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【連載小説】第四部 #1「あっとほーむ ~幸せに続く道~」新しい日常

☆「あっとほーむ~幸せに続く道~」第四部、
これまでとは違う視点キャラで、まずは前編からスタートです☆


第三部のあらすじ

鈴宮家で始まった野上家の人々との暮らしも三ヶ月になろうかと言うとき、同居中しているオジイ(めぐと翼の祖父)から、自宅を手放そうと思っていると打ち明けられる。家族会議の末、老朽化した建物は取り壊して手放すことが決まった。思い出の詰まった家がなくなる悲しみに暮れる野上家の人々。めぐの高校卒業を祝し、祖父母宅で最後の宴会が催された日には記念撮影もおこない、その後ついに家は解体された。

数ヶ月後、オジイは静かに息を引き取った。しかし祖父亡き後も鈴宮家での四人暮らしは続いていく。結婚して約二年。二十歳の誕生日を迎えためぐは、子どもを持つことに前向きになっていた。悠斗の後押しで翼と子作りに励んだめぐは程なくして懐妊する。

めぐの妊娠を喜ぶ悠斗だったが、自ら引き受けたオバア(めぐと翼の祖母)の介護で疲労が溜まりつつあった。家族は彼が疲労していると見抜いていたが、本人に自覚はなく「休め」と言われて立腹した。その瞬間、心臓が悲鳴を上げ、倒れた。死の淵をさまよう悠斗。そこに現れたのは、悠斗の亡き娘、愛菜だった。めぐの胎内に宿り生まれ変わるはずの愛菜は悠斗に生きて欲しいと願い、自ら命を絶った。悠斗が意識を取り戻したとき、めぐは流産していた。悠斗は申し訳なさを抱えながらめぐの元を訪れ、詫びる。しかしめぐは、悠斗が助かったことを喜び、悠斗を生かしてくれた愛菜に感謝する。

流産の悲しみを乗り越え、二十一歳の誕生日を迎える頃、めぐは再び妊娠した。今回は順調に育ち、年末には女の子であることも判明した。悠斗は生まれてくる赤ちゃんの、もう一人の父親になるという強い決意を抱く。一方で、めぐやめぐの母親である映璃への好意を捨てきれず、スキンシップを求めてしまうこともあった。見かねた映璃に「父親になる者としての自覚が足りない」と一喝される悠斗。こんな自分を嫌ってくれとめぐに頼み込むが、めぐも翼も「今のままでいい。これから三人で父親、母親になっていこう」と励ます。そして悠斗のやる気に火が付くよう、お腹の赤ちゃんの名前が「まな」であることを明かす。

桜の花が咲き乱れる日、「まな」は誕生した。翼とめぐ、悠斗の子育てがいよいよ始まるのだった。

前編

1.<孝太郎>

 長い冬が終わり、人々は温かい日差しに誘われるように屋外へと繰り出す。僕も彼らに習い、雲一つない青空の下に立つ。

 球場前広場は、子ども連れの親子やキャッチボールに興じる若者たちで賑わっていた。かつての僕なら、競争心のかけらもない人々を見るだけで苛立っていたに違いないが、今はむしろ穏やかな気持ちにさえなっている。それもこれも、悠斗クンや翼クン一家のおかげだ。

「……俺の知る永江孝太郎ながえこうたろうは死んだんだろうか? 会わなかった十年の間に何があった? まるで別人じゃないか」

 僕を呼び出した彼は、朗らかな僕のとなりで不満を漏らした。水沢庸平みずさわようへい。中学時代からの友人で僕のことを誰よりも知っている男。だが彼は今、すべての怒りをそこに集中させているかのような目で僕を睨んでいる。

