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花山法皇ゆかりの地をまとめた(西国三十三所を除く)

花山法皇については西国三十三所の中興の祖として知られ、三十三所の各寺には花山法皇が詠んだとされる御詠歌が残されているが、花山法皇が地方巡行に訪れたのは三十三所の寺院ばかりではないようだ。

考えてみれば当たり前で、法皇が地方に出向くとなれば律令制当時の各地の国司が出迎えることになるだろうし、そうとなればその国の最高建築であった国分寺と国分尼寺の参拝は欠かさなかっただろう。また、花山法皇が長徳の変後の十数年を暮らした花山院菩提寺は御幸中に訪れて気に入った場所であったというのだから、道中の無名な寺院も数多く訪れたに違いない。

つまり、花山法皇のゆかりの地というと、関西中国地方と四国の平安時代中期以前に建立した寺社仏閣はほぼ全部ということになるのだろう。それから1000年という月日を経て、現在まで花山法皇の伝承を伝える場所が西日本には多数あるようだ。ネットで調べられる限りの情報をまとめてみたので、花山法皇マニアは参考にしてみてほしい。

※末尾に"*"のついた場所は筆者による訪問記あり


中国地方・四国地方

山口県 松嶽山正法寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜」

松嶽山正法寺

住所:山口県山陽小野田市山川1728
どうやら、花山法皇の伝承は西端が山口県のようで、九州までは足を延ばさなかったようだ。
開基が花山法皇とあり、花山法皇作の十一面観音があるとのことで、花山法皇マニアにはたまらない場所だろうが、実際の十一面観音は山口県立美術館にあるそうなので注意が必要だ。しかも、実際の十一面観音像は1193年作とのことで、花山法皇作というのは伝説の類だろう。

山口県 桜山南原寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜」

南原寺を訪問したが、こんな写真しか撮れていなかった。。。

住所:美祢市伊佐町南原
南原寺の公式では花山法皇はこの南原寺で崩御されたとあるが、他にも花山院菩提寺、京都、石川県那谷寺での崩御の話もあり、実際どこで亡くなったのかわからない。あるいは各地を転々としながら何度も亡くなったのか。
他にも花山法皇と尼との悲恋の伝承もあり、いかにもプレイボーイでならした花山法皇らしいエピソードではある。しかも、藤原忯子との悲恋に重ねているのが腐女子には受けそうだ。とは言え、話が出来過ぎていてどうにも噓松くさい。花山法皇も各地を巡っていればワンナイトラブくらいは各地で起こしていただろうが、仮にも出家した修行中の身であるし、引き連れていた従者だって何名もいただろう。それなのに、美人の尼に入れ込んで本州西端の地で長期滞在までしたとは考えづらい。
それでも、このような伝承が残るところに、当地の花山法皇への思い入れが強さがわかるというものだ。

島根県 出雲三十三観音霊場

島根県は出雲大社を祭る神の国であるが、花山法皇については西国とは別に三十三札所を設けてしまうほどの入れ込みようだ。
島根県全域ではなく宍戸湖周辺に集中しているので、少なくとも西国三十三所よりは回りやすいと思われるが、どのお寺もこじんまりとした「田舎のお寺さん」という体であり、西国三十三所のように数多の巡礼者を迎え入れる体制は期待できないように見える。云わば、ジェネリック三十三所のようなもので、移動が徒歩であった往時には現地の人たちにとってはありがたいものだったのかもしれない。
交通の便が格段に改善した現代においては、わざわざ巡礼をする意義を見出すのは難しいのかもしれないが、どの寺も1000年前当時の面影を大きく残しているとも言える。そのように考えれば、当時の花山法皇の御幸を再現する巡礼地として巡礼チャレンジしてみるのも良いのかもしれない。

広島県 磐台寺 阿伏兎観音*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜」

阿伏兎観音

住所:福山市沼隈町能登原1427-1
花山法皇創建と伝えられる寺だが、よそからやってきた花山法皇が現地の国司か豪族かに突然「ここに寺建てろ」とでも言ったのか、あるいは現地の有力者が忖度で建てた寺が花山法皇創建と伝承されたのか。
広島県は福山市の沼隈半島の南端にある灯台のような寺で、朱色の柱が日本の古寺と思えず華やかで平安時代当時を思わせるが、思えば宮島も鳥居から神殿の柱まで真っ赤に塗られているので、この地方の特色なのかもしれない。

