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新作の撮影間近につき

こんばんは。
タイトルの通り、最近は新作のクランクインに向けて大忙しの毎日を送っています。
先日、OP PICTURESさんの新人監督発掘プロジェクトにて、私が優秀賞を受賞した旨、Twitterでもご報告しましたが、その辺りの話は、次回に置いておくとして。
今日は、週明けに始まる新作について、チラリとお話をしようと思います。

前作から早2年の月日が流れ

前作である卒業制作『海底悲歌』から、早2年間。色々と苦難と迷走を繰り返し、応援してくださる方々からは、「次はどんな企画ですか!」なんて、何度も聞かれましたが、ようやく新作を作れそうです。
やはりそれは、大阪芸術大学に戻ったからこその企画です。背伸びしない、身の丈にあった経済の中で、半径0メートルの物語を、両手を広げたら届くくらいの仲間達と作ります。
詳細は、作品が完成してからのお楽しみ、となりますが、今回は完全自主制作で、しかも短編映画というわけで、もったいぶって黙ってても日の目を見ない気がするので、少し書きます。
タイトルは今のところ、『僕はまだ、どこか途中の色。』というもので、これはハッキリと作家・村田沙耶香さんから影響を受けたものです。どの小説からというのは、まぁ好きな方ならわかるでしょう。
物語としては、「言いたいことを言えない」という単純明快なものです。もちろん、物語には物語たるものがあって、主人公たる主人公がいて、周り固める環境や世界があるわけですが、とにかく「言いたいことを言えない」人たちの物語です。シド・フィールドから言わすと、「言いたいことが言えない主人公が言いたいことを言えるようになる」という物語なんでしょうが、私はそうとは思えなかったので、「言いたいことを言えない主人公が、悩んだ末に言わないことを決意する」ことにしました。
それはきっと、前述の半径0メートルで描きたかったからでしょう。
何を隠そう、私にだって言いたいけど言えないことがあります。人生の最序盤、物心ついた時から今に至るまで、言えずにいることがあります。きっと、世界中がいっちまえよ、と応援してくれても、言えない気がします。それから思春期に犯した大きな罪があります。ここまでは言えますが、そこから先は、世界中がひっくり返っても言いたくないし、周りに知られたくありません。もう一つありました。が、これは自分自身勇気を持って打ち明けたことです。詳しくは、下の記事を見てください。

まぁ、結局のところ、自分が本当に抱えているものなんてのは、たとえ言ってごらんよ、と優しく諭されても言えないもので、ましてや世界に打ち明けたいものでもないわけです。映画や小説や、そういう物語を描くメディアでは、やっぱりシド・フィールドよろしく「打ち明けられる」ことが多いわけですが、人間舐めんなよ、って話で。そういう勢いで作った企画です。
ともすると、こういうエンディングは後ろ向きなくらい物語かのように思いますが、その実、「言わない」「打ち明けない」ということは、本当に暗いことなんでしょうか。また、それはこれまでの主人公と同じなのでしょうか。そういうことを考えながら、ラストに向かったわけですが、やはり、関わるスタッフでも俳優部でも、そう捉える人がいて、難しいものだなと思います。必ずしも、暗いものではないし、これまでの主人公とは、「決意」という点で大きく違うと思っています。
このnoteは私に近しい、もしくは私に関わる人間が、多少なりとも読んでくれているので、もしかすると今回の俳優部も読んでいるかもしれません。私はそう考えて、書きました。あなたは?

今回の挑戦

今回の短編映画は、やはりこれまで通り、挑戦を秘めています。一つは、フィルムで撮影するということ。昨今のデジタル化革命において、フィルムカメラというのは、懐古趣味であるかのように捉えられますが、やはりフィルムの持つ力、というのは偉大で、純粋に16mmフィルムでも、まだデジタルが持たない色域を映せたり、そういう技術面でもメリットはあります。まぁ、私は技術面はてんで素人なので、聞き齧ったことを書きましたが、もう一つ実感を伴ったメリットがあります。
それは、撮影現場がカメラを中心に回るということ。映画現場において、小型化、軽量化の末に頻出する技法、それが「移動撮影」です。ジンバル?スタビライザー?カメラマンはカメラを持たなくなり、監督はカメラの横からモニターの前へと立ち位置を変遷させました。それは、多くの場面において、便利になり、自由になったように思います。けれど、果たしてそうなのだろうか、と思うのです。
フィルムカメラ、しかも今回はモニターもない。撮影できる実時間にも限界があります。その緊張感を忘れられません。そして、カラカラカラと音を立てながら、カチンコが叩かれる瞬間のワクワク感。忘れられません。何より、カメラの中心に人が戻っていく、というのは、例えば会話の距離感をとっても、その制限→豊かさへとつながるような気がしています。

また、今回は私がこれまでとにかく弱いと叱咤されてきた「芝居」も挑戦の一つです。これまでの作品では、技術部、とりわけ撮影部との時間が長く、その次に美術部、衣裳部、と続きました。圧倒的に俳優と対峙する時間が少なく、振り返ると、逃げてきたなと思うわけです。
いい芝居とはなんなんだろうか、そもそも俳優と何を話せばいいのか。私は、そういう言葉を持たない監督だった気がします。読み合わせや衣裳合わせを、やや儀式的に消化し、何か聞かれれば、「まずやってみてください」と唱えていたような気がします。
けれど、転機がありました。昨年の夏、私は学生の授業の中で、俳優をしたのです。そこで私は、妊娠した奥さんと共に、生まれてくる我が子の名前を考える芝居をしました。着慣れないスーツを見にまとい、ああでもないこうでもないという監督を前にし、段取りを話す助監督を見て、それから相手役の可愛い奥さんとも話しました。見る視界が、180度違うというのは面白いものでした。そして何より、芝居が楽しかった。
とにかく、今回の作品では、俳優部と色々話してみようと思いました。読み合わせも、衣裳合わせも勿論ですが、それぞれが持ち寄った役のイメージや、状況の理解など、そして実際に俳優の意見を多く、台本に取り入れました。むしろ、技術部のスタッフとの時間を削っても、俳優と時間を過ごすことを優先しました。
目に見えて、変化を感じたのは、私の脚本への理解だと思います。役を役ではなく、一人の人間として捉えられる感覚と言いますか、とにかく話すためには、考えなければならなくて、考えるためには、知らなきゃならないわけで、知るためには興味を持たなくてはいけないわけで、その根本から見つめ直せたというのは、非常に楽しい経験でした。
それらが一体、どういう風に芝居に作用し、どんな作品に仕上がるのか、とても楽しみです。

ここから1週間足らず撮影して、現像して、スキャニングして、編集して、整音して、グレーディングして、完成はいつになるのやら。そういえば、今回は整音にも挑戦します。とにかく早く皆さんにお披露目できたらと思います。

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