「お前から野球を取って何が残るってんだ? 野球あってのお前だろう? ……戻ってこい。一緒に最強の野球チームを作ろう。元プロのお前と俺なら絶対に出来る」

 彼は語気を強めた。が、僕は首を横に振る。
「悪いが、何度誘われても答えは変わらない」

「……お前を誘惑したのは誰だ? 誰がお前をこんな柔な男にした?」

「……ここへ来るといい。僕の考えを変えた人たちに会える」

 僕はジャケットから取り出した名刺を一枚手渡した。彼はそれに目を通すや、思い切り握りつぶした。

「なにが、『みんながまんなか体操クラブ』だ。こんなお遊びクラブ、認められっかよ」

「お遊びクラブと言われる筋合いはないな。僕らは真面目に子どもの将来を考えている。君のやろうとしていることと何ら変わりない」

「……馬鹿馬鹿しい!」
 庸平は吐き捨てるように言い、僕の前から姿を消した。

 親や祖父母が一緒に身体を動かしながら、楽しく子どもとコミュニケーションを図れる場。それが「みんながまんなか体操クラブ」である。僕らが目指しているのは一流のスポーツ選手の育成ではない。あくまでも親や祖父母に子と触れ合う場を提供するのが目的だ。

 僕は子育てに関しては全くの素人だが、身近で赤ちゃんに接したり、親子の戯れを見たりする中で、人生において最も重要なのはこうしたスキンシップではないかと直感し、これを形にするのが第二の人生で成すべきことだと思い至ったのだった。幸いにして共感してくれる人間が身近におり、彼ら――本郷ほんごうクン、野上のがみクン、悠斗ゆうとクン――の力を借りながら発足に向けて着々と準備を進めているところである。

 生まれてこの方野球しか知らず、それが出来なくなったら死のうとさえ思っていた僕がこんなことを言い出すとは誰も想像しなかっただろう。僕でさえそうだ。もし野上クンに説得されなければ、そして彼の家族に会わなかったら僕は野球馬鹿のままこの世を去っていたに違いない。

 自宅マンションに戻り、エレベーターホールに向かうと上層階からエレベーターで降りてきた本郷クンに出くわした。クラブ発足準備のため、彼は数ヶ月前に都内から僕と同じマンションに居を移したのだった。

「あ、おかえりなさい。水沢みずさわ先輩には会えましたか? 元気でした?」

「会ったよ。……僕が野球以外の仕事を始めると言ったら激怒された。お前から野球を取ったら何が残るんだ、とまで言われてしまったよ。どうやらあいつは僕と一緒に野球人の育成がしたくて連絡してきたらしい」

「へぇ。もし永江さんの話に乗ってなかったらおれが食いついてたかも。……なんてね。もちろん、断ったんでしょ?」

「ああ。しかし、名刺を渡したら握りつぶされてしまった」

「うっわ……。十年ぶりに再会したのにいきなり険悪ムードですか」

「大人になってから……とりわけこの十年に至っては連絡すら取り合っていなかった僕らだ。わかり合えなくなっていたとしても不思議ではあるまい」

「永江さんがそんなことを言うなんて、ほんっと、変わったなぁ。ま、おれは今の方が人間味があって好きだけど。いじっても怒られなくなったし。……ところで、このあと時間あります? 大津理人おおつりひとの店に行くんですけど」

 大津理人は僕の高校野球部時代の後輩だ。ワライバという名の喫茶店兼居場所の提供をしていて、僕らが推し進めているクラブの方針に賛同してくれた一人でもある。

「なら、いくよ。ついでに何か食べさせてもらうとしよう」
 エレベーターに背を向け、本郷クンとともに歩き出す。彼は「食わしてもらえるか知りませんけどね……。あそこは変な店だから」と言って笑った。


2.<庸平>

 ――連絡先:埼玉県K市××町……(ワライバ店内/営業担当・大津理人)

 くしゃくしゃにしてやった名刺を見返した俺は目を疑った。さっきは気づかなかったが、営業担当の名に見覚えがあったからだ。

(もしかして、あいつが孝太郎をそそのかしてお遊びクラブを始めたんじゃ……?)

