数直線の末端

このnoteは、発達障害当事者の私が、発達障害や知的障害、精神疾患というものをどう捉えているか。
定型発達や健常者と何が違うのか。
「個性の連続性」という視点から、解釈する。

私は中3から突然不登校になり、高校も通信制を卒業した。
思い返せば、小さい頃から、良くも悪くも情緒や表現が豊かな子供だった。
具体的には、癇癪が激しく、人の感情に振り回されやすく、こだわりや感覚過敏が強かった。でもその分、感情表現が直結した作文や絵はよく褒められ、よく展示や賞を取っていた。

いつの日からだったろう。
時間割や体力面でもゆとりのある生活の小学生時代は苦を感じることはなかったが、中学に上がった頃、思春期を迎え、身体の急速な成長と、小学生の生活とは変わった部活に勉強に追われる日々は私にとって相当なエネルギーを使うものだった。
それでも周りが出来ていることが私だけ出来ないなんて話はおかしい。そうだとしたら甘えだろう。といった思い込みの中で生きていた。
それはいつの間にか、すべて完璧にやらなければならないという強迫観念に変わり、この毎日は1日でも気を抜けばもう全てを失うといった綱渡りのようなものだった。

その生活に限界を迎え、不登校になったわけだが、当時はなぜ周りが出来ていること(=学校に行くこと、部活と勉強の両立など)ができないのかと劣等感と自己嫌悪を抱いた。
勉強はそれなりに出来たし、人間関係にも困ったことはなかった。
ただただ、普通の学校生活を送ることが苦痛で、どうしても学校に行くことが出来なかった。

その後も周りと比べて落ち込み葛藤する高校時代を送るが、その答えは、時を遅くして分かることになる。

「自閉スペクトラムに準ずる神経疾患」

大学1年の秋に診断される。
いわゆるグレーゾーンの自閉スペクトラム症である。
心理学を学ぶ学生の立場から解説するが、
自閉スペクトラム症や注意欠如多動性障害などの発達障害において、いわゆるグレーゾーンと診断される者は一般に、年齢が上がるにつれ定型発達の者との差が顕著になる。
発達障害の診断は、主にIQテストや身体・情緒の症状から行われるが、私の場合は感覚過敏や過集中、激しい疲れやすさ、不適応がありながらも、総合的なIQは定型発達、中でも高い方に分布していたため、診断基準の中ではグレーゾーンという場所に落ち着いた訳だ。(と思う。)
今思えば、この発達障害が、私が不登校になった理由や、今現在の不適応からの二次障害である身体・情緒障害になった理由の一つになっているのだと思う。

とはいえ、自分の特性は、あくまで人間の個性を数直線で表した連続性の中の一つの値にすぎないと思っている。
注意欠陥多動性障害に代表される症状の、物忘れや注意力の散漫さも、多かれ少なかれ人は誰しも持っているものである。
その一方で忘れてはならないのは、発達障害や知的障害、精神疾患を持つ人はそれが臨界値を超えているという事実である。
特性の強さを正規分布で表したときの端から大体5〜10%以内に入る、といったところだろうか。

小中学校で支援級や通級をしていた同級生を思い出してほしい。
その同級生に「何かが少しズレている」といった感覚を抱いた瞬間はないだろうか。
そのズレが特性の臨界値を超えているという事実の裏付けであり、当事者の生きづらさの正体である。

だから何なのか。
自分に訊いたいのだ。
この解釈に辿り着き、何が明確になったのか。
数直線の末端にいる自分は、周りの大多数の人間ができることの一部ができないのは、どうにもこうにも仕方のないことであるということだ。
その事実を、盾にし自尊心を守り、矛にし自分の居場所を確立する。
周りとの比較はもはや意味を成さない。
自分がどうであるか、何が出来るか。
それに気づいた今がスタートラインだと思う。

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