見出し画像

さっきの雑記 4(オモイツキ備忘録)

【今回のテーマ】
「進次郎ポエム」を考える

「反省をしていると申し上げましたが、反省しているんです。ただ、これは私の問題だと思いますが、反省をしていると言いながら、反省をしている色が見えない。というご指摘は、私自身の問題だと反省をしております。」

読んだ瞬間、度肝を抜かれた。

2月20日付け、これを書いている段階で小泉進次郎環境相の最新発言の一部抜粋である。僕はこれほど純粋に「中身のない反省の言葉」を聞いたことがなかったからだ。

とはいえ、僕はネット上などでしばしば「ポエム」と揶揄されるこのような進次郎氏の発言を馬鹿にするつもりはない。

今回はむしろ、彼はとても「いい子」なのであるという話をしたい。彼が小学生なら、間違いなく先生にも気に入られて「みんな進次郎くんを見習って、いい子になってください」などと言われているはずだという話をしたい。

そしてその「いい子」の成れの果てが、小泉進次郎なのではないかという、少し恐ろしくて悲しい物語を始めたい。

まず初めに、彼が「いい子」であるということを理解するためには、冒頭で引用した彼の発言は、彼にとって全て真実なのだということを認める勇気が、僕たちには必要になる。

彼はきっと本気で、心の底から「反省」しているのである。つまり彼は「反省すべき場面である」ということを理解し、だから彼は彼なりに国会の答弁の場でしっかりと「反省する」を「している」のだ。

さて、ここで僕は「反省するをしている」と、いくぶん回りくどい言い方をしたのには訳がある。それがどういうことなのか、もう少し分かりやすい例えを出してみよう。

「悪いことをしたらごめんなさいと言いなさい」
「何かしてもらったらありがとうと言いなさい」

子どものころに誰もが、周りの大人から一度くらいはこう言われたことがあると思う。
そうして言われた通りにすると、周りの大人たちは口を揃えてこう言ってくれたものである。

「いい子だね」

と。

「ごめんなさいを言う」をするといい子。
「ありがとうを言う」をするといい子。

まだ小さい子どもたちを見ていると、自分が何をしたのかも分からないまま、言われた通りに「ごめんなさい」と言っていたり、どういう気持ちかも分からないまま、ただ「ありがとう」と言っている場面にしばしば遭遇する。

けれどその言葉には本人の気持ちという「中身」がないから、表面的なところで言葉がグルグルとただ上滑りを重ねる。

未就学児や小学生が周りにいたことがある人なら、そういう場面を経験したことがあると思う。

僕は小泉進次郎の発言も、基本的にはこれと同じなのだと思うようになった。そしてそう考えると、彼の発言をとりあえず「理解」はできるようにはなった。

そんな僕の視点から、冒頭の発言を解説すると以下のようになる。

1.反省していると申し上げましたが(←すでに「反省する」をしたことの表明)

2.反省しているんです(←その事実確認)。

3.反省していると言いながら(←再確認による強調)

4.反省をしている色が見えない(←周囲からの新しい指摘の確認)

5.(私自身の問題だと)反省しております。(←新しい指摘に対する「反省する」を今している)

つまり、あの発言をしている間にも本人は「本気」で何度も「反省する」をしているのだ。ただその中身が、清々しいまでに空っぽなのである。

「ちゃんとごめんなさいって言ったんだけどね、聞こえなかったみたいだから、もう一回大きな声でごめんなさいって言おうと思います」

意訳するとこうなる。小学校の学級会なら模範解答だっただろう。こう言った後に、ペコリと礼儀正しく頭を下げれば、大抵の大人は満足してくれるだろう。

しかし残念ながら、彼は小学校の放課後の学級会で立たされて反省させられているわけではない。国会という場で、立派な大臣になった大人が本気でやり続けているのだと思うと、少し背筋が寒くなる。笑っている場合ではなく、もはやサイコホラーの域である。

何かしらの責任を少なからず負うようになれば、必要なことは「いい子」であることなどではなく、たとえ失敗に終わってしまうとしても、しっかりと「具体的に行動する」ことになってくるはずである。

それが「大人」になるということだ。

けれど、小泉進次郎は、あの自民党の一時代を築いた小泉純一郎の息子であり、政界の中でも屈指のサラブレッドである。そんな彼が常に求められてきたことは、きっとただひたすらに「いい子でいること」だったのではないかと、僕の想像はふくらんでいく。

小泉進次郎くらいの年齢なら、自民党を支持する多くの人にとって彼は「子ども」である。だからいい子でいることを求められ続け、そして盤石の父親の票田をそのまま引き継ぎ、全く政治経験なしで議員になってしまう。

議員なってからも、もちろん周りの多くの議員にとってやはりその彼は「子ども」である。自民党の家族観や教育観に照らしてみれば、子どもは自分たちが考える「いい子めでいればそれでいい」。そんな重鎮たちに囲まれて、さらにいい子に磨きがかかったかもしれない。

そして、いい子はただ「いい子である」という理由で学級委員長をやらされるように、小泉進次郎はついに大臣という国の要職に就いてしまう。

つまり皮肉にも彼は、「いい子」であり続けることで一国の大臣になれるということを示したことになる。しかしその代償として、彼の言葉の「中身」は奪われてしまったのだ…人魚姫が人間になる時に声を奪われたように。

こうして、小泉進次郎の物語はホラーから悲劇に変わっていく。

きっと小泉進次郎は「キングオブ日本のいい子」なのである。そんな彼の姿が、僕の目には悲劇の主人公に見えるけれど、きっと多くの日本人にとっては、彼はいい子の代表みたいな存在なのだ。

だから僕は、彼個人を責めたり馬鹿にしたりする気にはなれない。

そんなことをしても、彼の中身が埋まっていくことはないと思うからだ。

だから今回、僕はこうして僕の感じていることをここにこうして記しておく。

この危うさに、いつかこの国の多くの人が気付いてくれることを祈りながら。