 大津が絡んでいるならその可能性も充分にある。あいつは野球部時代から他のやつとは違う感性を持っていた。それは野球人として光るものを持っていたと言う意味でもあり、非常識だったという意味でもあるが、とにかく変な男だ。

 馬鹿馬鹿しいと言い捨てて別れてしまったが、こんなものを見てしまっては確かめないわけにはいかない。

(K高の近くか……)

 K市には卒業以来一度も行っていない。学校周辺は変わっているのだろうか。かつて立ち寄った店は残っているんだろうか……。思い出に耽るうちに懐かしさが込み上げてくる。

 一度、都内の安アパートに戻った俺だが、気づけば靴を履いて部屋を抜け出し、行く予定のなかったK市方面に向かう電車に飛び乗っていた。

 中学のとき、敬愛していた父親を亡くしたあいつが後を追わずに済んだのは野球のおかげだった。野球は孝太郎の命の源。だからプロの世界に入ったと知ったときは我がことのように嬉しかった。野球をしているうちはあいつが死を選ぶことはない、と安心できたからだ。

 それからというもの、俺はあいつの生存を時々確認しながら今日まで自由に生きてきた。いつかまた一緒に白球を追いかけられる日を夢に見ながら。

 四十年以上が経過した今でも、甲子園の舞台に立ったあの日のことは鮮明に思い出すことが出来る。俺は孝太郎や本郷と違ってプロを目指せるほどの実力はなかったが、代わりに努力を積み重ね、社会人野球チームで四十歳までは第一線で活躍し続けた。

 一応家庭を持ち、一人娘が成人するまでは勤め人としても頑張った。だけどやっぱり俺は野球が好きでずっと続けていきたいって気持ちが強かったから、奥さんと話し合ったうえで円満に離婚。晴れて自由の身になったあとは十年間、世界の野球を見るため各国を飛び回り、自分の手で野球選手の育成がしたいとの思いを強くして帰国したのが先月だ。

 日本を発つ前に孝太郎が解説者として活躍している姿は目にしていたから、現役を退いたあとはそっちで生きていく道を選んだのだろうと思っていた。が、俺の見通しは甘かった。帰国後、「解説者・永江孝太郎」の姿はなく、やっとの思いで会ってみればあのざまだ。

 ――まもなく、K市です。お出口は左側です。

 車内アナウンスが耳に入り、我に返る。何はともあれ、大津に会って確かめよう。場合によっては拳を突き出すことになるかもしれないが、そんときゃそんときだ。

 スマホの地図アプリを起動し、「ワライバ」の住所を入力した俺は、案内開始ボタンを押して電車を降りた。

 駅から高校へ向かう道沿いの景色はほとんど変わっていなかった。しかし、学校帰りに立ち食いした団子屋や、個人が経営していた服屋はコンビニに取って代わられていた。

 時代の変化を感じながら歩くこと十数分。「ワライバ」はK高にほど近い閑静な住宅街にあった。パッと見は喫茶店だが、本当にここがクラブの拠点なのだろうか?

 店の前で立ち尽くしていると、やたらと図体のデカい外車が低いエンジン音を響かせながら駐車場に滑り込んできた。どんな金持ちがやってきたのかと思って凝視する。停止した車から降りてきたのは本郷祐輔と孝太郎だった。

「来てくれると思っていたよ。ありがとう、庸平」
 孝太郎は気味が悪いくらい満面に笑みを浮かべながら右手を差し出した。俺はその手を振り払う。

「勘違いするな。お前をそそのかしたのが大津なら一言いってやろうと思って来ただけだ」

 俺はしわくちゃの名刺を孝太郎の眼前に突きつけながら言った。にもかかわらず、やつはなおも笑っている。

「大津クンなら中にいるはずだ。僕らも彼に用があってきたから、一緒に入ろう」
 ドアを開けた孝太郎に、先に入るよう促される。俺はそのドアを自分の手で更に押し開け、店内に足を踏み入れた。

 大きな窓から春の陽光が差し込む店内は明るかった。コーヒーの香りが漂っていて数人の客がくつろいでいる。しかし全員がお一人様らしく、つけっぱなしのテレビから出る音の他に声らしい声は聞こえなかった。

 不覚にも、居心地の良さそうな店だと思った直後、カウンターの向こうから「あーっ!!」とデカい声が響いた。大津だった。

「水沢センパイじゃないですか!! 生きてたんっすね!!」

「客に向かってその口の利き方は何だ……? 本当に店主なのかよ……? 客商売をしてるやつの態度とは思えないぜ……」

 いきなり不快にさせられてげんなりする。が、孝太郎も本郷も咎める気配はない。どうやら普段からこんな調子のようだ。俺は不快感を引きずったまま、ここに来た目的を果たすべく一気にまくし立てる。

