新海誠最新作「天気の子」。進化を続ける新海監督の世界

1 新海監督の挑戦、作家としての信念を感じさせる「野心作」

 まず最初に、一言だけいっておきたい。
 新海監督、ありがとう。
 この時代に最高の物語をこの世に送りだしてくれて、本当にありがとう。

 2019年7月19日に公開された新海誠監督最新作の「天気の子」。2016年に公開され、日本国内興行収入250億円、国外興行収入4億ドルを越える大ヒットを記録した「君の名は。」に次ぐ、新海誠監督の新作映画ですが、公開後3日で興行収入20億円を超える大ヒットスタートとなっており、公開から4週間時点で80億円突破という勢いで100億円は確実という状況。もしも2作品連続で興行収入100億円突破となれば、日本では宮崎駿監督に次ぐ史上二人目の快挙ということで、またもや記録を残すことになりそうです。
 私も公開直後に友人と見に行きましたが、間違いなく今年度最高傑作というべき作品でした。

 正直一回見ただけでは全然足りないほどに素晴らしく、気づけばもう15回も鑑賞しています。この感想をまとめるのも公開から1ヶ月かかりました。正直このノートにまとめたこと以外にもまだまだ書きたいことが沢山ありますが、それは次回以降にTipsとして書こうと思います

 ともあれ今作は、前作で250億円を叩きだしたというプレッシャーを感じさせない、新海監督の進化と作家としての信念を強く感じさせる野心作。監督自身の感性を忠実に練り上げた世界観。ボーイミーツガールでありながら、今を生きる若者の生きづらさ、息苦しさを巧みに描き、そして最後には、監督自身が「議論が分かれる」であろうと述べた選択と結末を一切の恐れなく描き切りました。
 物語の結末は、確かに議論が分かれるものだったと思います。しかしそのうえで、私は、この「天気の子」こそ新海監督の最高傑作だと確信しています。すでに15回ほど観に行ってしまいましたが、劇場公開しているうちにもっとみにいくことでしょう。そのぐらい私はこの作品に夢中になりました。

 「天気の子 Wearhtering with You」は、神津島から家出してきた少年・森嶋帆高(声:醍醐虎汰郎)と天野陽菜(声:森七菜)が、雨の降り続く2021年の東京で出会うボーイミーツガールの物語です。家出してきたために身寄りがない少年と、親に先立たれてしまい頼る親戚もいない少女が、陽菜の晴れをもたらす超常の力を使って晴れ間をもたらすビジネスを始める、という筋書きになっています。
 作品ではK&Aプランニングという怪しげな零細編集プロダクションの社長である須賀圭介(声:小栗旬)や、その事務所に出入りして仕事を手伝っている女子大生の夏美(声:本田翼)、さらにはヒロインの陽菜の弟である天野凪(声:吉柳咲良)など、魅力的なサブキャラクターが登場し、物語に奥行きを与えてくれます。

 物語については詳しい展開を話すとネタバレになってしまうので伏せますが、正直に言ってこの作品のエンディングは、万人受けするものではありません。
 「君の名は。」が万人にとってのハッピーエンドだったとするならば、「天気の子」はごく一部の人たちのささやかな幸せを願うという、ある意味真逆のエンディングとなっています。君の名は。と同じ路線でやれば、100億や200億は硬い――前作のヒットはそれだけのものでした。しかし、監督はあえてそのヒットの要因ともいえた要素を投げ捨てて、この作品のエンディングを描いてきました。
 物語の序盤も、「君の名は。」と比べるとだいぶ重い導入です。いわゆるアニメのOPに相当するような、RADWIMPSの「夢灯籠」に合わせたイメージムービーで一気に作品世界に引き込む、といった手法はとることはなく、冒頭の帆高の家出から始まり、東京で行き場なく彷徨う姿など重苦しいシーンが続きます。前作のキャッチ―さをあえて捨てた導入にすることで、より映画としての風格が上がったように思います。250億円を叩きだした監督が、いよいよ本腰を入れて主題性のある映画に挑んできたと私は感じました。

