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雑文(96)「はさまれて、くるまれたいだけ」

 はさまれたいだけ。
 ぼくは、しんどい思いをして、はさまれたいだけだった。
 なぜはさまれたいのか、うまく説明はできないのだけれど、ぼくはたぶんはさまれて安心したかったに違いない。
 なぜそれで安心するのか、しょうじきなところ、ぼくにもわからないのだけれど、はさまれるとたしかに安心できて、ずっとはさまれていたいと、ぼくは純粋にのぞんだ。
 けれどもずっとはさまれているわけにはいかない。その場所で、ずっと留まることは許されないのだ。それはつかのまだけの、ほんの少しだけの、幸せなのだ。
 
 くるまれたいだけ。
 いつしかぼくは、はさまれるだけでは満足できず、くるまれたいと思うようになっていた。
 さいしょは不潔なことだと、どこかで思っていたのだけれど、成長するにつれ、それはたがいが満足し合う行為なんだと理解ができて、それ以来ぼくは、くるまれたがっていた。
 もちろん、ぼくがどんなにくるまれたいと願っても、そうやすやすとくるんでくれない。ある手続きをふんで、非常に手間のかかる交渉の末に――ようやく――いやまだ残っている手続きをすませて、ようやく、ぼくはくるまれる。
 くるまれるとき、ぼくはとても幸せな気持ちになる。それは義務のようで、義務ではない。義務の側面もあるのだけれど、義務ではない側面も多い。くるまれながら、ある発作に苦しみながら、ぼくはいまくるまれているこのときが、永遠に続いてくれることを望むが、むろんそんなことはありえない。ある地点をすぎると、それは急激に冷めて、ぼくはなぜくるまれたがっていたのか忘れてしまう。それほどに、くるまれたいという感情は一時的なとても不安的で、だからこそ鮮烈で貴重な感情なのだ。
 またそれで、たとえとしては不適切だと思うが、生理の排泄のように、いつしかまた、ぼくはくるまれたいと思っている。これは理屈ではなく、なにかを考えて、くるまれたいと思うのではなく、しぜんぼくはそうのぞむのだ。
 
 はさまれて、くるまれたいだけ。
 はさまれて、くるまれたいと、ぼくは思うようになった。くるまれるだけでは、それはある連続性を持った行為でしかなく、もちろん行為をする動機はあるわけだが、行為はやはり行為なんだと、動作は動作にすぎないんだと思うようになった。
 はさまれるというのはどちらかといえば、「受容」のような受け身の気分で、くるまれるというのはどちらかといえば、「供与」のような自発的な気分だ。つまりそれらはまったくの対照的な性質を持っていて、どちらも欲するように、ぼくはなってしまったらしい。
 はさまれて、くるまれたい。
 故郷に戻りたがっているのかもしれない。遺伝子に刻まれた故郷にぼくは帰りたがっているのかもしれない。これは本能ともいえるし、意志ともいえる。べつに好んで、はさまれたいとも、くるまれたいとも、そう思っているわけではなく、これは故郷の記憶なのだ。忘れられた故郷に、生まれたあの場所に、無意識下でぼくは帰りたがっているのだ。だから、ぼくは、はさまれたいと思うし、くるまれたいとも思う。
 
 はさまれたい、くるまれたい、という感情に意味など本来ないのかもしれない。それに意味らしい意味をつけて、もっともらしく行為と願望を正当化しようとしているだけなのかもしれないし、あるいはそうではないのかもしれない。それはぼくにもわからない。とにかく、はさまれて、くるまれたいとぼくは意識せずに思っていて、反射的に、はさまれたい、くるまれたい、と思っている。
 べつにぼくは自分の欲求を正当化したいがためにこんな文章を書いているのではなく、ぼくは純粋に、はさまれたい、くるまれたい、と思っているだけで、そこにはもっともらしい意味はないし、そんな意味は意味とは呼べない。
 はさまれて、くるまれたいだけ、そこに意味などありようがない。

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