「お前なのか? 孝太郎に妙な提案をしたのは。こいつは野球なしでは生きられない男なんだぞ? 年齢的に身体を動かすのが無理でも、その技や知識を後生の選手に伝えるって形であればこの先もずっと野球と関わっていける。それこそ生涯、野球人でいられるんだ。なのにお前は孝太郎から野球を取り上げるような真似を……」

「ちょっとちょっと! おれを悪者にするの、やめてもらえません? 永江センパイ、ちゃんと説明しなかったんですか? この人、、、、誤解しまくってますけど」

 大津は俺を「この人」呼ばわりし、人差し指を向けた。イライラが最高潮に達する。やはり拳を突き出して一暴れしなくちゃいけないのか。ぐっと右手に力を込めたとき、店のドアが開いた。

「理人さん、こんにちは。散歩がてら、遊びに来ちゃいました。あれ? 孝太郎さんも来ていたんですね!」
 
 俺をはじめ、その場にいた男たちの視線を一手に引き受けたのは若い母親だった。傍らには二歳くらいの女の子がいて、オジさんたちの顔をしげしげと眺めている。

「めぐさん、まさかここで会えるとは思ってなかった。顔が見られて嬉しいよ」

 誰よりも先に声をかけたのは孝太郎だった。しかもあり得ないほど鼻の下を伸ばしているではないか。こんな姿、見たことがない……。

「そうか。孝太郎を変えたのはこの子か……」

 大津が何か言ったくらいで野球から離れるなんておかしいと思っていたが、女が絡んでいるならいくらか納得も出来る。しかし、子連れと言うことは彼女には夫がいるはず。彼女と孝太郎の関係とは一体……?

 混乱していた矢先、女の子が抱っこをせがむように腕を伸ばした。

「よしよし……」

 気づいた母親がしゃがみ込むより先に抱き上げたのはなんと、孝太郎だった。それだけでも驚くべきことなのに、あろうことか女の子は孝太郎に抱かれて嬉しそうに微笑んでいるではないか。

「ど、どうなってんだ……?」
 戸惑っているのは俺だけだった。本郷も大津も、孝太郎と女の子の様子を微笑みながら眺めている。

「……その子ってもしかして、お前の……ま、孫?」
 どうにか自分を納得させたくて放ったひと言だったが、案の定当ては外れたらしく、皆に笑われた。

「この子は……まなちゃんは、僕らの後輩の野上クンの孫だよ。ちなみに、ここにいるめぐさんは彼の姪っ子にあたる」

「えっ、野上の?!」
 俺の頭はますますこんがらがった。
「だ、誰かイチから説明してくれよ。俺にはもう、何が何だかさっぱりだ……」

「それなら、食事でも取りながら僕らの近況を話すとしよう。大津クン、注文してもいいかな?」

「おれの手料理で良けりゃ、作りますよ。センパイの希望はめぐっちだろうけど、休みの人間を働かせる趣味はないんでね」

「構わないよ。君の料理でも腹は膨れるから」

「あー、そうっすか……」

「あのー、孝太郎さんがまなを抱っこしててくれるんならわたし、作りますよ?」

 少々不満げな大津を見た彼女が助太刀するように腕まくりをした。しかし大津は「いいの、いいの」と大袈裟に顔の前で手を振った。

「それよりめぐっちは『水沢みずさわオジさん』に永江ながえセンパイが激変した経緯を話してやってよ。ついでにお得意の笑顔で悩殺しといて」

「えー? そういうことすると、また旦那さんに怒られちゃう!」

「黙っとけば分かんないって。よろしく頼むよ。ってことで、おれは食事の支度をするから」

「もう……。しょうがないなぁ」
 彼女はそう言いながらも俺に向き直った。

「初めまして、野上めぐと言います。いろいろなご縁があって理人さんの元で働いています。えーと……。K高ケーこう野球部の方、ですよね? 野球の鬼だった孝太郎さんがこんなふうになるまでには長い長い経緯があるんですが、お聞きになりますか?」