高知県 鳴瀧八幡宮*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑩〜高知鳴瀧八幡宮編〜」

鳴瀧八幡宮

住所:高知県須崎市浦ノ内1208
八幡宮とたいそうな名前なので身構えてしまうが、こじんまりとした神社であるようだ。高知県を訪れていたということは、四国の各所も回られていたようである。弘法大師の八十八所巡りもされたのかもしれないが、伝承が残っていない様子を見るに、四国の御幸はあまり熱心ではなく、適当に切り上げてしまったのかもしれない。

鳥取県 庭見山覚王寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑦〜鳥取市、高梁市 前編〜」

庭見山覚王寺

住所:鳥取県八頭郡八頭町覚王寺
「花山法皇行幸地」という、そのまんまの名前もあるらしい。写真で見る様子では、田舎の静かな山寺といった風情。
現代では天皇陛下の行幸は全国各地でよくあるイベントとなったが、当時において退位したとはいえ元天皇が御幸で訪れるというのは、史上一度あるかないかの大イベントだったのだろうと想像できる。

岡山県 八幡神社*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑧〜鳥取市、高梁市 後編〜」

八幡神社

住所:高梁市松原町神原1358
花山法皇は開基というわけではないが、花山法皇の御幸を機に創建されたとのこと。

岡山県 瑞源山深耕寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑧〜鳥取市、高梁市 後編〜」

瑞源山深耕寺

住所:岡山県高梁市落合町原田207
開基は花山法皇で1006年の創建とのことで、1008年に花山法皇は崩御されているから晩年まで花山法皇は仕事をしていたようだ。晩年といっても39歳だから、病気にさえなっていなければ逆に脂がのったころか。
山の中にある寺で特に札所になっているというわけでもなしに、かなり規模は大きいようだ。どうも、岡山県というのは信仰心の強い地方なのかもしれない。

岡山県 薬師院*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑧〜鳥取市、高梁市 後編〜」

薬師院

住所:岡山県高梁市上谷町4100
こちらも、花山法皇開基とのこと。
写真で見ると立派な石垣があり、よもや最初からこのような立派な建築ではなかったろうから、1000年近くの間、大事に増改築を繰り返して維持してきたのであろう。
冷静に考えると、わざわざ花山法皇が遠いこの地に寺を建てるように指示をしたというより、地元の国司なり豪族が立てた寺の名前貸しをしたのではないだろうか。

近畿地方

兵庫県 通宝山弥勒寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく③〜元慶寺、比叡山延暦寺、書写山圓教寺編〜」

通宝山弥勒寺

住所:兵庫県姫路市夢前町寺1051
性空上人は花山法皇の師匠のような人だったようで、性空上人が開山した書写山圓教寺に、花山法皇は出家した早々の986年に御幸として訪れており、そこで西国三十三所の巡礼を勧められたようだ。
この弥勒寺は性空上人が晩年に隠棲生活を送った場所らしいが、開基は1000年、実に性空上人91歳である。91歳で新しい寺を建てて引っ越そうというのはどういう心境だったのか。というか、すげーパワーだ。
花山法皇は1002年に諸堂を建てさせたというから、それまでの2年間はそれこそ碌な建物もなく、そこに90歳過ぎの老人が過ごしたのかもしれない。

兵庫県 六甲比命神社 花山法皇の碑

住所:兵庫県神戸市灘区六甲山町
六甲山の山中に、花山法皇、熊野権現、佛眼上人連盟の石碑があるとのことだ。六甲比命神社から仰臥岩を目指して探すとよいようだ。

兵庫県 花山院菩提寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜」

花山院 菩提寺

住所:兵庫県三田市尼寺352
これは花山法皇マニアであれば有名な、花山法皇が晩年の十余年を過ごした山寺だ。ここを訪れたら、ぜひとも十二妃の墓も併せて参拝してほしい。