 とはいいつつも、エンタメ作品らしさも健在で、美しい風景映像や、物語の随所に散りばめられたフックの数々、魅力的で愛らしいキャラクターや笑えるギャグシーン、音楽に合わせた躍動感あるカットなども健在です。序盤から終盤に向けてテンションが留まることなく昂っていき、ラストは予告映像等でも流れた「愛にできることはまだあるかい」、「グランドエスケープ(RADWIMPS feat.三浦透子)」や「大丈夫」といった名曲が立て続けに流れ、観客の感情を一気にクライマックスまで持って行ってくれます。文句なしの完成度でありながら、同時に新海監督の作家としての進歩を感じさせる野心作。それが「天気の子」という作品であるように思います。


2 天気と人々の気持ちのつながりについて

 この物語の重要な主題として、「天気と人(の感情)はつながっている」というものがあります。

 人って、雨や曇り続きだとなんとなく憂鬱な気持ちになったり、逆に晴れてるとなんとなく気分が上向いたりしますよね。雨だとなんとなく嫌だ、大事な日には晴れてほしい――人が感じるそういった“なんとなく”の感情が、この物語の重要なファクターになっていきます。

 新海監督はその変化を作中でドラマティカルに描きだします。例えば冒頭の家出から重いシーンが続くと述べましたが、実はその間の天気はずっと雨。主人公のストレスフルな心境と作中の天候を一致させることで、「雨だと気分が憂鬱だ」というのを言葉にせずに観客に体感させるのです。

 また、ヒロインである陽菜さんと知り合うシーンで、この物語では初めての「晴れ間」が訪れます。そもそも陽菜さんは必ず晴れをもたらす「100%の晴れ女」なので、彼にとっての大切な人と晴れの関係は完璧なイコールとなっているのです。「祝祭(RADWIMPS feat.三浦透子)」の軽快かつ可愛らしいメロディと共に晴れ間が広がり、灰色の東京が鮮やかな色彩に変わっていく様は、この作中でも最も美しいシーンの一つで、観客の気持ちを「天気とつなげてくれる」瞬間になっています。

 そういった積み重ねから、後半に入るとこの雨と晴れの関係が見事に逆転するのです。この仕掛けはネタバレになるので控えますが、晴れの意味が変わることで、少年は東京の街を走り出し、大感動のクライマックスからエピローグにつながっていきます。その理由についてはぜひ作品でお確かめください。


 【注意】ここから先はネタバレを含みます! まだ視聴していない皆さまは今すぐみにいってください!【注意】

3 「間違っていても大切なものを手放さない」物語


 物語の中盤で、陽菜の持つ力に関する重要な情報が開示されます。それは、陽菜の力が「天気の巫女」と呼ばれるものであり、人柱となることで狂った天気が元に戻り、正常になるというものでした。

 作中で陽菜は何度も太陽に掌をかざすような仕草をします。実はその仕草は、晴れ女の力を使う度に透明になっていく自分を確かめていた(のではないか)、と小説版で仄めかされます。

 物語の中で陽菜の身体はどんどん水のように透明になっていきますが、陽菜はそれを隠し通して晴れ女の仕事を続け、やがて彼女は真夏に雪が降る異常な夜に消えてしまうのです。彼女が消えたあと、世界は一転して夏晴れとなり、狂った天気は全て調和のとれた正常なもの変わります。しかしそこに陽菜さんはいません。彼女は帆高が送った指輪を残して完全に消えてしまいました。

 しかし、主人公の帆高は、陽菜さんのいない正常な東京の晴れを受け入れませんでした。

 そもそも家出してきた帆高にとっては雨続きの東京しか知りません。彼が知る晴れ間とは陽菜さんがもたらしてくれる一時の晴れで、ほかの人々が正常と喜ぶ快晴は、帆高にとっては白昼夢のように不気味なものとさえ映ったかもしれません。「陽菜さんのおかげで空は晴れたんだ!それなのに皆何も知らないで!こんなのってないよ……」というセリフは、晴れが陽菜さんのおかげであると知っている彼だけが感じられる悲しみなのです。

 帆高は陽菜さんを取り戻すために、彼を追ってきた警察も、世話になった須賀さんにも銃を向け、東京の街を走ります。

 大人になれと言われても、

 頭がおかしいと思われても、

 何も知らない誰かが嘲笑しても、

 それでも帆高は「もう一度あの人に会いたい」という気持ちだけを胸に走る。本当に伝えたい気持ちを伝えるために走り続ける。

 正直この時点で私の涙腺はもう崩壊していたのですが、そこからさらに帆高は陽菜さんが力を得たと語ったビルの屋上から空の世界に飛び込み、陽菜を見つけ出してその手をつかみます。

「もう二度と晴れなくてもいい」「青空よりも俺は陽菜がいい」「天気なんて狂ったままでいいんだ!」

 正常な世界よりも陽菜さんが大事だという強いメッセージとともに、帆高は陽菜を救い出す。そして流れる「グランドエスケープ」...

