雑文(38)「どっちの雪見だいふくショー」

 大志(たいし)は逡巡した。
 本命の雪見だいふくと、義理の雪見だいふくにだ。
 本命は本命だから本命だが、義理は義理で、というか義理だと云っても世間では本命だと主張しろと言っていないのに主張する人たちもいるから、あくまで大志にとっての本命であり、義理なのだ。
 贅沢だと世間に嫉妬されようか。いや、嫉妬されるだろう。なにせ、本命の雪見だいふくに、それはおまけのように義理の雪見だいふくが──或る人には本命の──大志の願望に関わらず、ほとんど自然に付いてきたのだ。自動販売機で清涼飲料水を買ってもう一本清涼飲料水が──べつに欲しくないのに──手に入ってしまう小さな幸福のように。

 どっち

 雪見だいふくは旬である。大志は真冬に雪見だいふくを喰らうのが好きで、雪見だいふくだって真冬に喰らわれるのが好きだろう。外は寒い。暖かい室内で喰われがってる雪見だいふくを大志は喰らうのだ。

 にしても。
 本命の雪見だいふくと義理の雪見だいふく。本命は洋テイストだが、義理は和テイストである。一昔前にテレビで観た──二品の料理のうち一品しか食べれない──バラエティ番組を思い出す。
 本命か、義理か。
 どちらも旨そうだ。あの番組に出演していた芸能人たちの気持ちがいまの大志には痛いほどわかる。どちらか一品しか食えないのだ。どちらか一品だけしか。
 本命だ。と答えるのは易しいが、義理は義理で捨てがたい。本命の雪見だいふくがなければ迷わず義理の雪見だいふくを選んでいる。まちがいなく。それほどに義理の雪見だいふくは本命の雪見だいふくに負けない魅力があって、それはそれが持っている魅力が正反対なんだからと大志は思った。あの料理ショーのように。
 腹が鳴る。腹が鳴るから喰わないとならない。本命にしろ義理にしろ、大志は雪見だいふくを喰わないとならないのだ。きょうはどこだって雪見だいふくを喰らうし、雪見だいふくは喰われたがってる。そういう日なのだ。きょうは雪見だいふくを喰らう日なのだ。
 それが。まさか本命と義理の雪見だいふくを、どちらかを選ばないといけないなんて。大志は眩暈をおぼえる。贅沢だ贅沢だと雪見だいふくを食いっぱぐれた人たちが長い行列を作って拡声器片手にうるさい罵声を大志に──それはほとんど嫉妬だが──叫ぶ光景が目の裏に浮かぶ。しっかりと、あかあかと。
 本命か、義理か。
 大志には喰らう権利がある。選択する自由がある。多くの食いっぱぐれた人たちとちがって大志には喰らえる恵まれた環境にいるのだ。本人が望んだ望んでないはべつにして、そういう状況に大志はいるのだ。

 さあ、どっち?

 頭のなかで司会者の視聴者に迫るあの声が反響し、大志はスタジオにいないのに緊張し、喉が渇いて落ち着かない。
 本命か義理か。どちらも旬だから旨いだろうが、どっちを選ぶべきかと、大志は困ってしまう。どっち。どっちを俺は喰らうべきなんだろうか。不公平だ不公平だと行進する食いっぱぐれた人たちの拡声器で誇張された罵声が頭のなかに──それはまるで呪いのように──大志の小さな脳みそのなかで反響し、いっこうに静まらない。本命だ。いや義理だ。俺は本命一択。いやいや義理一択だろうと、勝手な議論が交わされ、大志は頭を抱える。
 本命の雪見だいふくか、義理の雪見だいふくか。義理の雪見だいふくは文字どおり棚からぼたもちだが、ぼたもちがぼたもち以上に価値を持っているから困るのだ。きっかけは本命の雪見だいふくだから本命一択だと叫びたかった。が、あまりに義理の雪見だいふくは、それは或る人にとっては本命だから、かんたんに捨てられない。
 
 さあ、どっち?

 大志は決断した。
 尺は決まっている。どんなことにも。長い尺はあっても終わりはかならずある。長々と書いた小説がかならず最後は──どんな結末にせよ──終わるように。
 確実に。確実に俺は終わりにむかって歩いているのだと、大志はあきらめたのだ。
 
 剥がしておもむろに見つめる。
 雪見だいふくは喰われたがっていた。
 喰らった。
 ──そして喰らった。
 大志は本命と義理の雪見だいふくを交互に喰らい、愉悦に浸って一頻り満足するとベッドのうえで大の字になっていびきを立てて眠ってしまった。

 おわり

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