有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かときけば 小野の松風

花山院菩提寺 御詠歌

この御詠歌は、和歌も風流についても何も知らない私でもわかるいい歌だ。断じてただの見間違い、聞き間違いの歌などではないはずだ。
普段の見慣れた菩提寺の景色から、那智の勝浦海岸か、旅先の海を思い出したのだろうか。いつもの見慣れた情景から、過去に眺めた景色や音を連想して懐かしむのは千年経った現代でも全く変わらない心情だろう。
そして、思い出した過去の情景から過去の出来事や事件を想起して様々な心情に浸るのもまた、つらい経験もしてきた花山法皇ならではの感慨深さがあることだろう。
この歌に出てくる有馬富士は菩提寺近くにある小山であるが、果たして花山法皇は実際の富士山を眺めたのだろうか。花山法皇が長期間修行で滞在したとされる、那智の勝浦からでも富士山を望むことはできるらしいが、富士山を望む最遠地であるため見れる山容は相当小さく、有馬富士と比べられるものではなかっただろう。
後述する白山や笠置山が花山法皇ゆかりの地では最東端となるが、どちらの山からも富士山は見えないらしい。であるのに、近場の山を碌に見たこともない富士山にならって有馬富士と称するのはどうだろうか。実は花山法皇は伝承には残っていなくとも、もっと東側から富士山を眺めたのではないか、と勝手に妄想しているが、それはまた別の機会で。

兵庫県 医王山薬仙寺

(2024年1月19日 追加)
住所:兵庫県神戸市兵庫区今出在家町4丁目1-14
境内に花山法皇の歌碑があるようだ。
花山院菩薩時の御詠歌「有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かときけば 小野の松風」に出てくる海は、この薬仙寺から眺めたものだそうだ。

和歌山県 箸折峠*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑤〜熊野古道、熊野三山 前編〜」

牛馬童子

(2024年1月12日 追加)
花山法皇が熊野御幸の際、食事の折に端が無かったため近くのカヤを折って箸にしようとしたためにこの名がついたそうだ。
なお、カヤの赤い部分に露が伝うのを見て「血か露か?」とたずねたので、ふもとの里は近露となったとのこと。
石塔には花山法皇の写経と法衣が埋められ、近くの牛馬童子は明治時代作とのことだが花山法皇の顔を模したという。
Wikipediaの牛馬童子像のページでは、花山法皇の熊野御幸を922年としているが、922年では花山法皇は産まれてすらいない。
そもそも、花山法皇の熊野御幸の年代は諸説あってはっきりしないのだ。

和歌山県 千里海岸 千里観音*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑤〜熊野古道、熊野三山 前編〜」

千里海岸

(2024年1月12日 追加)
花山法皇が熊野御幸中に体調を崩し、以下の和歌を詠ったとされ、千里王子跡に記念碑がある。

たびの空 夜半の煙と のぼりなば あまの藻汐火 たくかとや見む

意味は「旅の途中のここで死んだとしても 漁師は塩を焼く火を焚いているのであろう」と、病気のせいとはいえ随分とかまってちゃんで弱気であったようだ。
このあたり、まだまだ藤原忯子との死別や、寛和の変の裏切りのショックから立ち直り切れておらず、花山法皇の熊野御幸は出家後の修行期間のまだ短いかなり早い時期に行われたのではないかとも思われる。

和歌山県 那智の滝(二ノ滝)*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑥〜熊野古道、熊野三山 後編〜」

青岸渡寺三重塔から眺めた那智の滝

(2024年2月1日 追加)
住所:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山
写真は二ノ滝ではなく那智の滝の一ノ滝と言えばいいのか。一般の観光客でも見れる那智の滝だ。
那智の滝は西国三十三所の青岸渡寺と同じようなものなので、西国三十三所は除いているこのページに掲載するべきか悩むところであるが、花山法皇は熊野千日行の間、青岸渡寺内の施設ではなく那智の滝の上にある二ノ滝の滝上に庵を建てて住んでいた。花山法皇御籠所跡というらしい。
小説「炎の帝」では、ここで花山法皇は焼身自殺を図って失敗した。
二ノ滝と青岸渡寺はそこそこ距離が離れているので、ここに載せても良い気がする。
二ノ滝の一般人立ち入りは禁止。年に何回か募集されるガイド付きのツアーに参加しないと二ノ滝を訪れることはできない。

