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花山法皇ゆかりの地をゆく⑩〜高知鳴瀧八幡宮編〜

昨日は足利直冬の紀伊南朝軍征伐の軌跡を追い、雨の中を山中にある城跡を訪ねて、和歌山市内のビジネスホテルに泊まった。

今回の旅では、直冬の旅を昨日で終え、今日からは花山法皇の旅に切り替えて和歌山から高知を目指す。
これはいわゆるコラボレーション企画旅であるが、自分の中だけでそんなことを言っても、こっぱずかしくて白けてしまう。

和歌山から高知へ

和歌山市駅から高知駅までの経路
GoogleMapでフェリーと鉄道を組み合わせた経路は出なかったので、フェリー以外は自動車の経路だがおおよその経路は同じ

2024年3月24日、日曜日の7時50分、昨晩泊まったホテルから20分近く歩いて昨日下車した南海電鉄の(JRもあるけれど)和歌山市駅まで戻ってきた。

和歌山市駅に留置されていためでたい電車

和歌山市駅の南海電鉄窓口で徳島までの電車とフェリーの切符を購入する。
和歌山と徳島を結ぶ南海フェリーは、南海鉄道のどの駅から乗っても2,500円とお得なのだが、途中下車はできないし当日中に乗りとおさないといけない。
なんば駅から徳島までの運賃は2,500円だが、和歌山市駅から徳島までの運賃も2,500円だ。
私の様に南海電鉄でなんば駅から和歌山市駅を訪れて一泊し、翌日に再度和歌山市駅から南海電鉄に乗車して南海フェリーに乗り継いで徳島までいくのは、なんば駅と和歌山市駅間の電車賃をどぶに捨てたようなもので馬鹿々々しい所業なのだが、今回はこういう行程でいくしかなかったのだから仕方ない。
そもそも、和歌山と徳島間はフェリーで2時間かかる。2時間のフェリーの運賃が2,500円というのも相場から考えれば決して高い値段ではないのだから、納得するしかない。

8時10分、和歌山駅から特急サザン1号で一駅だけ乗って和歌山港駅に8時14分に到着する。

和歌山港駅 乗客はみなフェリー乗り場へ進む
和歌山港駅の改札
フェリー連絡通路に直結している
フェリー連絡通路

南海電鉄の和歌山港駅から南海フェリーの乗船口へは、南海電鉄の改札を通るものの全て通路でつながっている。
こういう鉄道連絡船は、今の日本では南海フェリーだけ残っているものらしい。かつては、本州と四国を結ぶ宇高連絡船や、北海道を結ぶ青函連絡船もあったが、橋やトンネルができて鉄道が直通すると連絡船は廃止された。

今回の旅は、日本唯一の鉄道連絡船である南海フェリーに乗るのが一番の目的であったかもしれない。

フェリー上の船内客室入口
アニメ絵のキャラがお出迎え
フェリー客室船内
私は左の座席で過ごした

8時25分、南海フェリーは和歌山港を出港した。
私は船内の後方の座席に座った。
本州から四国へ橋で渡るルートが3本もあるこの時代、いまどきフェリーで四国へ渡る人など希少だろうと思っていたが、思いのほか乗客は多い。

調べてみたら、徳島から大阪までは高速バスでも4,100円かかる。早割が適用されるともう少し安くなるようだが、それでもフェリーと南海電鉄の2,500円に値段では敵わないようだ。
徳島在住者からすれば往復5,000円で大阪へ行けるのだから有用な交通機関なのだろう。そもそも、乗船客が少なければとっくに廃線になってる。

天気が良ければ外のデッキで景色を眺めていたかったが、あいにくの雨。
おとなしく船内で過ごす。
正面のテレビにはNHKが流れていたが、嫌いな政党の議員が偉そうに喋っていたので、ノイキャンイヤホンを付けて音楽を聴いておくことにする。

沼島 淡路島の南にある島だ
フェリーのデッキ
天気が悪く景色の見通しは悪い

9時30分頃、そろそろ淡路島の南にある沼島が見える頃合いだと思い、デッキに出て海を眺める。
海面を見ると、フェリーは意外と早い速度で海を進んでいるのだと気付く。20ノットはでているのだろうか。
進行方向右側に沼島らしき島が見えた。
再び船内に戻り、また特にすることもなくなったので座席で大人しく過ごす。

