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原始共産主義の誘惑、あるいは川勝知事の辞職に寄せて

前々回に書いた記事で静岡県の川勝知事について、イニシャルで少しだけ触れたら、記事を公開した翌日に辞職表明をした。

【4月3日15:30〜LIVE】川勝平太静岡県知事が会見 電撃辞職の真意は? | TBS NEWS DIG

リニア新幹線の是非とか、静岡県の水問題とかに首を突っ込みたくないし、それで記事のコメントで絡まれてもめんどうなので、上記の記事では県名はイニシャルにしてリニア新幹線についても直接は触れなかったし、記事の主題とちがうものだったのだけれども、こうもタイミングがドンピシャだとやはり気になった。

川勝知事が多少の失言を叩かれた程度で辞職するような人物とも思えないから、川勝知事としてはリニア新幹線の開業が正式に延期となったJR東海の発表を受けて、自身の仕事は全て果たした気になったのだろう。

JR東海、2027年のリニア開業断念 静岡着工メド立たず - 日本経済新聞 (nikkei.com)

果たして川勝記事が何故にこれほどまでにリニア新幹線の建設を妨害し続けたのか、彼の発言通り水問題が故なのか、世間で言われているような中国様や鈴木修の指示なのか、それとも本人のもっと根本的な思想信条によるものなのか、結局何もわからないし、世間的にも謎として歴史に残されていくのだろう。

世間の反応を見るに、大半で川勝知事はやはり嫌われていたようで、彼を好意的に評価するコメントは少ないし、辞職を歓迎しているムードであった。もっと言えば辞職発言すら信用ならないという意見も多くあるように思える。
とはいえ、一方では本気で静岡の水問題を懸念しているコメントや、リニア新幹線の建設に疑問や反対を訴えているコメントも少数派ではあれど見受けられる。
川勝知事だって、4期にわたって選挙で静岡県民から選出された知事なのだから、当然、静岡県の有権者のなかには彼の政策に賛同する人たちが少なからずいたわけで、全員が全員、川勝知事に敵意を持っているだけではないのだろう。

たしかに、リニア新幹線建設に関しては、静岡県民の視点から見れば、JR東海が買い上げた土地とはいえ、土地だけ提供して素通りされるだけでも不愉快だろうに、おまけに川の水が枯れるリスクもあるなんて聞かされたら、反対したくなる心情も理解できなくはない。
それ以外でも、交通の革新というのは、産業構造が根本的に変わる可能性が高い。そうなれば、これまでの稼業を失う人だって大勢いるだろうから、そういう関係者からも反対の声があがるのは必定だろう。

しかし、交通の進歩という、目に見えやすく社会的影響も大きい文明的な進歩を拒む人たちというのは、単純な上記のような嫉妬心でなければ、あるいは産業の変革や水問題、地権問題、公害問題と言った問題が故に反対しているようにも思えない。
むしろ、これらは反対するうえでの方便で、彼らはもっと根本的な理由によって反対をしてるのではないかと思える。

彼らは社会が発展すること自体を嫌がっているのではないか

結局、リニア新幹線を反対している人たちというのは、水問題やその他もろもろの問題の利害関係者なのかもしれないが、実際に南アルプスをトンネルで貫いて被る被害がそこまで大きいようにも思えない。

それよりも、リニア新幹線をはじめ過去でも現在でも、鉄道建設を反対する人たちというのは、社会が変わることそのものを嫌っているのではないかという仮説を私は立てている。
彼らは社会が変わって発展することそのものを拒否している。
この意見は、発展や変革を是とする現代において賛同を得られる意見ではないと、彼ら自身も気付いているから、水問題なりの何がしら別の理由を付けて反対をしているのではないだろうか。