 僕はもう忘我状態でした。彼らの生き方があまりにも眩しくて、その答えがあまりにも尊くて。

 その結果として、東京の天候の調和は壊れ、二度と晴れの訪れない街となりました。エピローグで描かれる2年半後の東京は、雨で海抜0メートル地帯どころか街の大半が水に沈んだ状態となっています。しかし大半が海に沈んだ東京でも、人々は力強く生きています。水上バスを走らせ、子供たちは雨の中を元気に走り回り、お花見の話題に花を咲かす。帆高たちは、そういう世界を選んだのです。

 このエンディングのカタルシスはすさまじかった。

 多くの物語では、最終的に調和を選び取ります。狂った世界から調和のとれた世界に戻ることで、多くの人が幸せになり、たとえ犠牲になった存在がいたとしても生きている人の幸せによってなんとなくいい話として終わるというものが多い。

 しかしこの話は違いました。

 大切な人が犠牲になる世界なら、そんな調和はなくてもいいとありったけの力で叫ぶ。

 そうです、大切な人と世界を天秤にかけなきゃいけないのなら、一人ぐらいは大切な誰かを選ぶ人がいてもいいのです。自由とはそういうものです。そして帆高は確かに選んだ。調和ある世界ではなく陽愛さんのいる世界を選んだ。

 大切な人の犠牲の上に成り立つ調和のとれた世界を拒み、調和が崩れても大切な人がいる世界を選び取る。「天気の子」はそういう物語なのです。

《以下8月25日追記》

4 より表現力を増したBGM

 本作では前作「君の名は。」に引き続きRADWIMPSが劇中BGMを作曲しています。早いうちから予告映像でも流れその歌詞が話題になった「愛にできることはまだあるかい」だけでなく、第二報で予告映像に合わせて公開された「グランドエスケープ」は、初めてRADWIMPSが女性歌手として三浦透子さんを起用したということもあり、驚かれた方も多かったことでしょう。

 ほかの項目でも述べましたが、本作ではBGMの活用が前作以上に巧みになっています。

 例えば冒頭の帆高の家出から新宿のマックで陽菜と出会うまでのシーンでは、BGMが一切挿入されていません。バニラやマンボーの曲、古い歌謡曲や雨音、人々の雑踏などが流れてきますが、この音声も「ガラスを一枚隔てたように」と小説中で表現されるように、どこか遠い雑音のようで、「新宿から疎外される家出少年」を強調しています。そこに、「愛にできることはまだあるかい」のピアノアレンジとともに陽菜さんがビッグマックの差入れをする。東京で初めて人の温かさに触れるシーンで、「愛にできることはまだあるかい」を使用するBGMの使い処と物語の展開が見事にマッチしてます。

 このほかにも、「君の名は。」で話題になった「前々前世」を思わせるキャッチーな演出も存在します。「風たちの声」や「祝祭」といった軽快な音楽とともに、帆高の充実した東京の思い出を流すのですが、このシーンは本当にあっという間に終わってしまうのに印象が根強く、「充実した時間は歌のように一瞬で過ぎ去る」と、端的に示しているように思います。

 また、「君の名は。」では「前々前世」の歌詞は物語と完全にはマッチしていなかったのですが、本作のBGMは「登場人物の第二の台詞」と新海監督自身が太鼓判を押すほどに登場人物の心境とシンクロしています。「祝祭」は三浦透子さんが歌っていることもあり、「陽菜」の感情として聞くといっそう物語へ感情移入できますね。

 また、先行してメディア露出のあった「愛にできることはまだあるかい」や「グランドエスケープ」は、いつになったら流れるのかと観客をやきもきさせた挙句、物語一番のクライマックスシーンで流れるという演出もニクい。「グランドエスケープ」の合唱部分と物語の展開が120%マッチしたあのシーンから、「僕たちはもう大丈夫だ」という言葉で終わるエピローグまでは、私の中で邦画ベスト3に入る名シーンでした。