この旅を計画していた時は、一生乗る機会は無いだろうと思っていた南海フェリーの乗船を行程にいれたので、少しは期待もして浮足立っていたものだったが、いざ乗ってみると特にやることも無く手持無沙汰になってしまう。
窓から移る景色は単調な海原だけだし、そもそも今回座った席は窓際の席ですらない。
海上だから携帯電話の電波状況も悪く、スマホ内に溜めておいた電子書籍を眺めるくらいしかやることが無い。
旅行とは計画までで8割くらい終わっていると、誰かが言ったか言わないか。旅行は実際に行動に移すのは、計画時の期待をすり減らす行為なのだと思える。

四国横断自動車道の新町川橋

10時20分頃になるとフェリーは速度を緩め、窓から岸が見えるようになった。
10時30分、徳島港着。

フェリー乗り場前のバスに乗り込み徳島駅を目指す。
徳島駅へ行くバスは混み合っていた。フェリー乗り場からだけではなく、途中でも乗客が次々に乗り込んでくる。
途中で乗ってきたおばあさんが席に座っている私の前に立ってプレッシャーをかけてきたので、席を立って譲ろうとしたら丁重にお断りされた。

徳島駅

11時10分、バスは徳島駅に到着した。

徳島駅ではまず自動券売機で高知までの乗車券と特急自由席券を購入し、乗るべき特急の出発までには少し時間があったので、駅構内のヴィドフランスでクロワッサンを頬張り紅茶をすすって時間を潰す。
雨が止んでいれば、徳島駅周辺にある徳島城なり眉山なりに行こうとも思っていたが、そもそも外を回るには時間が足らなかっただろうから、これで良かったのかもしれない。

徳島駅改札の電光掲示板

目的の列車の出発10分前になったので有人の改札で乗車券と特急券に押印をしてもらい、1番線ホームに進む。
1番線ホームは改札から少し高松寄りに進んだところにある、室戸側が車両止めになっている切り欠け式のホームであった。

キハ185系特急剣山
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特急剣山。徳島駅と阿波池田駅を結ぶ徳島線の特急である。関東在住の身ではまず使わない経路だ。そもそも、徳島線なんて路線があること事体、今回の旅行の計画時に初めて知った。

特急剣山はキハ185系という国鉄時代のディーゼルカーで運行されている。
このキハ185系、ニコニコ大百科には冒頭に「ぶっちゃけケチ臭い」と赤太字で書かれるほど国鉄末期に開発された車両特有のケチ臭い車両で、その逸話はWikipediaなりニコニコ大百科なりを見てほしいが、案外、こんな車両の方が走行距離が少ないので長生きしたりする。
車歴は38年にも及ぶが、まだしばらくは使われるのだろう。

ゆうゆうアンパンマンカー

3両編成の列車の2号車はゆうゆうアンパンマンカーという車両であった。
JR四国の特急車両の一部には、全面にアンパンマンのラッピングがされているのは知っていた。このゆうゆうアンパンマンカーも車両全体がアンパンマンのイラストで全面ラッピングされているのは同じだが、中を覗くと車両の半分を子供用の遊戯スペースで占めていた。
元はグリーン車と普通車の合造車であるキロハ186系という車両らしいのだが、0系新幹線の座席を流用した普通車座席を取っ払って子供用の遊戯スペースにしてしまったらしい。
この遊戯スペースはゆうゆうアンパンマンカーの指定席券を持っていないと使えないようであるが、どうせ乗客も少ないからと開き直って設計したのか、何とも贅沢な車両の使い方である。
乗客あたりの占有スペースを考えればグリーン車どころか一等車にしても良いくらいのものだろうが、普通車指定席券で利用できるらしい。妻も子供もいない私には縁のないサービスではあるが。

特急剣山の車内
デッキから客室に入るドア 国鉄くさい

12時0分、特急剣山5号は徳島駅を出発した。

自由席の乗車率は40%程度。思いのほか乗客は多い。なお、車内アナウンスによるとゆうゆうアンパンマンカーは満席らしい。
通常の車内アナウンスの後、アンパンマン役の戸田恵子のキンキン声でゆうゆうアンパンマンカーの案内もされる。2号車だけ流せばよいのに、と思うがそんな器用な設定などこのキハ185系ではできないのだろう。

車内で食べた駅弁 鯛飯

最初に停車した蔵本駅で対向の普通列車の待ち合わせ。
普通列車が特急列車を待たせるとは何事かと思うが、この特急剣山、一部直線では最高速度の110km/hを出すが、それは全工程の極々一部で、あとは「特に急がない列車、略して特急」とでもいった方が良いようなのんびりした特急であった。
こんな特急であるから、徳島線という地味な路線で普通列車とも譲り合って暮らしているのだろう。

