視点の数だけ物語が深まる:『視差小説』の世界
ひとつの物語に複数の登場人物がいる。このとき、ものごとのとらえ方は、キャラクターの数だけ存在する。その「視差」があるから、「B面を誰か書いてくれないか……!」という切なる気持ちが生まれるのだ。
まったくおなじシーンを、ふたりの異なる主人公の視点で描いた作品を発表し、その試みを「視差小説」と呼んだのは、米国のSF作家オースン・スコット・カードだ。映画化もされた『エンダーのゲーム』(1985)に登場する最強の副官ビーンを主人公に立てた『エンダーズ・シャドウ』(1999)がそれ。
物語の前半はビーン自身のストーリーが描かれるが、中盤からはバトルスクールでエンダー・ウィッギンとおなじ時間を過ごす。確かに『エンダーのゲーム』と同じシーンが描かれ、同じ人物の同じ発言が重なる。
しかし、その場面の解釈は異なる。視点が違うからだ。
エンダーが見えていないことを、ビーンが見ている。
エンダーが見ていた光景を、ビーンは違って捉えている。
エンダーを、ビーンはどのように見ているのか。
エンダーが口にすると、なにげないことばでさえも、高い評価、賞賛、親密さといったふくみをもつ。
エンダーに対置するビーン自身の葛藤も含め、物語に大きな深みが出る。同じ物語だからといってあなどれない。むしろ、本編と「シャドウ」を何周も繰り返し読むことになるだろう。
視差(parallax)は、天文学の用語で「二地点での観測地点の位置の違いにより、対象点が見える方向が異なること」。
序文によれば、元々この派生作品は、ニール・シャスターマンという作家に持ちかけたものの、自分が書きたくなってきたそうで(笑)気持ちはわかる。
この二作はたがいに補いあい、相乗効果を発揮するものだ。どちらを先に読んでも、もうひとつの小説がもつ長所がそがれることはない。
男女それぞれの視点で交互にストーリーを綴る形式の『冷静と情熱のあいだ』とかも性格は似ているのかな?(これは読んでません)
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ところで、
noteにもこうした「視差」的な手法をみごとにあやつる人がいる。
ケイさん。
まずは「あの夏に乾杯」応募作である『ビール』。ここに登場する4人の関係:主人公男子、同期の女の子、チーフ、メガネの関係を記憶しながら……
「同期」の女の子の目線で書かれた『余白』を読んでみてほしい。
メガネは……w
叙述トリックのような設定に思わず額を打ちながらも、
こういう楽しみ方ができるところに、「小説」という創作の奥深さ、そしてnoteにおける共同創作の可能性が、たっぷりあるよなと感じている。
🍻