京都府 紙屋川上陵*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜」

紙屋川上陵

住所:京都府京都市北区衣笠北高橋町
これも、花山天皇のWikipediaにも記載されているので、まあ有名。読み方は「かみやがわのほとりのみささぎ」。
実際に訪れてみたが、観光地として大正義の金閣寺の近くでありながら、閑静な住宅地の中にひっそりと佇む静かな公園とも言えない厳かな場所であった。
1000年前の霊廟が残されているというのもすごいことであるが、実際は幕末に発見して修陵したらしい。
同時期同年代に大出世をしてこの世の春を満喫した藤原道長であっても、宇治陵という藤原家一纏めの墓に葬られたことを考えると、在位は二年間だけだったとはいえ天皇というのはやはりすごいのである。

京都府 花山院邸跡*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく③〜元慶寺、比叡山延暦寺、書写山圓教寺編〜」

花山院邸跡の石碑

住所:京都府京都市上京区京都御苑
日本史に詳しい方には、南北朝時代直前に後醍醐天皇が幽閉された場所としての方が、有名かもしれない。
京都御苑内に花山院の旧邸跡が残されている。花山法皇はこの邸宅で崩御されたようだ。その後、この花山院邸は藤原家が住むようになったようだが、花山院という名前は残った。在位は二年だったけど、花山法皇の影響力が高かったことが窺える。
この花山院の前を通った藤原隆家を集団で襲撃したり、同じく門の前を馬で通った奴を許してやったりと、花山法皇の奇行エピソードが残っている場所でもある。

京都府 元慶寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく③〜元慶寺、比叡山延暦寺、書写山圓教寺編〜」

元慶寺

住所:京都府京都市山科区北花山河原町13
花山天皇が騙されて出家させられた寺である。京都から歩いていくには東山を越えた先にあり、御所から連れ出して暗殺するにも騙して出家させるにもちょうど良い場所だったのだろう。
逆に言うと、京都という場所は、北と東を周囲を越えるには苦でない程度の山に囲まれており、守備防衛という面では何とも心許ない都市だったともいえる。

滋賀県 比叡山延暦寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく③〜元慶寺、比叡山延暦寺、書写山圓教寺編〜」

比叡山延暦寺(左が常行堂)

(2024年1月19日 追加)
住所:滋賀県大津市坂本本町4220
当たり前すぎて入れ忘れていたのであとから追加。
寛和の変で出家をした花山法皇は、元慶寺から比叡山へ移り正式に9月に受戒したが、寛和の変の6月からあの狭い元慶寺に3カ月近くも滞在していたのだろうか。
比叡山側で受入体制ができ次第、早々に移ったように思う。
比叡山延暦寺と言ってもお堂が色々あり、花山法皇は西塔の常行堂が滞在場所であったらしい。
花山法皇の比叡山滞在期間はせいぜい2~3年程度といわれている。
比叡山内の派閥争いに嫌気が差したのが原因ともいわれているが、寛和の変で同じように出家をした藤原義懐は真面目に修行に勤しんだというから、花山法皇にとって長期間の山籠もりは退屈だったのだろう。

三重県 赤城峰霊符山大陽寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑥〜熊野古道、熊野三山 後編〜」

霊符山大陽寺

住所:三重県多気郡大台町栗谷193
地図で見ると中途半端な位置だが、京都から熊野や那智に向かうには、確かに通り道になる寺だ。
残念ながら西国三十三所には含まれていない。花山法皇の御幸は989年と記録されているとのことだが、思えば、西国三十三所の花山法皇が御幸で訪れた年号は、示し合わせたようにほとんど公開されていない。御詠歌の奉納をしているのだから、日付の記録が無いわけないだろうと思うのだが、なぜ隠すのだろうか。

