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大森さんとの私的な思い出

最初に

つい先日、お世話になりまくった映画監督・大森一樹さんが亡くなった。
まだどこかにいる気がして、少し寂しい。
だから、書こうと思う。
追悼文なんて大それたものでもなく、
ただ自分が忘れたくない大森さんとの思い出を書き連ねようと思う。

出会い

大阪芸術大学の門戸を叩く以前、私は、彼をゴジラの監督だと認識していた。入学して早々に、大森監督作品を図書館で数本見て、「あ、ゴジラだけじゃないんだ」などと考える不勉強な私だった。

大学1年生の冬、確かその年は、鈴木清順監督が亡くなった年で、公私ともに親交のあった大森さんが講義に訪れた。普段は別の先生が教える授業で、「東京流れ者」の上映が始まり、上映後、突然学科長が入ってきたものだから、驚いた。

そして、鈴木清順という監督の持つ不思議な魅力や、地震がかかわった時のエピソードを数個、学生の前で面白おかしく話した。そして、「こんな監督は後にも先にいない。そんな監督が、ここから生まれたら幸せだ」と締めた。

なんだか映像学科にふさわしいと言ったら変なんだろうけど、授業で初めてジーンときた瞬間だった。

大喧嘩、のち

それから時は過ぎ、大学二年生に上がったころ、「作品分析」とう授業があった。毎週、映画館で映画を見て、撮影技法や演出についてあーでもないこーでもないと話し合う痛快な授業だ。

その授業で、『津軽百年食堂』という大森監督作品を見た。お世辞にも、全く良いとはいえず、正直に「駄作だ、くそだ、人生の2時間が無駄になった」とレポートに書いた。

今思えば恐れ多いことこの上ないのだが、そのころは何も考えずに、心の赴くままに感想を書き連ねていた。そして、案の定怒られた(笑)

けれど、そういう尖った雰囲気を気に入ってくれたのか、以降、この授業ではよく指名され、よく話した。毎度毎度、上映が終わると喫煙所に集まり、感想を伝え合った。いつも大森さんは「あれ、ダメやな」と、自分の映画でも人の映画でも忌憚なく話していた。「ダメだと思う作品、上映しなきゃいいじゃないですか」と、冗談めかしては、長い時は1時間も話し込んだ。

「制作2」という16mmフィルムで短編映画を制作する授業でも、大森さんと関わった。うちの班は、とにかくプリプロ段階から問題山積で、毎週毎週怒鳴られる日々だった。けれど、大森さんは怒りながらもユーモアがあって、そのあたりのことをすごく気遣える人なんだと思った。

撮影現場中、時折姿を見せては、「カメラ覗かせてくれ」と、ファインダーをニヤニヤしながら覗き込んでいた。私はその姿に、妙な憧れを持ってしまったのを強く覚えている。嬉しそうに片眼を閉じながら覗き込む様は、まさに映画少年だった。きっと、大森さんは学生のころから全然変わっていないんだろうなと思えた。

結局、その短編映画は「どうしようもない」と一蹴されたけれど、最近話したときは「あれ、やっと面白さがわかったよ」とおっしゃってくれた。めちゃくちゃうれしかった。

ピンク映画を作りたい

3年生に上がってからも、喫煙所でちょくちょく話し込む日々だった。
拙作『濡れたカナリヤたち』の準備中、学内でピンク映画を作るという、よからぬ噂を聞きつけた大森さんに呼ばれた。てっきりめちゃくちゃ怒られるのかと思った。どうせ撮るな!っていうのかと思った。そのころは、複数の先生からそんなものを撮るな、警察沙汰になるぞ、と脅されていたものだから、戦々恐々だった。

けれど、大森さんはいつものようにタバコに火をつけて、ニヤッと笑った。「俺もやりたかったんや。ピンク映画」と一言漏らした。驚いた。それは、ピンク映画を学内で撮ってもいいというお墨付き以上の驚きだった。とにかく羨まし気な瞳をしていたのだ。「ええなぁ~。エロいのやれよ」と続けて漏らした。まだ羨ましそうな顔をしていた。
「学科長も撮ってくださいよ!見てみたいです!」と答えると、「(絡みを撮るのは)恥ずかしい」とハニカんで答えた。

撮影直前も、撮影後も、何度も「エロいんか?」「まだか」と聞いてきてくれた。はたから見たらスケベ親父でしかなかったが、その一言一言が、めちゃくちゃ有り難かった。

整音が終わり、他の学生作品と合わせて合評会が行われた3年生の冬、私はひどく落ち込んでいた。出来上がりに、満足できなかった。流れる画面を直視さえできなかった。憧れが現実によって破壊される瞬間だった。誰とも話したくなくて、一人で早々に帰路についたのを覚えている。その姿を、大森さんも見ていたらしく、後日呼ばれた。

初めて入る学科長室。「もっとやらんかい」「勿体ないぞ」と、映画の感想をもらった。「そんなこと、自分が一番わかってるんじゃクソジジイ」と、1年生の頃なら言っていたと思う。その時は、「はい」としか答えられなかった。しばしの沈黙の後、特段会話なく部屋を出た。「映画のこわさ、知ってしまったんやな」と、ぼそっと、そしてニヤッとしながら話しかけてくれた。私には、まさしく”こわさ”という言葉がしっくり響いた。大森さんもこんな気持ちになったことがあるんだ、と思って、心が少しだけ軽くなったのを覚えている。

やっぱり人たらしだな、映画監督ってのは。

卒業してから

それから、卒業制作で『海底悲歌』を制作した。完全に吹っ切れたわけではないけれど、なんとか完成させた。大森さんは、その映画を見て、すごく素敵阿コメントを書いてくださった。僕には、何より代えがたい素敵な文章で、小躍りしたくなった。

学外上映会で、上映中止になった時も、応援してくれた。どっかでやらなあかんやろ、と動いてくださった。泣けるほどうれしかった。

オークラでの上映が決まって、ポスターと一緒にご挨拶に伺った時、大森さんはおめでとうとか、よかったね、とかじゃなくて、「次もエロいんか!?」「あの女優の身体よかったわぁ、もっとやってええぞ」と、予想の斜め上の言葉をくださった。

とにかく前向き前向きで、次、次、次、と応援してくれた。「次ももっとどエロいのやりますから」と答えて、結局見せられずじまいになった。

最後に

大森さんが亡くなったからと言って、世界は終わらないし、大学は今日も回っている。数週間たって、これがあと数か月もすれば遠い記憶になるんだろう。たまに、学科長のいない学科長席を眺めて、寂しくはなるけど、でも世界は動いていく。

学科長が私を忘れないうちに、新作を撮りたいななんて思いながら、今日も過ごしている。あっちでも、酒とタバコひっかけて、映画談議に花を咲かせてるんだろうな。またいつか。合掌。

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