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小さな街の遊園地、続く想いを乗せて創業100年目に叶えたい夢

函館地域承継ストーリー ​継ぐ人、継がせる人。


函館市の遊園地、函館公園『こどものくに』のジェネラルマネージャー加藤大地さんを取材しました。曽祖父の加藤進一さんが始めたという『こどものくに』。ランドマークである日本最古の観覧車や、低年齢でも乗れる遊具など魅力的なコンテンツで、函館市民をはじめ全国のファンに親しまれています。家業を意識してこなかったという大地さんに、事業を継ごうと思った経緯とこれからの『こどものくに』についてお聞きしました。

【函館地域承継ストーリー#6】
北海興業株式会社 ジェネラルマネージャー 加藤大地(かとうだいち)さん

夢を絶たれた少年が、家業を意識するまで


ー中・高の時は函館を出ていたんですよね。

加藤:世界で活躍できるテニス選手になりたいという夢があったんです。小学校で北海道3位になったんですけど、全国大会だと手も足もでないんですよ。これじゃダメだよねって父と話し合って、京都へ7年間修行に行きました。

ー夢のために函館を出られた。

加藤:ところが19歳の時に右手首をケガしてしまって、ラケットが握れなくなりました。手術という選択肢もあったんですけど、1日、2日練習しないのが命取りになる世界で、リハビリも含めると1年も競技ができなくなってしまう。それは厳しいなと思いました。

ーつらい…ですね。

加藤:これまでずっとテニス漬けで、勉強もしてこなかったし、ケガの影響でコーチになるという道もなかった。とりあえず函館に戻るしかありませんでした。帰ってきてポカンとどうすればいいんだろうと思っていましたね。

ー夢を絶たれてしまった。

加藤:家族からは、しばらく休んだらと言われました。ただこれまで毎日練習をしてきたので、休みに耐えられないというか、何をしていいのかわからない。遊ぶこともしてこなかったんですよ。父が見かねて『こどものくに』のアルバイトを提案してくれました。それが『こどものくに』に関わるようになったきっかけです。

ーそれまで家業として『こどものくに』を意識してこなかったんですか?

加藤:家が社長だとか、遊園地を経営しているって、外で言ったことないと思います。それぐらい意識の外でしたね。アルバイトを始めた時も継ぐとかそういう考えは全くなかったです。

ーそれが今では、しっかりジョインしている。

加藤:アルバイトを始めて3か月が経ったころ、前任のジェネラルマネージャーがご家族の都合で退職されることになりました。その時に「大地、やってみないか」ってなったんです。

ー急ですね。

加藤:マネージャーになったからといって家業を継ぐってことは考えていなくて、とりあえずやってみようと思って引き受けました。右も左もわからない、なんならアルバイトスタッフのほうが先輩ですから。

ー苦労されたんじゃないですか。

加藤:ある時、アルバイトスタッフに「大地くん、今年はかき氷やらないのかい。」って言われました。通年働いたことがなかったので「えっかき氷あるの?」って。いつから出すのか書類を調べたら例年より1週間ぐらい過ぎてるんですよ。社長にしっかり怒られました。そんなことを繰り返しながらやってきましたね。

ースタッフとしても新人なんですもんね。

加藤:なにより父との関係が難しかったです。今まで父と子だったものが、職場では社長と部下の関係になってすごい戸惑いました。スタッフの前でいつも通り話してしまったり、業務命令に口答えしてしまったりしたんです。仕事もわからないのにそんな衝突もしていたので、スタッフのみんなもついてきてくれなくて、初めのころは独りぼっちのように感じていました。

ーそれでも続けてこられた。

加藤:最初のころは、マネージャー業をやりながら現場にも毎日でていました。アルバイトも3か月しかやっていなかったので、勉強していたんです。接客をしていると「小っちゃいころにここで遊んで、今は孫をつれてきたんだよ。」とお客様が話しかけてくださる機会もあります。そうするとやっぱり、今後『こどものくに』はどうなるんだろう、誰かが残していかなきゃいけないと思うようになったんです。使命感じゃないですけど、そういう想いがだんだんと生まれてきましたね。

ー仕事という以上の責任ですね。

加藤:父には「『こどものくに』には社会的な意味があって、子供たちの遊び場であるここを残すのが一番。おまえに継がせるためにあるわけじゃない。」ってずっと言われてました。それでもいろんな人から「大地くん、次継ぐんでしょ。」とか「ここ、すごい楽しいから残してね。」「がんばってね。」と声をかけていただいているうちにちょっとずつ意識するようになったんです。

ーどうしても期待されてしまいますよね。

加藤:ちょうどそのころ、観覧車博士の福井優子さんが『こどものくに』の観覧車を登録有形文化財にしないかと言ってくれました。それを機に『こどものくに』や函館公園の歴史をいろんな人に聞いたり、調べたりしたんですよね。それで「あっこの施設、すごい。」と思いました。

ー意識してこなかった『こどものくに』の価値を再認識できた。

加藤:そうです。そこで初めて自分が継げるという選択肢をもっていて、継ぐのか、継がないのかというのを考えるようになりました。

函館の歴史とともに歩む『こどものくに』

ー今はもう継がれるつもりなんですよね。

加藤:父がなんというか分からないのですが、任せてもらえるようにがんばっています。

ー創業者のひいおじい様、加藤進一さんから数えて、4代目ですか?

加藤:いえ、5代目ですね。進一からその弟に、そこから進一の息子である祖父に引き継がれて、現在の父が4代目です。話を聞くと3代目の祖父のころには経営がかなり大変で、父が社長になって1番初めにした仕事は自分の給料ダウンとボーナスカットだったと聞いています。そこから父が建て直して今があります。

ーお父様すごいですね…!

加藤:そう思います。私は入社してすぐ観覧車が文化財に認定されたタイミングだったこともあり、メディア露出も受けて、お客様からも温かい声をいただけて、一番いい時にやらせてもらっていると思います。開園して66年になりますが、歴史があってみんなの思い入れがあっての今があると思っています。

ー66年の歴史。確か観覧車は73歳だったと思うんですが、『こどものくに』のものではなかったんですか?

加藤:もともと大沼国定公園にあった観覧車なんです。大沼をリゾート地にしようと1950年に設置されました。最初は物珍しさから人気の遊具だったそうですが、だんだんと人が来なくなってしまった。それで『こどものくに』に持ってきたみたいなんですけど、そこの経緯や運搬方法などは不明なんですよ。

ー『こどものくに』に来た経緯から不明なんですね。

加藤:大沼から移設してきたことは明らかなんですけど、なぜ来たか、どうやって来たかがわからない。製造業者ですらいまだに不明なんです。当時の新聞に東京の工場で完成という記事があるので国産だってことはわかっているんですけど。

ー国産…!本当に貴重なものなんですね。『こどものくに』自体はなんで始まったんですか?

加藤:1954年に北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)というのが函館公園と五稜郭で開催されました。その催し物の一つとしてメリーゴーランドや飛行塔といった遊具の設置があったんです。開催後に残されていた遊具を持ち寄ったのが『こどものくに』の始まりです。

<--続きは「いさり灯(び)」で>

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