この思想は、いがらしみきお著「ぼのぼの」の初期の中にある、以下の場面が、最も簡潔かつ少ない言葉で本質を言い表している。

スナドリネコさんはライバルで友のヒグマの大将を助けるために、ヒグマのカシラと喧嘩をして、敗れて帰ってきた。
そこにいたオオサンショウウオさんが、傷ついたスナドリネコさんを見ての会話である。

「ぼのぼの」5巻「あっスナドリネコさんだ」より

本当は全コマ載せてしまえばよいのだろうけど、著作権的に問題もあるだろうから、あとはその後のオオサンショウウオさんのセリフだけ引用する。

オオサンショウウオさん「おまえはそうできてもおまえのようにできないものはどうなる」
オオサンショウウオさん「ダメなヤツだと言われることになるのじゃぞ」
オオサンショウウオさん「生き物の目的は生きて死ぬことだけじゃ」
オオサンショウウオさん「余計なことをつけ足すな」
オオサンショウウオさん「余計なことがひとつ増えるたびに不幸もひとつ増えることになる」
オオサンショウウオさん「できなことを守れ」
オオサンショウウオさん「そしてもっともっと楽に生きろ」

「ぼのぼの」5巻「あっスナドリネコさんだ」より

この、オオサンショウウオさんの「何かを付け足すと不幸が増える」という考え方は、きわめて後ろ向きな考え方であり、現代の価値観では賛同を得られるものではないだろう。

「生き物の目的は生きて死ぬことだけ」とすれば、確かに人間が付け足したものは文明であれ技術であれ文化であれ、全て余計なもの、余計なことに相違ない。
その余計なもののために不幸になった人は、有史以来無数にいるだろうし、これからも不幸になる人は出続けるだろう。

また、オオサンショウウオさんの視点が「おまえはそうできてもおまえのようにできないもの」に向いている点も注目したい。
これは思想が赤い人たちに共通だが、視点が弱者、貧者、(財産や権力を)持たざる者に向いている。
彼らは、このように「できないもの」の不幸を増やさないためにはどうすればよいか、という発想から結論を出しているように見える
ここで注意したいのは、何かを付け足したことによって、「できるもの」がさらに利得を得ること、あるいは「できないもの」もその利得の一部でも受け取れることは、彼らの眼中にない点である。

一方で、多くの人は変化や発展を否定する際に、もしかするとオオサンショウウオさんの論法を用いるかもしれないが、実際は不幸になる人たちを慮っているわけではなく、単純に変化を受け入れたくないだけではないのかとも思える。

かつて、私が働いていた会社で印象的な一言を言われた経験がある。
その時、私はその会社の従業員組織の会長をしていたのだが、その従業員組織の活動は完全に形骸化していて、やることといえば年末の忘年会の企画幹事くらいになっていた。
本来は、従業員側から会社の経営陣に向けた意見を発したり、従業員の慰労活動や互助の役割もあるはずなのだが、社内旅行は従業員組織開催の名目で行われ組合費から費用を出すものの実態は社長の一声で開催も行先もすべて決まり、費用の利用は総務部長が全て握っていた。
従業員は強制的に組合費を給与から引かれるが、全く従業員主体の活動などできていなかった。
もはや、この従業員組織の役割を果たせていないと思った私は、組織の役員の集まりの中で、「もう本来の役割を果たせておらず、ただの忘年会幹事会でしかないから、無理かもしれないけど一度解散を会社に提案しませんか」と言った。
その時の副会長の言葉がこれだった。

「確かにそうかもしれないけど、自分が役員をしている時に無くなるというのは嫌です」

人は変化を拒む、変えようとする人を嫌う

自分の意見を真っ向から反対をされるというのは、概して気分の良いものではないが、ここまで率直な意見を言われると、むしろ私は清々しさを覚えた。
その副会長に感謝すらした。
そして、私はその会社の転職をその頃から意識するようになった。