滋賀県 浅香山誓安寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑨〜那谷寺編〜」

浅香山 誓安寺

住所:滋賀県東近江市合戸107
こちらも、花山法皇開基のお寺ということだが、開創が995年頃となっている。
この頃の皇室は、全国の開創する寺の開基となることでも収入を得ていたのだろうか。
ここは、本当に街の中のお墓を守るお寺さんといった風情だ。

東海地方・北陸地方

石川県 自生山那谷寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑨〜那谷寺編〜」

自生山 那谷寺

住所:石川県小松市那谷町ユ122
石川県小松市と加賀市の花山法皇に対する思い入れは、並々ならぬものがあり、西の山口県を大きく勝る勢いだ。この記事では那谷寺のみ挙げるが、近所には他にも花山法皇ゆかりの土地や施設が多数あり、地元での花山法皇研究も盛んなようだ。
この那谷寺の名前は、花山法皇が西国三十三所の一番である那智山と最後の谷汲山からつけたとのことだから、西国三十三所巡礼後に訪れたと思われるが、なんと花山天皇が退位した年の986年には、那谷寺に訪れたという伝承もある。
記録では出家直後は比叡山延暦寺に籠っていたはずなので、986年の訪問はどうにも怪しい話だが、小松市には2011年まで世界最古としてギネス登録もされていた法師という温泉旅館もある。現代の温泉旅館のようなサービスは望めないだろうが、それでも温泉は温泉だ。案外、妻も亡くなったし騙されて退位もしちゃったし、比叡山に籠って修行生活をするのもつまらないから温泉にでも行くかとなったのかもしれない。
また、伝承ではこの地を訪れた花山法皇は、従者は3名のみでまず始めに白山に登ったという。
これも、どうにも怪しい。というは、当時であれば登山をするのであればまずは、登山口の里に滞在して天候を見ながら、山の情報収集をするなり食料や道具をそろえるなり案内人を募るなりの準備があるはずで、現代の様に登山口に到着していきなり山に登るなんてことはしないはずだからだ。そして、法皇という立場で正式な御幸で訪れたのであれば、地元の国司の出迎えくらいはあっただろうし、そうなれば有力者との挨拶だって発生する。
そのような状況で、いきなり登山なんてできるとは思えないのだが、この点も別の機会に考察の記事を書いてみたい。

石川県/岐阜県 白山

(2024年2月5日 追加)
白山は花山法皇が生きた時代のさらに200年以上前、717年に開山し、832年には越前、加賀、美濃からの登拝道ができたというから、白山登山の歴史は古い。
明治以降に開山した山ではない古い登山の歴史を持つ日本の山は、山岳信仰とセットであり、この白山も例にもれずというか、御嶽山と並んで日本の山岳信仰の総本山のような山でもある。
白山信仰でググると、「白山信仰 やばい」とサジェストが出てしまうのだが、ここでそれには触れまい。
花山法皇も那谷寺訪問時に白山に登っている記録がある。
白山の標高は2702m。
現代のトレランマニアであれば、一日で登って降りてくる距離と標高だし、西国三十三所巡礼を徒歩で走破した20代であれば日帰り登山もできそうだが、当時は登山道具の性能も現代のものとは比べられるものではなかったろうし、雨や雪のない時期を選んで何泊かして登ったのだろう。

岐阜県 笠置山*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑫〜大入集落跡、笠置山 後編〜|

笠置山山頂の笠置神社奥宮

花山法皇が命名した山であるらしい。
場所は恵那市と中津川市にあり、おそらくこの笠置山が花山法皇のゆかりの地としては東端になる。
当時は、今でいうところのフォッサマグナか日本アルプス、当時でいうところの立山連峰、飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈より東は異国扱いだったようで、朝廷の支配は届いていても交流は乏しかったようだ。
学問に明るく好奇心旺盛であったと思われる花山法皇が、西国三十三所の最後であり東端の華厳寺からさらに東の笠置山までやってきて木曽山脈を眺めたとしたら、それから先には進まず、おちおちと西へ引き返したとは考えづらいのだが、どうだろうか。