車窓から眺めた吉野川

徳島線は、徳島駅から吉野川沿いにひたすら西に向かって伸びている。
地図を見ると吉野川は阿波池田で進路を真西に向けると、東京タワーを横に倒したように河口に向かって周囲の平野が幅広くなっている。

こうして、歴史を追いながら日本の地方を旅していると、訪れた先の平野の広さを気にするようになった。
現代では平野が住宅で埋め尽くされているとしても、江戸時代以前であれば、平野の広さは耕作面積の広さを意味し、耕作面積の広さは豊かさを表すからだ。
はたして、旧阿波国である徳島線沿線は吉野川を囲む広い平野であるが、吉野川は氾濫洪水の激しい川であったから、この広い平野がこの土地に住む住人たちに富をもたらしたわけでもないらしい。
今回は訪問しないが、吉野川沿いには洪水遺産なるものもあるらしい。
私は埼玉県の越谷で育ったが、越谷も真っ平な平野であるが、かつては荒川と利根川が合流する洪水の激しい地域であったらしいから、なにがしかの縁を感じる。

途中で止まった穴吹駅
列車愛称にもなっている剣山までは51km

私が乗車したのは3号車の自由席であったが、1号車にしかないトイレへ行くため2号車のゆうゆうアンパンマンカーを通った。
外から見た通り車両の半分は子供たちのための遊戯スペース。車内は音楽が流れ、指定座席はフットレストも備わったグリーン車仕様、お菓子を販売するカウンターもあり専用の乗務員もいる。
やはり贅沢な車両である。

列車は吉野川沿いをのんびりと進む。
こうして列車に揺られていると眠くなってくる。
ウツラウツラとしていると、13時18分、阿波池田駅に到着した。

阿波池田駅に着いた特急剣山
ヘッドマークはアンパンマン
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特急剣山の国鉄仕様の行先表示幕とサボ 
サボはよくマニアに盗まれずに済んでいるものだ

徳島駅から乗車した客のほとんどが阿波池田駅まで乗り通したように見えた。
この特急剣山、およそ通常の旅行で使うような経路とは思えないから、地元の人しか乗らないマイナー特急かと思いきや、案外、旅行者にも使われているようだ。
まさか、乗客みんなが私の様に和歌山から高知へ向かう旅行者ではないだろうけど。

特急剣山に乗っていた半分以上の人が岡山行きの特急に乗り換えていった。徳島から岡山へ出るのは特急うずしおを使えば一本で行けるものを、わざわざ特急剣山に乗って遠回りをしているのだろうか?それとも徳島から金毘羅山にでも行くのか?疑問は尽きない。

徳島駅で購入した乗車券と特急券

13時32分、阿波池田駅にやってきた特急南風9号高知行の自由席に乗った。
この特急南風9号は4両編成のうち3両が指定席で1両のみが自由席であった。指定席はガラガラなのに自由席は満席で立ち席もでるほどの混雑ぶりだった。
明らかに需給のバランスがおかしいのだが、自由席は四国フリーパスでも乗れるから、自由席利用者の扱いなんてこんなものなのだろうか。
阿波池田駅の次に停車した大歩危駅でそれなりの乗客が降りて、自由席も全員が着席できるようになった。

14時42分、特急南風9号は高知駅に到着した。

高知駅に到着

高知市街

高知市街の訪問場所

高知駅前のレンタカーを16時からで予約をしているので、少しだけ時間がある。
この時間を利用して、路面電車に乗ってはりまや橋まで行き、ついでに高知城を見ておきたい。

高知の路面電車

駅前の路面電車に乗って、わずかの距離ではりまや橋に到着した。
路面電車は眺めている分には物珍しくて楽しいが、乗ってみるとあまり快適な乗り物でもない。このくらいの距離が丁度良い。

はりまや橋交差点
はりまや橋

はりまや橋で写真を撮って、アーケードを歩いて高知城を目指す。
このアーケードは和歌山と違って活気があった。
今でも活気を残すアーケードと、寂れてしまったアーケードの差は何だろうか。若者が多く歩いているのは、要因ではなくて結果であるように思う。

高知のアーケード
写真では人がいないが、実際には人でにぎわっていた

高知のアーケードにも古い個人商店も見受けられるが、スタバやドトールなども見られる。しかし、これらも活気があるから出店されたのであって、要因ではなく結果であるように見えた。
アーケードの横道にはスナック街があった。無料案内所が何件もあるので、こちらも生きているのだろう。