 ラストシーンの3分は、実は新海監督も何度も練り直したシーンだったと、パンフレット及び小説のあとがきでは語られています。2か月近く書き直しを重ねた結果、最初の方でRADWIMPSが新海監督に提供した「大丈夫」を改めて聞いた瞬間、あのエピローグを思い浮かんだのだそうです。

 かつてないほど完全に物語とシンクロしたBGMと劇中歌。その点でも文句なしに素晴らしい作品だと思います。

5 須賀さんが最後に流した涙について

 物語の冒頭で主人公と出会う須賀さん。

 冒頭から高校生にタカったり、怪しげな編集プロダクションのCEOをやっていたりと、怪しさ全開のキャラクターですが、実は愛妻家で娘をとても大切にしているなど、飄々としていて掴み所がないように見えて、随所にみられる二面性がとても魅力的なキャラクターです。

 須賀さんの最大の魅力はその二面性にあると思います。

 須賀さんには社会のルールを守らなければならない理由がある。須賀さんは奥さんの明日香さんに先立たれ、「ダメになってしまっていた」間に娘の萌花ちゃんを義母に引き取られてしまった。須賀さんは、娘さんの親権を取り戻して一緒に住むため、家庭裁判所の心証を少しでもよくするために社会的に「まっとうな大人」にならなければなりません。そのためには順風漫歩とはいえない仕事でも、しっかり稼いで保護監督能力があることを立証しなければなりませんし、理不尽な義母の言葉にも耐えて良好な関係を維持しなければなりません。

 しかしその一方で、かつて家出少年だった須賀さんは、帆高くんを見捨てることはできなかった。本来であれば、未成年者を家に泊めることは犯罪です。未成年者の保護は本来親や親族の役目で、他人である須賀さんが帆高を家に泊める場合、未成年者略取の容疑で逮捕される可能性があります。しかしそれでも須賀さんは帆高を助けざるをえなかったのです。

 違法と判断されてしまうとしても「困った人を助けてしまう自分自身」。その一方で、娘と生きる未来のために法的に正しい「まっとうな大人」にならなければならないというジレンマ――そのあるべき姿と自分自身のギャップに苦しむ点が須賀さんというキャラクターの魅力なのだと思います。


 さて、そんなギャップを抱えたまま帆高くんを匿っていた須賀さんですが、家出した帆高を探しに警察が来たことから、帆高との縁を切るという選択をします。

 いわばまっとうな大人になろうとする。二律背反の状態から脱して、社会的に正しい生き方を選ぼうとするのです。

 けれど帆高みたいな初対面の子供を放っておけないような男がそんなさっぱり割り切れるはずがなかった。「大人になると大切なものの順番を入れ替えられなくなる」と露悪ぶりながら、入れ替えられなかった自分に苛立ち、自棄酒に禁煙まで破ってしまう浸りっぷり。そりゃアメ(夏美)にも「ダッサいにゃあ」といわれてしまうわけです。帆高くんより娘を選びまっとうな大人になるという選択をしながら、心の奥底では違う選択をするべきだったんじゃないかと悩んでいる。

 須賀さんの場合、わざと悪ぶるような言葉遣いをするのは罪悪感の表れです。陽菜の件についても、雨よりも晴れのほうがいい、というのを、「人柱で狂った天気が戻るなら俺は賛成だけどね。ていうか、みんなそうだろ」と、わざと悪ぶった言葉でいいます。この辺は、どうあっても助けられない帆高や陽菜を、助けられないならいっそ突き放そうとしたのでしょう。

 一晩たっぷり自棄酒をした須賀さんは二日酔いで目を覚まします。目覚めてみると空は晴れていて、窓は大量の水で水槽のようになっている。

 多分、須賀さんはこの時、窓を開けたらどうなるかはあまり考えていなかったと思います。ただ、久しぶりに晴れた空をみて、「ようやく窓を開けることができる」とぼんやり考えたんじゃないでしょうか。

