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8冊目 『てぶくろをかいに』

幼稚園なのか、小学生なのか。そこははっきりしませんが、小さいときにこの話を読み、「いい話だなあ。」と思った記憶はあります。そのときの感覚をあえて表現してみるとしたら…

「出す手を間違えても手ぶくろを買えてよかった!」
「ぼうし屋のおじさんはいい人だなあ。」
「おかあさんぎつねは、そんな心配しなくてもいいのになあ。」

と、こんな感じでしょうか。ハッピーエンドの物語でほっとした感覚もあったはずです。

でもこの物語、大人になって読んでみると、また違った見方ができるなあと思いました。自分なりのキーワードとして思いついたのは、「対比」です。いくつかの対比によって物語は進んでいるし、話に深みが生まれているなあと思うのです。

1つ目は、「きつねの親子」と「人間の親子」

そのどちらも、素敵な絆のシーンが描かれます。でも人間の親子の会話を聴くシーンでは、子ぎつねは独りぼっちです。それで、「きゅうにおかあさんがこいしくなって、かあさんぎつねのまっているほうへ、とんでいきました」と物語が進みます。だからこそ、きつねの親子が出会うシーンはとても感動的ですね。

2つ目は、「きつねの世界」と「人間の世界」

きつねの世界は、一面の白。「まっしろな雪」「パン粉のようなこな雪」「白いきぬ糸のように」「雪はあまり白いので、つつんでもつつんでも、白くうかびあがって」・・・と、白の表現が続きます。そういえば、かあさんきつねが手渡すお金も「白銅貨」ですね。そこにも意味があるのかもしれません。
そんなきつねの世界から人間の街に近付いていくと、それまでの世界とは異なる色の表現がなされるようになります。「町の灯」「赤いのや、きいろいのや、青いのがあるんだな」「黒い大きなシルクハットのぼうしのかんばんが、青い電燈にてらされて」・・・色の違いが世界の違いであることがよく分かります。


3つ目は、人間の世界に対する「子ぎつね」と「かあさんぎつね」

2つ目であげた「色」に対して、かあさんぎつねは過去の恐ろし記憶がよみがえってきて、街に近付くこともできなくなります。それに比べて、子ぎつねはその恐さが分からないので、一人でぼうし屋に行くことができました。子ぎつねとかあさんぎつねの、この「ズレ」は、「ほんとうににんげんは、いいものかしら。ほんとうににんげんは、いいものかしら。」とつぶやく物語の締めくくりにも表れていますね。この「ズレ」がはっきり埋まらないまま終わることで、独特の余韻があります。

大人になってみると、かつてハッピーエンドの物語と読んでいたものが、少し違った印象になるのが不思議だし、また面白いです。

『てぶくろをかいに』
作:新美 南吉
絵:いもと ようこ

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