「長くてもいい。俺はそれを聞くためにここへ来たんだ」

「では、お話ししましょう。……物語の始まりはこの場所。約三年前に開催された野球部OB会でのある出来事がきっかけでした」
 彼女はまるで朗読するかのように話し始めた。

 現役を退いたあとからすでに孝太郎が残りの人生を無為に感じ、自分の命を軽んじる発言をしたこと。それを聞いた野上が怒りをぶちまけ、めぐさんや家族に会うよう説得したこと。そして実際に彼らと会うなかで、人としての感情を少しずつ取り戻していったこと……。聞けば聞くほど謎が解けていく。

「しかし、僕に生気を吹き込んだ最重要人物はなんと言っても、まなちゃんだ」
 話の途中で、そのまなちゃんを抱く孝太郎が口を挟んだ。

「この子の成長、笑顔、そして愛情を欲する姿を見るたび僕は感動するんだ。……まさかこの僕が、小さな子どもから何かを学ぶ日が来るなんて想像もしなかったが、現に僕は彼女との触れ合いがきっかけで新しいことを始めようとしている。それも野球とは違うことを」

「……まさかそれが『みんながまんなか体操クラブ』なのか?」

「その、まさかだ」

「じゃ、じゃあ……誰かにそそのかされたんじゃなく、お前自身が発起人……? まじかよ……」
 俺は頭を抱えた。
「一通りの話は聞いたが、やっぱり信じられねえ。……本当にお前は、俺の知る永江孝太郎なのか?」

「……僕が言うのも何だが、人は、変わるよ。僕は長い間、変化とは信念がない状態のことだと思っていた。だからこそ野球人であり続けようともしてきた。しかしながら、野球にこだわっていた僕は、信念という名の硬い殻に閉じこもっていただけだと分かったんだよ。……僕を殻の外に連れ出してくれた、めぐさんをはじめとする彼女の家族には感謝しているよ。断っておくが、野球が僕の生を支えてくれるスポーツであることに変わりはない。ただ、もうしがみつく必要がなくなっただけだと言うことを付け加えておく」

「…………」

「まだ信じられないようだな」

「ったりめえだ!」
 俺は椅子から勢いよく立ち上がった。

「事情はどうであれ、俺にはお前の変化を受け容れることなんて出来ない。……もう一度背負わせてやる。お前に、野球という殻を。また一緒にグラウンドに立つために!」

「庸平……」

「邪魔したな!」
 ここへ来たことを後悔しながら店を出た。ちょうどそのとき、自転車に乗った高校生の一団が目の前を通り過ぎていく。それは奇しくもK高野球部員だった。

(彼らが孝太郎の今を知ったらがっかりするだろうな……)

 そのくらい、K高生にとって永江孝太郎は憧れの存在なのだ。ましてや友人である俺の憧れ度は計り知れない。

(あいつは何も分かっちゃいない。昔も今も、名捕手・永江孝太郎にどれだけの人が期待を寄せているのかを。それに応え続けるのがプロ選手として活躍した人間の務めであることを……)

 足もとに転がっていた缶を蹴り飛ばす。鈍い音を立てながら転がったそれは、走ってきた車にかれぺしゃんこになった。


3.<悠斗>

 孝太郎さんが「みんながまんなか体操クラブ」を考案したのは、まなを愛するがゆえだ。

 二歳を迎えたというのに、まなは一つも幼児語を話さない。そんなことだから一歳半検診の際「耳が聞こえないのでは?」と保健師に疑われ、専門医に診てもらうよう言われたほどだ。しかし異常はどこにも見つからなかった。発話の遅い子もいるから経過観察、とそのときはそれでおしまいになったが、周囲が発達障害を疑いたくなるくらいには無口なのであった。

 しかし心配する祖父母ニイニイらを余所に、親である翼とめぐは「それがまなの特徴なのだ」と言い、深刻には捉えていない。オバアに至っては「まなちゃんは神様のお使いなのよ。今に神様の言葉を話し出すわ」と言ってあの子のすべてを受け容れてすらいる。