アーケード横のスナック街

アーケードの中間にある公園ではアニメ関連のイベントをやっていて、アニメのコスプレをした人がアーケード内も歩いている。いずれにせよ、この活気を維持しているのは、自然的なものではなく、裏では関係者の不断の努力があるのだろうとは想像できた。

アーケードを抜けると高知城に着いた。

高知城天守閣

高知城には18年前の社員旅行で訪れて以来である。
社員旅行といっても社員数20人にも満たない会社だったので、ワゴン車3台に分乗して四国を回った。
そのとき、私は亡き妻と社内恋愛をして入籍したばかりであった。
入社して数カ月で妻と恋愛をしていたのをずっと会社には黙っていたが、入社4年目の入籍の時に社内でカミングアウトをした。その直後の社員旅行だった。

天守閣入口にある功名が辻の何か

妻はうつ病で休職した後の復職中で、かなり気苦労の多い旅行だっただろう。
つとめて楽しそうに振舞っていたが、18年前の高知城で撮った写真を見返すと、亡妻は他の人から顔を背けて疲れた表情を浮かべていた。

天守閣内にある高知城の模型

その高知城に一人で訪れた。
思い出すのは、18年前の社員旅行のことばかりである。

天守閣最上階から眺めた景色

私と妻は、社員旅行の最中はつとめて二人でくっつくようなことはしないようにしようとしていた。社員旅行は社員の親睦を図るばなのだから、その意図に従おうとしていた。
それでも、社員旅行中に少しは二人で歩くこともある。
その様子を、思ったことは何でも悪意なく口にしてしまう当時新入社員だった人が、「〇〇さん(妻の名前)は●●(私)といるときだけ楽しそうですよね」と他意なく私に言ったのを覚えている。
たしかに、当時の妻にとって気兼ねなくいられるのは私だけだったのだと思う。
他の人には気を使いすぎるくらいに使っていて、それがうつ病をさらにこじらせてしまったようにも思えた。

高知城入口の追手門

なのに、私は妻を守れなかった。
妻も私も、互いに二人でいないと生きられなかったのに。
大事にしなければいけないものを大事にできなかった。
かけがえのないものを粗末にしてしまった。
私には生きている価値がない。
あれから16年も時間が経っているのに、私は何もできなかった。前へは進めなかった。無為な時間を過ごしてしまった。
高知城を回って、そんなことばかり考える。

旅行に出ても、亡くなった人間のことばかり考える私は、死者に呪われている。

呪いとは死者が生きているものに何かをするわけではない。
死者はいつまでも沈黙を守ったままだ。
死者は塵ひとつ動かせない。
生き残った人が、罪悪感や死への恐れや猜疑心や後悔、そういった弱い心が死者の呪いを生み出す。そんな風に思えた。

高知駅前に戻る途中
わらび餅ドリンクを買った
亡妻と一緒に飲みたかった

民宿なずな

浦ノ内湾近辺の訪問場所

高知市街の観光を終えると、高知駅前に戻り駅前のレンタカー屋でレンタカーを借りた。
本日の宿泊地である浦ノ内湾沿いの民宿なずなを目指して、高知の駅前からレンタカーを走らせて太平洋に面する海岸まで南下した。

土佐市に入った直後にドライブインがあったので寄ってみた
海ではカヤックやサーフィンを楽しんでいる人が数名いた

海に出ると海沿いの道を西に向けて走る。東に少し行けば有名な坂本龍馬の銅像がある桂浜だが、今回は行かない。
また、亡妻のことを思い出しそうだから。

高知市の海沿いは黒潮ラインと呼ばれるまっすぐの道だった。左手は海だが、海岸沿いに防潮堤が続いており車から海は見えない。
そのまっすぐの道をレンタカーで走る。
やがて高知市を抜け、土佐市に入り宇佐の市街地を抜けて宇佐大橋の分岐を過ぎるとまっすぐの道も終わり、左手の海は太平洋から浦ノ内湾に変わる。
道は入り組んだ地形に合わせたグネグネのワインディングロードになった。

太平洋の海とは異なり、浦ノ内湾の水面に波はほとんどない。対岸がすぐ近くに見えて海というより大きな河川のようだ。
これは以前歩いた、沼隈半島から見た瀬戸内海と似ているように思えた。リンク
土佐市も抜けて須崎市に入る。

民宿なずな

17時ちょうど、今晩の宿泊先である民宿なずなに着いた。
チェックインを済ませて和室の部屋に落ち着く。

今回、この民宿を選んだのは目的地の鳴瀧八幡宮が近いからであるが、値段の安さもあった。1泊2食付きで7,800円。いまどきこの安さでやっていけるのかと、余計なお世話ながら心配に思う。
安いのであまり期待をしていなかったが、部屋に入ると浴衣や歯ブラシなどの一通りの用意はされているし、部屋には小さい冷蔵庫もあった。
設備も全く申し分なかった。