愛知県 大入集落跡*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑪〜大入集落跡、笠置山 前編〜」

大入集落跡の廃屋

(2023年12月17日追加)
赤石山脈の西側の麓の、通行止めとなっている県道429号線を進み、さらに山奥に入った大入集落と呼ばれる集落跡が、花山天皇が移り住んだ里とされているらしい。
流石に、京都に御陵がある花山天皇がここに移り住んで臨終したとは思えないが、花山天皇の子孫はかなり悲惨な境遇であるので、子孫の一人が移り住んだというのであれば、十分あり得る話だ。
本ページで紹介した中では、那智の滝の二ノ滝と同じくらいに訪問が難しい場所であるが、「花山法皇ゆかりの地をゆく」なんてシリーズ記事を始めてしまったものだから、いずれ訪問するのだろう。訪問しました。

番外編

長野県 善立寺*

訪問記「花山法皇ゆかりの地をゆく⑫〜大入集落跡、笠置山 後編〜|

方便山善立寺

住所:長野県塩尻市広丘野村793-1
Wikipediaに「観音堂には花山法皇石仏がある」との文言があるものの、公式Webサイトには花山法皇についての記述は一切ない。個人ブログを探ると、どうやら観音堂の片隅に花山法皇の石仏があるようだ。
しかし、この善立寺は花山法皇が生きた時代には存在していなかったようなので、御幸の伝承などはなさそうだし、花山法皇が塩尻まで御幸に訪れたかもはっきりしない。場所的に中山道に打ち捨てられていた石仏を誰かに拾われて、このお寺で保管されたのだろうか。
そもそも、花山法皇の時代に中山道はなく、代わりにあるのは東山道。
東山道は中津川から恵那山を越えて飯田に出て諏訪に抜けるルートとなる。
したがって、花山法皇が中津川から塩尻の区間を訪れた可能性は低いだろう。

坂東三十三観音

訪問記(杉本寺)「足利直冬紀行①~鎌倉市東勝寺跡、足利市鑁阿寺編~」

第1番 大藏山 杉本寺

坂東とは関東、つまり関東平野にも西国三十三所にあやかった三十三の札所を設けているのだが、西国と同じように花山法皇が中興の祖として伝えられているようだが、さすがに関東にまで花山法皇に訪れたとは考えづらく、坂東三十三観音公式でも嘘松認定をしているようだ。
とはいえ、このような伝承が起こること自体、江戸時代までの花山法皇の人気は相当のものだったのではと思われる。

さいごに

ざっとネットで調べた限りでも、花山法皇のゆかりの地というのが西日本に広く散在しているのがわかるし、御幸の記録はなくとも関東まで名前は広く伝わっていたようだ。ここに挙げたのはGoogle検索で見つかった情報だけであるから、いまだネットで公開されていない土着の伝承がこの数倍はあるように思える。
花山法皇崩御から1000年以上経ってなお、これだけ各地で伝承が残っているというのは奇跡的ではなかろうか。
平安時代というのは謎の多い時代で、平安京の華やかな貴族の生活は伝えられていても、庶民の暮らしぶりについては詳しく記した文献もなく謎に包まれている。
教科書に載っているのは、山上憶良の貧窮問答歌、国司による重税と荘園の発生。手塚治虫の火の鳥鳳凰編(これは奈良時代だが)では、租税の米を運ぶ農民が飢えで行き倒れている描写もあった。これらにより古代の庶民は朝廷に虐げられている暗黒時代のイメージが強かったが、花山法皇が各地を御幸しそれを風化させることなく民が1000年に渡り伝承してきたということは、平安時代の庶民というのは存外豊かでゆとりのある生活を送れていたのではないか。天皇と朝廷の都へのあこがれと、法皇の御幸を迎え入れる地方のゆとりと豊かさが当時になければ、このような伝承が生まれて長年伝えられ続けることもなかったと思われるからだ。
日本史上のこの時代の主役は藤原道長であり、文学史上の主役は紫式部であったかもしれない。しかし、時代の陰に隠れたとはいえ、花山法皇の地方庶民への人気と影響力は圧倒的であったろうし、現代に彼が残したものは現代の知名度や学術的な注目度に比して非常に大きいものがあるように思える。


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