見出し画像

ティアキンの悪口を誰も言わない

はじめに

 キリストが生まれてから2000年以上が経った。未だに「ゼルダの伝説ティアーズオブザキングダム」の悪口を誰も言わない。

誰も言わないなら、書くしかない。だって俺はこのゲームが苦手だから。
嫌いというには複雑な感情があって、でもこのゲームの本質は、おれの好きとは相反するということが分かっている。

 本当はこの文章は6月ごろに書かれるはずだった。だけど当時身の回りの人にはだいぶ吐き出していたので、まあいっか…、となっていた。
そもそもレビューとかいちいち書いてるやつが異常者なのは言うまでもない。多くの人は自分の好きをそこまで追求しないし、それを言語化することもしない。

だけど、この9月にStarfield(スターフィールド)(※1)が出た。

ベセスダの設計思想はブレスオブザワイルド以降のゼルダの伝説と、完全に相対すると言ってもいいと思う。
そしてゲームとしての完成度は、双璧をなすと言っていいだろう。(良くも悪くも、かかっている金は、さすがにスターフィールドのほうが多いんじゃないだろうか。)
TotKやるなら、スターフィールドもやれよ。理不尽な怒りがある。自覚がある。いや、やれよいうか、知ってほしいんだよ。

今どき50時間もクリアに要するゲームをやると、しかもそれが人生で初めてのゲームだったりすると、それが世界で一番すごいものだと思ってしまう。

わかる、わかるよ、だけど世界は広いんだ。
世界は広すぎるから、それ以上のキャパシティが無いから、やってみてつまらなかったら苦しいから、面白すぎたら大変だから、仕事が忙しいから、夢が叶わないから、いつか死ぬから、ほとんどの人はゲームをやらない。

悔しいよ。

もしかしたらそこに人生で味わったことのないほどの喜びが、あるかもしれないのに。

(※1)任天堂が一生つくらないようなゲームを作って、売り上げを出している会社の作った新作ゲーム

結局ここで書きたいこと

 この文章は、BotWから続くゼルダの伝説のゲームシステムの素晴らしさ、そしてそれをなぜ俺が嫌っているのかを書き連ねることで、
「好きなものの好きな部分を考える」ということ、そのために「知らないことに手を伸ばしてみる」こと、について少しでも多くの人が思いを巡らせてほしいと願って、書いている。
ついでに少しでも、Skyrimをプレイする人口増えると、なおよいと思う。頼むよ。

任天堂はどれだけすごいのかわかってくれよ

 ティアーズオブザキングダムというゲームがある。これを知らない場合、以降の文章を読む必要はあまりない。

大変面白く、多くの層、本当に多くの層に届いている。
身の回りに、ブレスオブザワイルドでゲームを始めたという人も多い。当然、ティアーズオブザキングダムから始めたという人も多いだろう。
おれがいつ何時でも心のどこかでスーパーマリオサンシャインを思い浮かべてしまうように、あらゆるゲームアスレチックをティアキン由来のもののように思う子供もやがて大人になるのだろう。
この事実を胸に浮かべるとき、いつでも嬉しさがこみ上げてくる。
任天堂は素晴らしい会社だ。

太い幹を、作ろうとしている。

最初の一歩を、提示しようとしている。

やがて成長し、多くの枝分かれした趣味嗜好へと羽ばたく子供たち、いや、子供に限らず今からゲームを始めようとする人すべてに、原点として耐えうる強度の作品を送ろうとしている。

だからこの文章は書かれる。俺はTotKを心から楽しみ、そのゲームシステムのことを尊敬するし、メインはクリアしてるし、営利目的でもない。
だからこの文章は、どれほど俺がTotKの素晴らしさを認めていて、だけど嫌っているのかをひたすら書き連ねる。

もう一度だけ聞こう。あのゲームをプレイしている間、ムカついた瞬間は無かったのか?
ボスが強いとか瞬間的な怒りじゃない、もっと、背筋を這うような気持ち悪さと、猛烈な嫌悪感が、あの世界を歩き回る間、終始俺にはあったんだ。

ゼルダのオープンワールドがどれだけすごいのかわかってくれよ

 メチャクチャいいゲームであるということと、自分がそれにハマるかどうかは別だ。
ゼルダの伝説ティアーズオブザキングダムは、どう考えても素晴らしいゲームだ。前作の偉大過ぎる足跡を飛び越えて、文字通り飛び上がり、マップは前作の物語を引き継ぎながら、文字通り深化した。