民宿なずなの夕食 豪華

18時から夕食。
夕食は宿泊客全員が一つのテーブルを囲んで食べる形式だった。
宿泊客は私を含めて4人。私以外はみな、一人でお遍路を歩いている人たちだった。
この民宿はお遍路向けのものなのだ。
考えてみれば、お遍路以外の観光客がここに泊まる理由はないから、当たり前なのだ。

私以外の男性二人はお遍路の話題で盛り上がっている。お二人とも、すでに還暦を過ぎて会社を退職されているようだ。
残りの一人は台湾の女性客で、少しだけ日本語も話せるようだが、民宿の奥様が英語が堪能なようで、女性客は民宿の奥様と英語で会話をしていた。
お遍路ではない私は、どうにもよそ者であるようで、男性二人のお遍路の話に耳だけ傾けて、無言で食事をとっていた。
あまりにも喋らない私に気を使ってくれたのか、英語の堪能な民宿の奥様が私にも声をかけてくれた。
私は、今日はフェリーと鉄道で和歌山から高知に来たこと、花山天皇のゆかりの地を旅していて、今回はこの近所にある鳴瀧八幡宮と花山神社を訪ねるつもりであることを話した。
それを聞いていた男性二人の客からは奇異の目で見られた。
この近所にあるはずの花山神社について聞いてみたら、姑と思われるおばあさんが、今は崩れて鳥居くらいしかないだろうと話してくれた。

思えば、こうして花山法皇のゆかりの地を訪ねる旅をしているのを、人に話すのは初めてであった。
花山天皇の名前を出して、大河ドラマに影響されたミーハーと思われるのは厄介だし、本郷奏多のファンだと思われてはさらに厄介だ。
そうでなければ花山天皇?何それうまいの?程度の反応しかされないだろうと思い、誰にも話していなかった。

人のゆく 裏に道あり 花山院

四国のお遍路も、花山法皇のゆかりの地を訪ねる旅も、誰に頼まれるわけでもなく、誰に褒められるわけでもない自己満足のものに違いはないが、お遍路は道中で同じお遍路の同好の士との交流はある。しかし、花山法皇の旅にはそれもない、どこまでいっても独りぼっちの旅だ。

食事を終えて、風呂に入り、この旅行記を書けるところまで書いて眠ることにした。

鳴瀧八幡宮

2024年3月25日の月曜日、民宿なずなの朝食は6時からである。早立ちをするお遍路客向けのスケジュールなのだ。
朝食でも私以外のお遍路の宿泊客たちの会話は弾む。

どうやらこの民宿なずな、中々予約の取れない民宿のようだ。
この民宿なずなの予約が取れなったお遍路客は、もう少し東にあるゲストハウスジョンに泊まるらしい。そこは、素泊まりのみなので民宿なずなの方が人気なのだ。
私が民宿なずなを予約したのは数日前だったが、たまたまキャンセルが出たから予約できたようで、ラッキーであったらしい。

朝食を済ませ、支度を終えてチェックアウトを済ませる。

6時50分、今回の旅の目的地である鳴瀧八幡宮を目指して、レンタカーで民宿なずなを出発した。

鳴瀧八幡宮の鳥居
鳴瀧八幡宮の観光案内板

今回訪問する高知の鳴瀧八幡宮は、花山法皇の伝承地の中でも、なぜ花山法皇の伝承が残っているのかがわからない場所である。

伝承上では「花山院が京より勧請」してできた神社とあるから、京から八幡様を勧請したのであれば鎌倉の鶴岡八幡宮と同じように石清水八幡宮の勧請と思われるが、実際に花山法皇がこの地を訪れたわけではなく、京から誰かしらの依頼を受けて名前を貸しただけの可能性は高い。

とはいえ、なぜここに?なぜ花山法皇が?という疑問は尽きない。
わざわざ皇族の名前を借りるなら、高知市街やせめて宇佐の、もっと人の詰まる場所の、もっと大きな神社建立で名前を借りればよいではないか。

この浦ノ内湾は、北岸を県道23号線、浦ノ内湾南側の横浪半島を県道47号線が通っていて、今でこそ車で気軽に往来をできるが、この道が開通する前は、海と山に阻まれた浦ノ内湾に面する各集落には、浦ノ内湾の入口にある宇佐からの船でしか往来できなかったと思われる。
今でも浦ノ内湾で連絡船が運航されているのは、その名残なのだろう。
おまけに浦ノ内湾内の集落は、太平洋を往来する船から横浪半島で覆い隠されている。

