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パール・バック『大地』(一)は人生の教科書だった

お前たちも、土地さえ持っていれば生きてゆけるーー誰も、土地は奪えないからだ

パール・バックの『大地』1巻は、清朝末期の中国に生きた農民、王龍(ワンロン)の物語だ。ピューリッツァー賞とノーベル賞で高く評価されている本作だが、翻訳の質もきわめてよく、ぐいぐい読める。

100年以上前、「農」で生きていく人々のくらしを現代に読み替えながら、『人生の教科書』として読んだ。唸ったポイントを紹介する。

家事が生み出す価値

序盤でめちゃくちゃ印象的なのは、嫁入りしてくる阿蘭の働きぶりだ。それまで王龍がひとりでこなしていた炊事、老父の世話。手が回っていなかった家の整理、修繕。

毎日、彼女は、次から次へ何かしている。そのうち、三つの部屋は見違えるようにきれいになって、裕福そうにさえ見えてきた。

しばらくの間、阿蘭は畑仕事には関与せずに、こうした『影の仕事』をもりもりこなしていくが、これを支えとして王龍の「本業」である農は収穫量を増し、大地主への道を進んでいくことになる。

イヴァン・イリイチの『シャドウワーク』にもあるように(実は積読)、家事労働をはじめとする、資本主義社会の中で経済に直接関与しない「影の仕事」は大量に存在し、それこそが生産性を支えているということが、阿蘭のはたらきから読み取れる。

共働きが当たり前の現代では、そうしたシャドウワークを効果的に分担し、家族が力を合わせて家を保つことが、経済的にも、精神的にもとても重要だということに気づいた。


退屈で金があるとクズになる

中盤で印象的なのは、あれだけ誠実で努力家で、地道に積み上げてきた王龍が、洪水で農作業が長く止まり、退屈になるやいなや、一瞬でクズに堕ちていく様子だ。

「おい。これから町の茶館へ行って、耳新しいことでも聞いてくるからな。この家にゃあ、馬鹿と、おいぼれと、子供しかいねえんだから。」

なまじ金があるから、見境なく金を使って、しかもよりによって金を使い続けないといけないことに手を出してしまう。ほかの女にかまけて阿蘭を邪険にする。邪悪な手配師にカモられる。家庭内の不和を生む。


幸いにも、洪水が引いて「土」が手元に戻ってくるとともに、王龍も我に返って忙しく働き始める。それだけ「大地」のパワーが圧倒的だというのが本書のテーマだが、ほんとうに金持ちが退屈するとろくなことがない。退屈しないこと、することがないならないで、家族に迷惑をかけない過ごしかたと倫理観を持っておくことが必要……。

本書はお金の使い方の指針としても示唆深い。農民にとっての土地は、生産と収入に直結するから、現金をとにかく土地に替える・土地は絶対に手放さないというルールは合理的に思える。消えモノに浪費しない。

現代で、土地への投資がどれだけ価値を持つのかは正直よくわからない。不動産は「バブル」のネガティブイメージが強い。資産形成・資産運用といえば、平野くんが連載しているように、つみたてNISAやiDeCoに振っていくのが王道だけれど、人生のリスクを減らすお金の使い方とは、どのようなものだろうか?


破壊されても立ち直れる

王龍一家が、ひどい飢饉を南に逃れてなんとかギリギリのところで死なずに持ち直したり、イナゴの襲来も耐えたり、上述のクズモード王龍も破滅せずに持ち直したりと、本書に描かれる意外なレジリエンス【回復力】には勇気づけられる。もちろん、生死は紙一重だし、描かれる物語は生存者バイアスの世界だから、楽観視はできないが、絶望の中にわずかな希望が見いだせるかどうかは大きな違いだと思う。

終盤では、平和だった王龍の家に突然、銃剣をきらめかせた軍隊が押し寄せ、屋敷をめちゃくちゃにして去っていく。家財道具は壊滅し、庭も池も一度死に絶えるが、それでも兵隊どもが去ったあと、仲の悪かった兄弟も力を合わせて修繕につとめる。

一年もたたない間に、屋敷は以前のようになり、花は美しく咲きみだれてきた。そして、みんな自分の居間へ帰り、すべてはまた昔にかえった。

地道に直せばなんとかなる、というのは、きけば当たり前に聞こえるけれど、こうして数々の苦難を乗り越え、老境の王龍が「成すべきことはすべて成し遂げた」と振り返ることができたストーリーには、ほんとうに勇気づけられる。


本書に描かれる19世紀末(列強が進出してきて、辛亥革命や日清戦争に向かう辺り)の中国農村部と、21世紀日本の都市での生活には、おおきな違いがあると感じる。仕事のかたちも、家族のかたちも違う。しかし、「ひとの暮らし」という点では、多くのことが共通する。

『大地』に描かれる人々の葛藤、苦難、その乗り越え方には、限りない学びが隠れていると思う。


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