ここでブレスオブザワイルドの功績を見ていこう。ブレスオブザワイルドのことが大好きな人間の何倍も、ブレスオブザワイルドの良さを語っていこう。

 2010年後半、オープンワールドは複雑化の一方をたどる中で、多すぎるつまらないおつかいクエストや、地形を生かしきれない片手落ちなメインストーリー、妙なバグやロード時間の長さで、飽き飽きされつつあった。
ハリウッド方式の大規模スタジオでの長期にわたる残業など労働問題も話題となる中、個性あふれるインディーゲームの台頭はその揺り戻しのようにも見えた。
2015年にUNDERTALEが発売され、世界はそれ以前とそれ以後に大きく分かたれたのも当然みなさん承知のことだと思う。まだUNDERTALEやってない???こんな文章読んでる場合じゃねえよ!!!
グラセフ5のオンライン売り上げは異常なもので、結局作りこんだフィールドをもとにオンラインゲームにするしかペイする方法は無いのかよ、と思ったりした。
国内に限って言えば、ハードの性能的にSwitchしかもっていないと大作オープンワールドへのハードルは高いのかもしれない、というのもあると思う。(※2)

 さて、そんな中、Switchローンチタイトル、あのゼルダの伝説の最新作ということで大きな注目を集めた「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」は、

圧倒的な面白さで世界をブチ抜いた。激震だった。

細かいことはどうでもいい。当然みんなクリアしているゲームの話だ。え?まだBotWやってない???もしかして100年の眠りから目覚めたばっかだったりする?

さあいったいBotWの何がすごかったんだろう。科学のちからってスゴくて、知りたかったらググればいくらでも出てくる。
しかし、まあだいたいのクソアフィ記事の記載には虚無が並べてあり、こんなん書かされた日には俺だったら脳に自殺の二文字しか浮かばないと思う。

ブレスオブザワイルドである必要がどこにもない虚無の文だ

 虚無のおすすめを見たところで本題に入ろう。

BotWの特徴は、一言で言えば、オープンワールドを、舞台ではなく、遊び道具として再構築したことだ。

ストーリーを語るための舞台としてのオープンワールドに対して、フィールド自体を操作できるという大きな箱庭としての遊びを提示したこと。これに尽きると、俺は思っている。
祠から出ると次の祠が目に入る。平原に、くっつけろと言わんばかりな金属片が落ちている。TotKにおいても顕著に見られる、唐突なヒントの提示は、しかし自分の力で新たに世界に影響を与えられる快感を適切に補助している。
複雑化、ますますの写実化の労力に対してストーリーが追いつかないゲームが多い中、徹底してストーリーなど不要なのだという「おもちゃ箱」を提供したのだ。
ストーリーやキャラクターは本質ではない。現代は魅力的なキャラクターで満ち溢れている。キャラクターの魅力を感じられるまでプレイできた(視聴できた、読み進められた)コンテンツがどれほどある?(※3)

 だから、オープンワールドを語るうえで「何でもできる」という言葉を使うのは、恥ずべきことだと俺は思っている。初めてゲームをした人ならともかく、感想にそれが出力されるやつは脳に致命的な壁抜けバグがある。
だってそうだろ。製作者が考えなければ何にもできないから、どこをできるようにすれば、まるで自由に動けるかのように錯覚できるのか、それを考えているに決まっているからだ。

じゃあ何ができて、何を捨てたのか。オープンワールドだろうが2D横スクロールだろうが、遊びである以上どんな遊びをさせたいのかが大事で、何でもできるゲームなんて面白いわけがない。

BotW、TotKはでっかい公園であり、遊具で、遊び方が決められていて、飛んだり跳ねたりすることがゆるく見守られている。リンクの行動範囲は広く設定されている。

───それは、俺の心の想像範囲を制限することによって、成り立っている。


(※2)これは嘘で、スカイリムはSwitchでかなり初期に発売されているはずだ。たのむからプレイしてくれよ。合わなかったらやめればいい。最初の一歩を、踏み出してくれ。

(※3)特にオープンワールドにおいて、2次創作は、そこに至るまでプレイできるという前提が必要になる。そもそもゼルダの公式はストーリーの整合性などハナから気にしていないことからも、明らかな話である。

おれがどんなにゼルダのオープンワールドが嫌いかということ

 任天堂式オープンワールドは、フィールドを直接作用できる動かせることで、動的な面白さを生んでいる。でもその主体的な動きのために、このフィールドは大量の過剰な導線を用意している。