 空が晴れているから窓を開ける。これは一見して普通の行動です。しかし、窓を開けた瞬間、部屋には大量の水が流れ込んできてあっという間に水浸しになってしまった。

 水浸しになった部屋は陽光を浴びてきらきらと輝き非常に幻想的なシーンですが、あのシーンでは多くのものが水に沈んでしまっています。今までの仕事で集めた資料だけでなく、奥さんや娘さんとの思い出も水に沈んでしまったでしょう。

 実はK&Aの事務所には、奥さんや娘さんとの思い出の跡が大量に残されていました。子供の落書きがあったり、奥さんの書置きが冷蔵庫に張ったままになっていたり、須賀さんの寝室には箱からだしたばかりの赤いヒールが置かれていたり、事務所の前には使われなくなった三輪車が放置されている。夏美さんが「コレ私のじゃない」っていうブラは間違いなく奥さんのものだし、最初の方で夏美さんが寝転がっていたソファの奥にはカメラのレンズが大量に保管されていて、事務所には望遠鏡も置かれていましたが、須賀も夏美も使用している様子がないのであれも奥さんのものでしょう。ついでにいえばK&Aプランニングの名称は二人のファーストネームである「圭介&明日香」からきているものだと思われます。事務所にあった女性の影は間違いなくほぼ全て奥さんのもので、須賀さんはそういうものを一切処分できないまま、この2年間を過ごしてきたことになるのです。

 須賀さんは、あの窓を開けるという至極当然の行為で過去の思い出の殆どを水浸しにしてしまった。水に流してしまった。帆高を見捨てるという選択も、窓を開けるという選択も、普通の大人ならば何もおかしくはない行動です。しかし、それらの全てが過去を水浸しにして台無しにしてしまう行為に他ならなかった――そういうのを象徴的に示したのがあのシーンではないでしょうか。

 その後、須賀さんの元には刑事がやってきて、刑事から帆高の行動を聞かされます。帆高との関係を否定している須賀にこういうことを聞くのは須賀さんに対するゆさぶりで、警察の余裕のなさの表れでもあると思うのですが、須賀さんも最初はそんなゆさぶりに引っかかることなく平静に対応します。しかし、「帆高は陽菜を探しに警察から逃げだした」と聞き、須賀さんの心は揺れます。

 帆高は警察に連行されますが、あの段階では手錠をかけていません。おそらく銃器の不法所持の証拠が不足しており、あくまで家出少年の保護を名目とした処置だったのでしょう。つまり帆高は、この時点でおとなしく保護され銃の一件について黙秘を貫いていれば、事情聴取のあとで親元に帰されるだけで済んだ可能性が高い。しかし警察から逃げだせば、任意同行中の捜査協力拒否として公務執行妨害として逮捕されますし、そうなれば余罪の追及も厳しくなります。

 もちろん、帆高はそんなことは知らなかったでしょう。しかし帆高は自分の行動が反社会的なものだという認識はあったはず。それでも彼は警察から逃げ出し、陽菜さんを救うことを選びました。その行動は間違いなく人生を棒に振るもので、須賀さんが選んだ道とは正反対のものでした。

 だからこそ、須賀さんには帆高の行動が眩しく映った。大切なものの順番を入れ替えられず、「奥さんともう一度会いたい」という気持ちをあきらめようとした須賀さんの前に、まだあきらめていない帆高がいた。だから須賀さんは涙を流します。そして、大切なものの順番を変えられないほど社会にがんがらじめになった男が、まだ間に合うかもしれない、自分の手で助けられるかもしれないものの存在に気づいて、思わず一歩踏み出すのです。

 ただやはり、須賀さんは晴れ女や天気の巫女にまつわる伝説を信じてはおらず、帆高の背中を押すのではなく引き留めようとします。ここでもやはり須賀さんは社会一般の大人なのです。しかし、帆高に銃を向けられ、「もう一度あの人に会いたいんだ!」という言葉を突きつけられて、いよいよ須賀は自分の中の「大切な人ともう一度会いたい」という感情に向き合わざるをえなくなります。

 天気の巫女の伝説なんてあるはずがない。けれど、そうまでしていなくなってしまった人に会いたいという気持ちは否定できるのか。社会の全てを振り切ってでも会いたいと叫ぶ気持ちを否定できるのか。