とはいえ、この副会長の言葉は、おおよそ大多数の人類においては偽らざる本音ではないだろうか。
現代の人類は自身で築き上げた変化の繰り返しで生まれた発展の成果にどっぷり依存して生きているが、人というのは、基本的に変化を嫌うものであるように思える。
たまにバグって、現状をぶち壊せば、もっと自分に都合の良いものが勝手にできると勘違いして暴走してしまうこともあるが、大抵、歴史上でもそういうのは失敗する。

思えば、確かに現代において変化と発展の速度は加速度的に進んでいるが、それはこの百数十年程度のこと。
それまでは、社会的に大きな変化はなく、もっとゆっくりとした発展と変化をしていたはずである。

それに加えて、実際に変化と発展の激しい現代を生きていても、実際にその発展に貢献できる人間というのは、人類の中でも極々一部の天才、学者、発明家に限られているのではないか。
人類の多くは、慣例、常識、法律、規則、マニュアルに従って生きて仕事をこなしている。
仕事は上司の指示に従いその上司もこれまでの慣例やマニュアルや規則に従っているだけ。何か新しいものを生み出そうとしても、その可能性を潰している現場、せいぜい一時的にかつ局所的には使われても引き継がれずに消えていく知恵や技術も無数にあるのではないか。
そういう人たちが、何か新しいものを生み出そうとしている人たちの障害になっているとしても、それは現代の価値観では批判されるものかもしれないが、多くの人たちは障害に立つ側にいるように思える。
何も生み出さない人たちから見れば、何かを生み出そうとする人たちとは、厄介者、非常識人、自分の価値を壊そうとする攻撃者に映るはずだ。
また、自分の学識にプライドがある人であれば、自分が付いていけなくなった理論や技術で社会が変わっていくことを、純粋に許せないかもしれない。

このような変化を拒む習性は、何も人類にとって悪い方向にのみ作用するわけではないだろう。
全ての変化が良い方向に発展するわけではない。
時には前より事象を悪化させる変化だってある。むしろ、人類が発明した有象無象のものには、悪い方向へ向かわせるものの方が多いのかもしれない。
変化を受け入れたくないという感情的な習性は、不合理な変化を拒絶し、変化の繰り返しが健全な発展する方向へと導く作用もあるはずである。
現代において多くの人たちは、目まぐるしく変わる変化を面倒だと思いながら渋々受け入れて、それでも便利になって変化前に戻れなくなって初めて本心から受け入れるというのが実態ではないだろうか。

変化と発展への無根拠な抵抗と懸念、変化を受け入れることを億劫がる怠惰、何かを発明し前へ進めようとする人たちへの嫉妬、これらは誰もが持っている感情であり習性であるように思える。

これは悪性の習性には違いないけれども、重要な習性ではないだろうか。
一度変えてしまったら戻せないものだってたくさんある。
なんでもかんでも、変えればよいというものではない。

原始共産主義の誘惑

しかし、変化を拒むのに強い意志を持っていても、変化を拒むという自身の習性が怠惰だと気付いた人たちにとって、自身の怠惰を受け入れてそれを公言できないのであれば、変化の拒絶に他の理由が必要となる。

そこで、先のオオサンショウウオさんの理論が出てくる。
変化は不幸になる人間をうむ、というものだ。

この理論は甘美で誘惑的だ。

まず、自身の怠惰や嫉妬を完全に覆い隠すことができる。
さらに、弱者を救うという大名目を挙げられるのだから、自分を正義の味方の立場に押し上げることもできる。
元より、何かを変えようととする人たちというのは、それを拒む人たちより能力面で優秀であるから、変化を拒むとは負けている状態である。
その自分の敗北も正当化できる。

地獄への道は善意で舗装されている(Hell is full of good meanings, but heaven is full of good works)とはヨーロッパのことわざらしいが、こうした理由付けや論理のすり替えは、まさに善意の舗装と言ってよいだろう。
所詮は自身の悪性から目を背けるためのものであるから、地獄へ向かっていることには変わりない。
このことわざは英文を直訳すれば地獄は良い理由で満たされているが天国は良い仕事でみたされているだから、直訳の方がより具体的でわかりやすい。