そんな人目の付かない場所に、わざわざ京から勧請してもらってまで神社を建立するか?という疑問はある。
この手の寺社は、中央の朝廷とそのバックアップを受けた国司と豪族の権威を民衆に示すのが目的であるだろうけど、それであれば、もっと人目に付く場所にもっと大きい神社を建てればよいではないか。

鳴瀧八幡宮からの眺め

すると、この場所は潜伏場所として最適なのでは?花山法皇は実際にこの地を訪れて、潜伏場所としてこの場所を選んだのでは?という推測をしてしまう。
花山法皇の伝承地としては他にも大入集落跡という、これまた潜伏先としてしか人が住む理由を見いだせない場所がある。
すでに訪れた山口県南原寺、山口県正法寺、岡山県深耕寺、岡山県八幡神社、鳥取県覚王寺。これらも市街地から離れた山の中や、人口の少ない里の奥にある人目に付きにくい場所ばかりである。
実際に訪問する身としては、やってられないくらい行きづらい場所ばかりだ。
なぜ、揃いも揃ってこのような場所にばかり、花山法皇の伝承が残されたのだろう。

車を走らせて深浦の集落を越えしばらくすると鳴瀧八幡宮の鳥居が見えた。
地図では民宿なずなから3km程度で、車ならばすぐ近くにあるように思えたが、実際にレンタカーを走らせると、離合もできないような狭い道や険しいカーブが途中にあったせいか、思っていたよりも遠く感じた。

鳴瀧八幡宮の拝殿

レンタカーを降りて、鳴瀧八幡宮を参拝する。
120段あるという石段を登ると本殿の手前にある拝殿と思われる建物がみえたが、拝殿は工事用の仮設足場に囲われていて、屋根はブルーシートで覆われていた。
台風の罹災でもしたのだろうか。
まだ月曜日の7時過ぎであるから、修復工事をやっているとしても始まってはいないだろうが、足場の古さをみるに工事が進行しているようにも見えない。
修復工事の準備だけして放置されているのかもしれない。
賽銭箱も置かれていなかったので、手だけ合わせて鳴瀧八幡宮を後にした。

花山神社

前回の那谷寺に引き続き、この鳴瀧八幡宮の近くにも花山神社がある。
ただし、那谷寺の花山神社と違い、花山法皇に関する詳しい伝承などは残っ
ていない。
ただ、花山院を祀っている、それだけだ。

花山神社については、昨日の民宿なずなの夕食で少しだけ宿のおばあさんから情報を聞いていて、花山神社はすでに崩れてしまっているらしい。
Googleで調べるとそこまで酷い状況とは思えないが、果たしでどのようなものであるかを見に行く。

花山神社に続く道
海からは見えない場所にある

花山神社は出見という集落にあるらしい。
鳴瀧八幡宮を出てすぐの県道23号上にある、「いづみはし」と銘板が付けられた橋を越えたすぐの道を右に曲がり、内陸側に入る。
川沿いをレンタカーで進み、花山神社に向かう道の交差点が少し道幅が広くなっていたので、そこで車を止めて歩いて花山神社へ向かった。

花山神社は海に面した小さい扇状地から、横に入った内陸にある。海からは見えない場所である。

花山神社の観光案内板
花山神社の鳥居

畑の横の道を数分歩くと花山神社は見つかった。
鳥居は苔で覆われていて、およそ大切にされているとか活気のある神社とは思えないが、打ち捨てられて崩れたというほど荒廃もしていない。

花山神社の拝殿
拝殿の中
奥に本殿が見える

拝殿の中を覗くと、平成元年に提灯が寄付されたことを記録した札がかけられていた。他にも札はあったが古くて読み取れなかった。
奥に本殿らしきものが見える。
拝殿の横に回ると、本殿はしっかり残されていた。
関東住まいには珍しい形式だが、どうやら西日本のこの手のマイナー神社は、本殿は奥に隠されていて一般の参拝者は本殿の手前にある拝殿しか拝めないようになっているらしい。

こちらも賽銭箱は無かったので、手だけ合わせて後にする。

花山神社からの帰り道

花山神社を後にすると、後ろから軽自動車が走ってきて、私の横を通り過ぎて行った。
花山神社へ続く道は、神社の参拝客から隠すように神社で折れ曲がってさらに奥へと続いており、奥には人の住む集落があるのだ。通り過ぎた自動車は、おそらくその集落の住人と思われる。