 否定できるはずがありませんでした。だって須賀さん自身が奥さんとの思い出をそのまま残して、ずっと「会いたい」と思っていたんですから。

 結果として、須賀さんは帆高の「会いたい」という気持ちを唯一理解できる人間として、警察に反社会タックルをかまして帆高を行かせました。あの須賀さんの一連の行動は、「会いたい」という気持ちを一度は諦めようとしたけれど、それを最後まで捨てなかった帆高に心を動かされてしまい取った行動だったのでしょう。

 さて、須賀さんは大切なものの順番を変えられたのでしょうか。

 実はその答えはラストシーンの「アメ」でわかります。

 実は須賀さんは、快晴になったあの日にアメを捨てようとしていたことが、小説版を読むとわかります。帆高との関係を清算し、誰かを助けたい自分をあきらめるつもりだった須賀にとって、アメは残していても意味がなかった。だからいっそ逃がしてしまおうとしていたのです。

 しかしおそらく、アメはK&Aの事務所を離れなかったのでしょう。そして帆高を助けて、大切なものの順番を少しだけ入れ替えられた須賀さんは、アメをそのまま飼い続ける気持ちを固められたのではないかと思います。

 あの大きく丸々と太ったアメは、須賀さん自身が「まっとうな大人」ではないけれど、「誰かを助けられる大人」に変われたことの証ではないでしょうか。

 そういえば、エピローグの陽菜さんには須賀さんが後見人としてついていたのではないか――という考察も目にしました。大人がいない天野家ですが、大人の後見人をつけることで元のままの生活を続けることは可能です。須賀さんはあの日、公務執行妨害や未成年者略取といった罪で逮捕されたと思いますが、あの行いによって結果的に陽菜を助けられたし、帆高や凪くんに恨まれずに済んだ。天野家の後見人になれば警察や裁判所の心証も多少はよくなります。

 娘さんと凪くんはとても仲良しでしたが、もしも須賀さんが帆高が逮捕されるのをそのまま見送り、陽菜さんが戻ってこなかったら、凪と娘さんの関係も壊れてしまっていたでしょう。新たなK&Aプランニングの事務所で、須賀さんは心機一転して再スタートしました。しかし、その事務所にはアメがいて、そして須賀さんの周りには萌花ちゃん・夏美さん・凪くんがいてくれる。あの集合写真の笑顔こそ、須賀さんが守れたものだったのだと思います。

 須賀さん、あなたは本当に立派な父親だったよ……

6 ラストの「大丈夫」について

 ラストシーンの曲名でもある、帆高の「僕たちはきっと大丈夫だ」というセリフ。みている人でもけっこう意見が分かれるセリフなのですが、あのセリフの「大丈夫」の意味について、私なりにまとめたいと思います。

 その部分を読み解くには、まずエピローグ全体の流れをおさらいする必要があります。

 エピローグは帆高の高校卒業式から始まります。高校一年だった本編から2年半あまりの年月が経過しており、それがどれだけ長い時間だったかは「思えばいと疾しこの歳月」という歌詞で口をつぐむ帆高をみればよくわかると思います。陽菜さんと離れ離れになった2年半は、彼にとってはとても「疾し」とはいえない年月でした。その間に東京の街並みはすっかり変わってしまい、陽菜さんになんと言葉をかければいいのか悩む様子が描かれます。冒頭のモノローグで帆高が「あの日、あの場所で起こったことは、全て夢だったんじゃないかと、今では思う」と語っているように、2年半もの時間が経過して、帆高は自分の選択に自信をもてなくなっていました。

  彼は東京に戻ってきたあと、あの2か月間の間に知り合った立花富美さん(瀧くんのおばあさん)や須賀さんの元に訪れます。そこで富美さんは「東京の大半は元々は海だった」といい、須賀さんは「世界なんてどうせ元から狂っていた」といいます。

 二人が何をするでもなく世界は元から狂っていた。むしろ東京が海に沈む前の状況こそが異常で、今の状況が正常なのかもしれない。

 この辺の議論は、正直に言って正解のない議論です。どちらが正常で異常かは、いくら突き詰めていっても答えがだせません。

 気象神社の神主が「何が異常気象だ。そもそも天気とは天の気分、正常も異常も図れん。湿って蠢く天と地の間でただ仮住まいをさせていただいているのが人間」といっていたのはそういう意味なのです。正常も異常も人間の尺度、いわば社会が判断しているだけで、いくら考えても答えはでないのです。そもそも帆高は雨になるとむやみやたらにはしゃぎだす雨好きな少年で、晴れと雨が交互にくる正常な世界とやらにもあまり執着していなかったと思います。

