されている感覚に近い。私が感じていたのは、感動、羞恥心、新鮮さ、感謝、肯定感といったものが入り混じった奥深い味のソースのようなものだったようだ。なるほど中々体験できるものではない。

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