その集落はGoogleMapのストリートビューにも出てこない場所だ。

現代においても、なお人目を忍ぶ隠れ里、そんな印象を受けた。

浦ノ内湾

これで、高知の花山法皇ゆかりの地は終わりであるが、もう少し浦ノ内湾を巡ってみたい。

一宮神社の鳥居
一宮神社の拝殿
奥に本殿があるのは花山神社と同じ

まずは、花山神社の近くにある一宮神社へ行ってみる。
ここも花山法皇に何かしら縁があるかもしれないと思ったからだが、実際にレンタカーが通れるか怪しいほど狭い道を通って一宮神社を訪れても、花山神社よりもさらに小さい神社があるだけで、特に何もなかった。
神社があるのに何もなかったとは失礼だし、地元の方にとっては重要な神社なのかもしれないが、旅行者にとって特に見るべきものは無かった。

一宮神社をでて県道23号をさらに西へ走っていると、事故現場に出くわした。
事故車は歩道で完全にひっくり返っていて、窓から上の部分が完全につぶれていた。まだ、救急や消防は来ていない。
中にいる人が避難できていなければ大惨事と思われるが、今の私にできることは何も無い。止まることなくレンタカーを進める。

大谷のクスノキ
大谷のクスノキの観光案内板

次に浦ノ内湾から少し西に進んだ場所にある大谷のクスノキへ行く。
ここは、須崎市の観光案内にも紹介されている。今回の旅で、やっと普通の観光地らしい観光地へ行く。
大谷のクスノキは神社になっていて、樹齢1,300年というクスノキは確かに迫力があった。
参拝を終えてレンタカーに乗ろうとすると、地元民らしきおばあさんが鳥居の前で熱心に手を合わせてお辞儀をして拝んでいた。

鳴無神社の駐車場前の鳥居
鳴無神社は右の裏手にある
海に続く参道
対岸には消防車と救急車が集まっていた

最後に鳴無神社(おとなしじんじゃ)へ向かうために、大谷のクスノキから来た道を引き返す。
昨日の民宿なずなで鳴瀧八幡宮へ行くと言ったら、神社マニアと勘違いされたのか、鳴無神社へ行くのでしょう、と言われた。

浦ノ内湾の神社といえば鳴無神社なのだ。

浦ノ内湾まで戻るとレンタカーを県道23号から県道47号へと進め、横浪半島に入る。
鳴無神社は横浪半島の付け根にあたる場所にある。

海側から見た鳴無神社

鳴無神社は本殿よりも、鳥居へ続く参道が海へと入り込む階段となっているのが特徴のように思われる。
漁業や海運のような、海にまつわる神様を祀っているのだろうか。

鳴無神社に着くと駐車場前の朱色の鳥居が、この周辺の他の神社とは格が違うのだと思わせる。
海に続く参道を見ると、その先に見える対岸で、先ほど通りがかった事故と思われる現場に消防車や救急車が何台も駆けつけたのであろう、パトライトがいくつも点灯しているのが見えた。
これも、私にはどうのしようもないので、鳴無神社内に入る。

藤原家隆歌碑

鳴無神社内には藤原家隆の歌碑があった。
藤原家隆は平安時代末期の貴族だが、この浦ノ内湾で舟遊びを嗜んだらしい。
平安時代後期は日本史上で最も治安の悪い時期ともいわれているし、京の貴族が僻地の土佐までやって来て舟遊びに興じるとは、およそ信じがたいが、ウソでこんな話が残るとも思えない。
この時代にもなると院政や武士に仕事を取られて貴族も暇だったのか。あるいは藤原家隆がこの周辺に荘園を所有していて、現地までやって来て自分で荘園の管理をしないと収入もままならない状況だったのだろうか。

そのように考えると、この藤原家隆という人も、1158年生誕の1237年死没とあるから、武士や上皇に貴族の権力を奪われた時代に生まれ、承久の乱を経て朝廷から幕府に権力が移っていく時代を、時代に贖えずに落ちていくだけの貴族という立場で見ていたことになる。
藤原家隆は生涯で6万首もの和歌を残したとあるが、和歌を詠みながら何を思って生きたのだろうか。

案外、家隆もこの浦ノ内湾で船の上で戯れから、同じように時代に翻弄されて落ちてしまった花山法皇への思いを馳せていたのかもしれない。

横浪半島から太平洋側を見下ろす

このあと、県道47号を東に進んで横浪半島を横断し、宇佐大橋を渡って高知市内へ戻った。
途中には、武市半平太像や八十八か所の一つの青龍寺、宇佐大橋を眺められる宇佐井尻公園などのもあるのだが、ここでの観光はもう良いかなと思い、それらには立ち寄らなかった。
そんな気分になったのは、この県道47号を走っていると、徒歩のお遍路さんが何名もいるのを車から見かけたからかもしれない。