 つまり帆高が悩んでいたのは、今ある世界が正しいか間違っているかではないのです。変わってしまったこの世界が「自分の意思で選んだ」のか、「勝手にこうなった」のか、ということに悩んでいるのです。
 もっといえば、今の世界になった責任は僕たちにあるのか、それとも他の誰かにあるのか、ということ。それは善悪の問題ではなく、あくまで因果のお話です。

 そこで大人たちのいうように、「世界は勝手にこうなった。だから、僕たちに責任はない」、といってしまうことは簡単です。どうせ世界は元からこうだったのだから、誰も責任はないんだ、と言ってしまえば、それで彼らの重荷は取れるのです。

 しかし帆高はそうはいいませんでした。2年半ぶりに再会した陽菜さんの姿をみて、自分自身が「選びとった」ものをみて、ようやく自分がそれを選択したんだと心の底から実感できたのです。天気の巫女の力を失ってもなお何かに向けて祈る彼女の姿をみて、今度こそ18歳になる彼女をみて、その選択のために多くのものを犠牲にしてもなお、「価値のある選択をした」んだと心の底から確信できたのです。

 当然ながら、選択には責任が伴います。

 「元から世界はこうだった」「世界は元から狂っていた」、というのは、選択を行わなかったから責任はない、という処世術でもあります。勿論、世界の秘密を知るのは陽菜と帆高だけなので、その選択の責任を追及する人間はいませんが、だからこそ帆高と陽菜は「あの日、あの時見た世界は全て夢だったんじゃないかと思う」といって責任逃れすることもできたのです。

 しかし、あれだけ大人たちの処世術を聞かされながらも、それでもなお帆高はこの世界を選んだと確信しました。お互いが共に生きる限り、この世界を選んだという責任を負っても生きていけると。

 「天気の子」の副題である「Weathering With You」は、Weatherが持つ「天気」という意味のほかに、「君と(困難、嵐などを)乗り越える」という意味のダブルミーニングになっています。

 どんな困難であっても、君と二人なら乗り越えていける。だから「僕たちは大丈夫だ」――映画の副題に書いてあることが、そのまま帆高のいう「大丈夫」の意味になっているのです。

7 「天気の子」が伝えてくるメッセージ

 「天気の子」パンフレットには、新海監督からこういうコメントが寄せられています。

「今回の作品の柱としていちばん根本にあったのは、この世界自体が狂ってきたという気分そのものでした(中略)ただ、それを止めなかったのも僕たちです。今の世界は僕たち自身が選択したものでもあります。例えば現実における気候変動も、その一因は僕たちの日常生活にある。なにげなくエアコンを使い二酸化炭素を排出し、もちろんそれは生きていくうえで必要なことだけど、僕たちは今の世界の形をそうやって絶え間なく選択し続けているのだといえます。当たり前のことですが、僕たち大人はそういった世界のありようについてそれぞれなんらかの責任を負っている。でも一方で若い人たちにとっては、今の世界は選択の余地すらなかったものです。生まれた時から世界はこの形であり、選択のしようもなくここで生きていくしかない。そこから思いついたのが、主人公が「天気なんて、狂ったままでいいんだ」と叫ぶ話だったんです」
「そもそも物語にはオーソドックスなパターンというものがあって、世界が狂うストーリーの場合は、エンディングでは調和が取り戻されなければなりません。しかし現実世界では、すくなくとも短期的には調和は戻ってきそうもないわけです。世界はよりカオスになっていく。そんな中にあって、一件落着して"元に戻ってよかったね"で終わる話は今さら難しいのではないかと思いました。昔話ならば悪役を倒して世界に平和が戻るけれど、世界はそんなにシンプルじゃないことを皆が身に染みて知っている。ならば、調和が戻らない世界で、むしろその中で新しい何かを生み出す物語を書きたいというのが、企画の最初の思いでした」

 この物語では、調和とは異なる選択をした世界としてエピローグが描かれています。帆高たちの選択があってもなお、世界が壊れたりすることはありませんでした。監督が述べた通り、調和を選択しなかった世界で、なお新しい命が育まれ、新たな価値観が生まれていく様子が描かれているのです。