こうして、他の弱者を引き合いに出して、自身の怠惰や嫉妬を覆い隠そうとすれば、その理論はどんどん加速して極端で過激なものになっていくのは、容易に想像できるだろう。
そうして生まれたのが、原始共産主義、原始共産制ではないだろうか。

原始共産主義について詳しいか解説はする必要はないだろう。
要は文明を捨てよ、狩猟時代まで戻れということだ。
地獄の中でも地獄の一丁目、無間地獄へ向かって行くようなものだが、本気で信じている人もいるし、実際に実行してしまった歴史もある。
毛沢東やポルポトの名前だけ挙げれば、この制度を実際の国家で実現しようとした結果がどうなったかは、詳しく書かなくてもよいだろう。
グロテスクなだけだ。

そもそも、このオオサンショウウオさん理論は、「余計なこと」付け足したことによる、不幸な人が増えた点のみを注目している時点で、全体を俯瞰しておらず偏った見方をしている。
「余計なこと」を付け足す前にだって不幸な人はいたはずで、「余計な事」で不幸が取り除かれた人、利益を得た人だっているはずなのだ。
そういう視点が無いのは、もとより「余計なものを付けたすな」という結論が先にあり、その理由をあとづけて「不幸になる人がいる」と見つけてきたからではないか。
正直にめんどくさいから余計なものを付け足すな、と正直に言えないのは、元をただせば歪んだプライドだけなはずだ。

原始共産主義を掲げている人たちから言わせれば、以下のようなものらしい。

階級支配は無く、富の余剰も作成されない。更にいくつかの原始社会では食料や衣服などの全てが共有され、「共産主義」の目標に関連した特徴が含まれている。それは私有制以前の社会の自発性であり、共産主義が焦点とする平等主義の系列でもある。

原始共産制 - Wikipedia

そもそも、狩猟社会だってもっと言えば哺乳類の群れの世界だって、明確な財産はなくても能力の多寡による争いはあっただろうし、狩猟社会だってなわばりの概念があれば、なわばりの保有が財産になっただろう。
医療のない世界では、身体が弱い個体は財産の保有以前に生命が危機にさらされたはずだし、近現代の貧富の差以上に持って生まれた能力による生存環境の過酷さの差異は大きかったのではないか。

しかし、原始共産主義を掲げている人たちにそんなことを言っても、彼らは聞く耳を持たないのだろう。
もとより、一度掲げた理論を取り下げるなど、普通の人ではプライドが許さないだろうし、これは私の仮説でしかないが、もとより原始共産主義が純粋な弱者の救済ではなく、自身の怠惰や嫉妬を覆い隠すために弱者を引き合いに出しただけの理論であれば、この理論が破られてもそれを取り下げる理由にはならないからだ。

ちなみに、川勝知事は別に共産主義者でもなければ、原始共産主義者でもない。
しかし、彼がリニア新幹線反対に水問題を引き合いに出したのは、どう見てもその裏に別の理由があるように見えるし、それを支援した少なからずいた有権者は、少なからず原始共産主義に至った私の仮説と同様の道程を辿った人たちがいるように思えたので、この記事を書くに至った。

さいごに川勝発言は何が問題だったのか

この記事の最後に、話を川勝知事の辞職に戻すと、辞職のきっかけとなった川勝知事の訓示の問題とは何だったのだろうか。
川勝知事は切り取りだというので、全文から該当箇所を含む段落全体を転載してみる。