 実際、社会的なルールも覚え始めているし、面白いことを見聞きすればキャッキャと笑いもする。話せないことを除けば同じ年の子と何ら変わりはなく、心配するには及ばないとおれも思っている。

 が、元キャッチャーの孝太郎さんは現状を冷静に分析し、こう語ったのだ。「話せるようになるに越したことはない。たとえば他の子と過ごす機会を増やすのはどうだろう。それがきっかけで話せるようになるかもしれない。できる限りの手は尽くすべきだ」と。

 その後、楽観的なおれたちではまず思いつかない案が彼の口から次々に飛び出し、おれたちはそのたびに議論を重ねた。やがてニイニイや本郷さんも彼の考えに賛同し、最終的には「親子、祖父母と孫が身体を動かしながら触れあえる場」と言うコンセプトが誕生。クラブ発足のため目下、準備を進めているというわけだ。

 実は、体操クラブの活動が本格的に始まったら、そのときには水泳コーチの仕事を辞めるつもりでいる。表向きは自分の身体のためだが、真の理由はまなのため。自分の果たすべき役割は年齢や時々の状況で変わるものだし、変えていいのだと言うことを教えてくれたのは、皮肉にも馬鹿がつくほどの野球人・孝太郎さんだった。

「無論、それを歓迎しない人間もいる。庸平は思った以上に堅物かたぶつのようだ」

 その日の夕方、我が家にやってきた孝太郎さんは珍しく愚痴をこぼした。長年の友人と十年ぶりに再会し、現状報告したら物別れになったのがいささか不満なのだという。ずっと彼を見てきた相棒役の本郷さんでさえその変貌ぶりには仰天しているくらいだ。ましてや久々に会った友人なら困惑するのも無理はないだろう。

「だけど水沢みずさわさんって方、野球人としての孝太郎さんをものすごく尊敬しているふうに見えましたよ? あの様子じゃ、また説得しに来るんじゃないかなぁ?」

 現場に居合わせためぐがそう言うと、孝太郎さんは腕を組んで小さく笑った。

「庸平も僕に匹敵するくらい野球を愛しているからね。彼の気持ちは痛いほど分かるつもりさ。だけど……僕は思い出してしまったんだ。幼い頃、勝負とは関係なく一人野球と向き合っているときに感じた、風やグラウンドの匂いを。そこに生きる喜びがあったことを。……僕は、今後も勝負の世界に身を置いていたら遅かれ早かれ人としての機能を失ってしまうことに気づいた。だから大切にしたいと思える存在が出来た今は、感情をなくすような仕事ではなく、温かい心を持ち続けられるような環境に身を置きたいと思ってる。……今回は理解してもらえなかったが、たぶんあいつを説得できるのは僕しかいない。あいつが何か言ってくるなら、その都度応じるしかあるまい」

 そういった孝太郎さんは、かつてとは別の自信に満ちあふれて見えた。これはおれの勝手な想像だが、見守ってくれている影の存在――ご両親の霊――が彼をここまで導いたように思えてならなかった。孝太郎さんもおれ同様、簡単には死なせてもらえない人間に違いない。そう思うと妙に親近感が湧くのだった。

◇◇◇

 まなが卒乳した頃からめぐは再びワライバで働き始めている。両親が仕事に出ている日中は基本、おれがまなの遊び相手を引き受けている格好だ。と言っても、近所の公園に連れ出してボール遊びをしたり、一緒にブランコに乗ったりするだけなのだが、こうしていると本当に血を分けた父親になったような気持ちになるから不思議だ。その間おれは最上級の幸福を味わいながら、まなと二人きりの時間を楽しんでいる。

「ほら、見てごらん。これはね、ビオラって言うお花だよ。パンジーよりも小さいのがビオラ。黄色、白、濃い紫……。いろんな色があるだろう? で、こっちのお花はチューリップだ」

 公園の花壇に興味を示したまなの目線に合わせてしゃがみ、一つずつ花の名前を教えてやる。まなはおれと同じように一つずつ指を差してはこちらを見、「これが『はな』?」と目で訴えかけている。