高知から鉄道で帰宅

9時30分頃、高知駅前のレンタカー屋にレンタカーを返却した。

レンタカーを借りる旅では、レンタカーの返却で安堵する。
やはり、レンタカーを借りるというのは気を遣う。
しかし、今の日本で効率的に地方の市街地に点在する史跡を巡ろうとすれば、レンタカーを借りるのが最も効率が良い。タクシーという手段もあるがレンタカー以上にお金がかかるし、徒歩ではいくら時間があっても足りない。
日本の史跡巡りというのは、現代が歴史上で最も便利な世の中になっているのには違いないが、それでもしんどい旅なのだと思わされる。

高知駅駅舎

高知駅内の土産物屋であらかたの土産を買いこみ、10時13分、私が乗った3両編成の特急南風10号岡山行は高知駅を出発した。

高知駅の電光掲示板
特急南風号

昨日、阿波池田駅から高知駅まで移動した際の特急南風は、自由席は満席なのに指定席はガラガラというありさまだったが、本日の特急南風は高知駅出発の時点で指定席も半分以上の席が埋まっていた。
高知と関東の移動は飛行機が圧倒的に便利で速いが、移動を楽しむという点で鉄道は捨てがたい。
特にこの特急南風はJR四国の最新型車両2700系気動車が使われている。
昨今登場した新型車両はどれも速さよりもエコと合理化が図られていてつまらなくなっているのに反して、この2700系という車両は前任のJR四国2000系気動車の振り子車両で高速化のコンセプトをそのまま受け継いでいる。
実際、特急南風は高知駅を出発するとエンジン音低く唸らせてあっというまに100km/h超えと思われるスピードに達した。

大歩危駅を出たあたりの車窓

絶対的な速度では他社の花形電車特急に全くかなわないのだろうが、ディーゼルエンジンを唸らせながら、車両を右へ左へ傾けて線形の悪い大歩危小歩危峠を必死に走る特急南風は乗っていて楽しい。
高知市内の自民党の看板に、「高知まで新幹線を!」というスローガンを見つけたが、新幹線なんてとんでもない、と思う。高知はこの振り子特急で訪れるから良いのだと、初めて鉄道で高知を訪れたのに、私は勝手にそんなことを思っていた。

特急南風は、阿波池田駅を出発して猪ノ鼻峠のトンネルを抜けて四国を南北に分断する山岳を抜け切って琴平駅に止まると、そこから善通寺駅、多度津駅と細かく止まっていく。このあたりの岡山行きの客も拾うのだろう。
多度津駅を出発するころには、指定席もほぼ満席になっていた。私の隣の席は空いたままだったが。

瀬戸大橋の車窓 ピンぼけ

宇多津駅を過ぎると瀬戸大橋に入る。
久しぶりに瀬戸大橋を渡ったが、鉄骨の下に見える海が遠くて怖い。
瀬戸大橋も開通時は日本中で大騒ぎだったが、すでに開通から36年が経っている。36年で寿命を迎える橋も無いだろうが、見える鉄骨も赤さびが浮いている箇所がある。
まだ何十年か先の話だと思うが、瀬戸大橋が寿命を迎えたらどうするのだろうという疑問が湧いた。その時に、日本は新たな橋を架けることはできるだろうか。

特急南風の乗車券・特急券

12時40分、岡山駅到着。
あとは新幹線に乗って東京へ帰るだけである。今回の旅も無事に終えられそうだ。
これまでの旅では岡山駅の乗換では毎度、乗り換え時間が少なくてやきもきさせられたので、今回は余裕をみて13時20分発ののぞみを予約しておいた。
余った時間で岡山駅のホームにおりて列車の写真を撮ったりしていた。

岡山駅で見かけた115系
末期色ならぬ中国地域色塗装
115系裏側の食パン先頭車
元は中間車であったものに運転台を付けて先頭車に改造された
まもなく特急やくもには新型車両が入り、381系の引退までは残り数か月となった
おそらくこれが見納め
津山線のキハ47系

私が乗ってきた南風10号だった3両編成のディーゼル列車は、南風13号高知行となって13時5分に早々に岡山駅を出発していった。
特急やくものホームから見えた南風13号は、自由席も指定席も満席であるようだった。

新幹線車内で食べたあなご弁当

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