例えば湖に小さな島がある。島に、一本だけ木が立っている。
川のほとりに、橋の素材がこれみよがしに落ちている。

なんでもできるはずのゲームで、何をするべきかを提示されている。

ひとつひとつは些細に見える。
綿密に練られた空気感がロケーションが、"そういうもんだ"とこちらに声をかける。

だがこのハイラルはどこもかしこも、なんだかリンクの能力を知っているかのように都合のいいアイテムが落ちている。崖には岩が突き出ている。
そうそれはまるで、通り抜けられる、天井のように。

極めつけはコログであり、唐突に現れる彼らは、ハイラルなんて世界はすべてゲームで、作られたロケーションを与えられた動きで進むだけの存在に過ぎないことをこちらに突き付ける。

繰り返し繰り返し、「ゲームの遊び方」を微に入り細を穿ち教えようとするフィールドは、駆け巡るうちに、飛び回るうちに、徐々に"世界"としての整合性を失っていく。ここは遊び場であり、ステージであり、”世界”ではないのだと、ゲーム自体がチラつかせてくる。

つまり、オープンワールドにおいて外的なデザインで行動を示唆されるのがたまらなく腹立たしいという話です。これは任天堂の発明の成功と引き換えにどうしても生まれる弊害で、両者は共存しえない。

 山に登るとき、山があり、登れるから登ろうと思うのだ。

そこに報酬があるとわかって山に登るとき、プレイヤーは自由を操作されている。
だからハイラルに雄大な自然などないし、どこまでも広がる大地など無い。滝は昇るためのギミックであり、山は頂上に報酬があり、盾でサーフィンするための装置であり、複雑な地形はすべて、公園の遊具に過ぎない。

魅力的な遊具があり、その遊び方を与えられていても、遊びたいだろ?遊びたいよな?と耳もとで囁かれ続けていたらやる気はどんどん失われていく。

バカにしてんのか?そこまで言わないとわからないと思ってんのか?いや、直接言ったわけではないから、おれが自分で思いついた気分になって喜ぶとでも?自由にしろと言うくせに、お前はずっと俺の前に俺が遊びたくなるようなおもちゃを置いて、後ろでずっとニヤニヤしている。楽しいか?お前はさぞ、楽しいだろうな。

俺は任天堂が嫌いだ。お前のその態度が、人の五感を刺激して、強制的に楽しませようとする姿勢が、それを可能にする賢さが、徹底した努力が、全部嫌いだ。

話を戻そう。
任天堂式オープンワールドは、エポックメイキングな発明であった。
そのうえで、俺はこの地形自体のおもちゃ化は、BotW、TotKのストーリーに一切寄与していないと考えている。いや~TotKはストーリーが良かったですね(唐突な思いだし褒め)。でもそれってゼルダならではのシステムとかでは全くないですよね。

つまるところ俺は物語が好きなので、ゲームシステム>>>>>>物語である任天堂が嫌いなのだ。

そして、地形は所与のものであって、そこに物語を生むのはプレイヤーであってほしいと願っている。歩き回っても何も得られないかもしれない。だけど、何かと出会えるかも知れない。そのつまらない時間が、自由に与えられているゲームデザインを、俺は愛してやまないのだ。

あと一歩、新しいことを

 TotKのことを好きな人は、もっと何が好きなのか考えてほしい。自分の好きなことの好きな部分を、もっともっともっと徹底して考えてみてほしい。そして、その好きの方向性をもって、他のゲームをやってみてほしい。

 スカイリム(The Elder Scrolls V: Skyrim)は2023年6月時点で全世界6000万本の売り上げを誇り、ブレスオブザワイルドの3200万本を大きく引き離しているが、ほとんどの人はスカイリムのことを膝に矢が刺さったゲームだとしか認知していないし、膝に矢が刺さっているのは名前すらないその辺のモブキャラであることすら、知らない。

名前すらないその辺のモブのセリフがなぜか耳に残るということが、キャラに皆名前があり、必然性を持たされたゲームしかやっていない人には想像すらできないことだからだ。

そのことが本当に悲しい。

別にやってみて、スターフィールドがつまらなくても構わないのだ。
ウィッチャー3のほうが面白いかもしれないし、ゴーストオブツシマが好みでもいい。俺もフォールアウトはそんなにハマらなかったし。

価値を相対化する、というと反発もあるかもしれない。
でもひとつしか知らないと、わからないことは多いはずだ。様々なものに触れて、知らない体験をして、美しいものを見て、比較と相対化の中に、自分だけの”絶対”が見つかるはずだ。

面白いとつまらないの先に、あなたの好きがあるはずだ。

そしていつか聞かせてほしいのだ。

あなたの見つけた、あなただけの”絶対”を。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?