 調和を選ばなくても世界は壊れてしまうことはない。

 そもそもその調和というのは、今ある社会を効率よく回すために大人たちが選択してきたものの結果であるにすぎず、それも必ずしも正しいわけではありません。

 その最もたるものが作中の異常気象です。公害による地球温暖化や、そこから発生する異常気象は、現実世界でも我々の生活に大きな影響を与えています。さらに日本は失われた30年の間にすっかり活力を失ってしまい、その後始末を若い現役世代に負わせようとして、ますます活力を失いつつあります。長く続く雨は、いわば戦後経済成長のツケ、失われた30年の象徴なのです。

 「今の若い子たちってかわいそう」というセリフが作中ででてきます。異常気象の責任が大人たちにあるにも関わらず、まるで他人事のように述べる言葉です。この夫人は本来親権をもっている須賀さんと娘の面会を何かと理由をつけて拒絶する人間であり、この夫人の言葉は、他人に責任を押し付けてきた社会人のズルさを感じさせるものでした。

 社会の暗部を感じさせる描写はほかにもあります。作中では冒頭の新宿歌舞伎町のシーンで「女性を性風俗へ勧誘する『バニラ』の宣伝車」や「未成年を性風俗に勧誘するスカウトマン」の姿が描かれています。

 そもそも、「天気の巫女」そのものが、社会の責任を子供に押し付けようとしているともいえます。異常気象を解決できない社会が、子供を「人柱」にすることで社会の安定を保とうとしている。天気の子の社会とは、子供を犠牲にしてようやくその形を保っている社会なのです。

 解決する力を持たない大人世代が責任逃れをした結果、社会は問題解決能力を失い、若い陽菜や帆高といった世代にそのツケを払わせようとしている。陽菜のように幼い少女を人柱にして保たれる世界ははたして正常なのか。子供を犠牲にする世界が正常なのか。

 しかしその一方で、その世界で不通に生きている人間だっている。裏社会の人間であるスカウトマン木村は、後半で奥さんとともに子供を抱えている姿が描写されます。

 この作品では、確かに社会的に悪とされる存在は出てきますが、だからといって断罪されるようなことはありません。

 誰だって、善悪の区別なく平等に生きている。世界だって、正常か異常かの区別もなく、ただそこに存在している。

 だから、子供たちが善か悪か、正常か異常かの問題に縛られる必要はない。それよりも大切な人を抱きしめて生きることの方が何倍も価値がある。誰かが押し付けてくる責任よりも、今目の前にいる大切な人を助けるために、警察や大人、社会の全てを振り切って走り、「世界よりも君が大事だ」と叫ぶ。それで調和が崩れたとしても、その先に新しい調和があるかもしれない。だから勇気をだして叫ぶべきだと、そういうメッセージが込められている作品だと感じました。

 帆高達はおそらく、この世界を正しいとも間違っているとも考えない。ただ、世界を選択した事実を受け止めて、これからくるであろう新しい調和を探していくことになるでしょう。

 帆高は農工大で「アントロポセン=人新世」について学ぼうとしています。アントロポセンとは、人の手によって環境が激変しつつあるということを受け入れて、それでもなお持続可能な地球環境を保持する方法を探すという研究分野です。ここから先は私の想像ですが、おそらく帆高や陽菜のような若い世代が、調和の崩れた世界で、人柱に頼らず、かといって狂っていくままにはせず、新たな調和を探っていくのでしょう。

 そんな、今を生きる若い世代に向けて強いメッセージを放っている本作。

 おそらくこの作品の中にはここで書いた以上のメッセージが込められていると思います。恐ろしく細部まで練り上げられた物語なので、一度みただけではなかなか気づけないポイントもあると思います。

 

 いかがでしたでしょうか。

 本作を16回も見てしまうほどはまってしまったおっさんが長々と「天気の子」の好きなポイントを語るレビューとなってしまいましたが、もしもこのレビューを読んだ皆さんが、もう一度「天気の子」を見に行きたい!と思っていただけたなら幸いです。

 16回みなくてもいいです、ただもう一回ぐらい見に行きましょうよ。
 劇場でこの作品をみれるのは、本当に今だけですからね。

 それでは最後に一言。
 ありがとう、新海監督。

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