「そうだ、これが花だ。……綺麗に咲いてる花を取っちゃダメだよ。摘んだら死んじゃうから、このままにしておこうな。摘むならこっちのタンポポに……」

 手を伸ばしかけてやめる。花壇の花は摘んじゃダメで、野の花は摘んでいいのはなぜか、説明できそうになかったからだ。

「……いや、タンポポも元気に咲いている。このまま見て楽しむのが一番だな」
 花弁を撫でると、まなも真似をして黄色い花をなでなでした。

「優しいな、まなは……」
 おれが言うと、まなはにっこり笑った。その顔は幼い頃のめぐによく似ていた。思わず問いかける。
「まなはおれのこと、なんて呼んでくれるのかな。ゆうくん? それともお父さん?」

 正直な話、おれが死ぬまで元気な姿が見られればそれに勝るものはない。が、欲を言えば名前を呼んで欲しいと思っているおれがいる……。

 なぜかといえば、まなと名付けられた子の口から「お父さん」と呼ばれることで、おれはとうとう亡き娘、愛菜との再会を果たしたのだと納得できるからだ。今生で会えたと手放しで喜べるような気がするからだ。もちろんそれはおれの身勝手な願望に過ぎないけれども。

「まぁ、いいさ。時間はまだたっぷりある」

 めぐと家族になったときもそうであったが、何ごとも焦りは禁物だ。おれは努めて自分の身体をいたわって一日でも長く生きる。そうするうちにまなも成長し、発話できる年頃になるだろう。それまでは見守るしかない。

 その場でじっとしていたら少し汗ばんできた。四月も半ばになると、優雅に花の間を舞う蝶も日陰を求めたくなるような日差しが降り注ぐ。

「ちょっと喉が渇いたな。おうちに戻ってジュースでも飲むか」

「ん!」

 おれが動き出すより早く、まなはおれの手を掴んで引っ張った。ストローで飲み物が飲めるようになったのを機に、両親が控えていたジュースを与えたのはおれだ。翼には「甘やかしすぎだろ!」と叱られたが、これがおれの子育て法なのだから仕方がない。両親の厳しさと第二の父の甘やかしがあってこそ、子どもは真っ当に育っていくもの、と言うのがおれの持論だ。

何味なにあじがいい? 一番、リンゴ。二番、ブドウ。三番、オレンジ」
 まなは、ぎこちないながらも人差し指を一本出した。これは一番目のリンゴがいい、と言うサイン。リンゴジュース好きは、奇しくも亡き娘と同じだった。


💖続きは近日公開予定です💖
※見出し画像は、生成AIで作成したものを使用しています。


第四部・前編 登場人物紹介:

永江孝太郎ながえこうたろう
元プロ野球選手。プレイヤーとして野球が出来なくなった頃から自死も考えていたが、後輩の野上路教のひと言で救われる。以後、めぐ、翼、悠斗との交流により余生の新しい目標を見つける。

水沢庸平みずさわようへい
孝太郎とは中学時代からの友人で、高校卒業ごろまでは彼の心を支え続けてきた。成人後は別々の野球人生を歩んできたが、いつかまた一緒に野球がしたいという思いを強く持っていた庸平は、ついに「二人で最強の野球人を育成しよう」と相談を持ちかける。

本郷祐輔&詩乃ほんごうゆうすけ しの
祐輔は元プロ野球選手。詩乃とは幼なじみ同士の結婚。二人とも孝太郎とは高校野球部時代から付き合いがあり、尊敬もしているが、浮世離れした思考や行動についていけないと感じることもある。

鈴宮悠斗すずみやゆうと
二十代のころ水難事故で愛菜という名の娘を亡くしている。現在は同居する野上夫婦の娘、まなの、もう一人の父親として幸せな日々を過ごしている。霊感が強い。

野上のがみつばさ翼&めぐ:
11歳差のいとこ同士。めぐが成人したのを機に結婚。二人の間には一人娘、まながいる。翼は幼稚園教諭、めぐはK高野球部出身である大津理人の店「ワライバ」で働いている。ちなみに翼の父は野上路教のがみみちたか



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