 そしてですね、そのためにはやっぱり勉強しなくちゃいけません。実は静岡県というのを県庁というのは、別の言葉で言うとシンクタンクです。毎日毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいは物を作ったりとか、ということと違って、基本的に皆様方は頭脳、知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。それは磨き方、いろいろあります。知性を磨くということ。それからですね、やっぱり感性も豊かにしなくてはいけない。体がしっかりしてないといけませんね。ですから、文武芸、三道鼎立と。文武両道で言うでしょう。しかしですね、美しい絵を見たり、いい音楽を聞いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時に感動する心というものがあると望ましい。ですから、自分の知性があの人におよばないなと思っても、知性というものを大切にするということが大事ですね。そのためには勉強しなくちゃいけません。

【訓示全文】静岡県・川勝知事、新入職員へ複数訓示も「野菜を売ったり牛の世話をするのと違って知性が高い」職業優劣発言か(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース

全体的には新社会人に向けた、良い訓示だと思う。
上記の引用した部分だって、言いたいことは職業差別ではなく、新しい県庁職員に勉強せよと言っているのだ。
問題の箇所は言うまでもなく「毎日毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいは物を作ったりとか、ということと違って、基本的に皆様方は頭脳、知性の高い方たちです。」という文で、これは露骨に職業差別を助長している発言に違いない。

一方で、上記の引用箇所の発言は有名な福沢諭吉著「学問のすすめ」の前文と同じことを言っている。
「学問のすすめ」と全く同じ言葉ではなく言い換えてはいるけど、むしろパクリと言っても良い。
日本では一時期「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」だけを引用して人類平等を謳っているものと勘違いされていたが、最近ではネットやTVでも福沢諭吉翁の真意を紹介され多くの人が知るところとなった内容だ。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役りきえきはやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

福沢諭吉著「学問のすすめ」

「学問のすすめ」でも、「また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役りきえきはやすし。」と、はっきりと職業の貴賤と身分の差別について、その存在を肯定的に述べている。
そして、だから勉強せよとなるのだが、川勝記事の訓示もこの点は「学問のすすめ」と同じ論法になっている。

そもそも、公言して良いか悪いかの問題はあるが、職業に貴賤なしという建前と、実際の心情として職業で人を差別する現実の相違というものは、現代にだってあるはずだ。
また、県庁勤めの公務員であれば、職務上の人間関係は職場内だけに閉じず様々な人間を相手にしなければならないのだから、他人との能力や知性や視点の違いを考慮しなければ業務を遂行できない場面だって多々あるはずで、そういう点も川勝知事は言及したかったのかもしれない。

川勝知事にすれば、一万円札にもなっていて日本国民全体にコミットされている偉人である福沢諭吉の代表作「学問のすすめ」と同じようなことを訓示で述べただけのに、ここまで批判されるなんて全く心外だったのではないだろうか。
いっそ訓示の中でも「福沢諭吉翁も有名な「学問のすすめ」のなかで述べていますが」と枕を付けて、問題の箇所を喋れば特に大事にもならなかったようにも思えるが、早稲田出身の川勝知事にとってそれはプライドが許さないのかもしれない。

そして、今回の騒動で川勝知事はこう思ったはずである。

世間の馬鹿どもは「学問のすすめ」の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の箇所しか知らない。

4月10日追記

川勝知事は宣言どおり辞表を提出したようだ。

川勝知事、辞職願提出前に細川ガラシャの辞世の句 「散るべき時を知らぬ人」と厳しい声も - 産経ニュース (sankei.com)

細川ガラシャの辞世の句とは以下の通り。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

細川ガラシャは夫が不在の折に、敵方の石田三成の捕虜に取られそうになった折に、夫の言いつけを守り自害(正確には家老の介錯)したとある。
その細川ガラシャの辞世の句を引用して、自身の辞職にはめ合わせるあたり、自身の辞職は敵方に陥れられての名誉の自死のつもりなのだろうか。

彼にとっての石田三成、すなわち敵とはだれかを聞いてみたいものだが。

#川勝知事 #川勝平太 #リニア新幹線 #静岡県 #共産主義 #原始共産主義 #リニア開業断念

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