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雑文(01)「未来指向型リニアモーターカー」

 名古屋に行くのは、名物の手羽先を食べて、酔いたい、というのもあるのだけれど、それだけじゃなかった。
 俺が、いや、妻が、妻は窓側の席に座っていて、俺は通路側の席に座っているのだけれど、妻は席に座ってから、未開封でもいい匂いを漂わす崎陽軒のシウマイ弁当に目をくれず、座ってからずっと窓の外の横流しの景色を眺めており、今か今かとその時を、妻と俺はうずうず待っていた。
 開通後、中々抽選で選ばれない日々が続いたのだけれど、ようやっと抽選に当たって、その晩俺は妻と喜び合ったのを今も憶えている。あれからちょうど半年後だ。ようやっとこの日が来たのだ。乗車できる日が、きょうだった。
 リニアモーターカーに乗るのが第二の、いや第一の目的だった。マイルを貯めてジャンボ旅客機のファーストクラスに搭乗する心持ちに似ているが、俺は別にマイルを貯めたわけでも、座った席は栄華を極めたファーストクラスでもないので、厳密にはちょっと違う。
 まだかな、まだかなと、妻は窓の外を眺めてはガラス越しにそう言っているのが、窓ガラスの曇り具合でわかる。まだかな、まだかな、の軽妙なリズムでガラス表面が曇ったり晴れたりするのだ。
 東京駅を出て、ちょっと経ったが、妻はまだ内心はしゃいでいるのが、夫の俺にはわかったから、妻の後頭部に声をかけた。
「まだだよ。まだだから、ちょっとはのんびりしてたらどうだい?」
 妻は、いや、妻の後頭部は、俺に喋った。
「準備よ。見逃したら大変でしょ。もしも見逃して、今だとあなたが言っても、その時にはもう見逃した後で、わたしはせっかくの機会を見逃すかもしれない」
「考えすぎだよ。そんな一瞬じゃないから心配しなくてもいいよ。瞬きしたぐらいじゃ見逃しようがない時間、見逃さない時間はたっぷりある。だからちょっとは落ち着いたらどうだい?」
 妻の後頭部はまた、俺に喋った。
「こんな機会はもう訪れないかもしれない。次は、たとえばわたしがおばあちゃんで、あなたが、ヘタしたらあなた死んでるかもしれないでしょ? で、わたしひとりで席に座って、その時を待てって言いたいの、あなたは。薄情よ、それは余りに薄情って奴よ」
「おいおい」俺は慌てて妻の後頭部に言う。「論理の飛躍だよ。飛びすぎだって」
「そうかな。わたしはそうは思わないけど」
「君が思わないだけだ。俺は思うよ」
 互いに笑った。窓ガラスが一瞬曇って、一瞬で晴れたので、妻が軽く笑ったのがわかった。
「それにしても」妻が言う。勿論後頭部が僕に喋った。
「時速五○○キロメートルの浮上走行だってさ」
「じゃあ」
「ああ、そうだよ。二五キロメートルもあっと言う間だよ。正確には、三分」と、俺は言いかけて、妻はまた軽く笑うと俺の続く言葉を遮って、「あっと言う間じゃないじゃん。あなたのあって、三分? 三分もあったら、カップヌードルできちゃう」と言いかけて、妻はまた軽く笑った。
「悪かったよ」
「うん。あなたが全部悪い」
 やれやれと、俺は背もたれに背中を預けた。東京駅で並んで手に入れた崎陽軒のシウマイ弁当は冷めはじめていたが、匂いは相変わらずいい匂いを周囲に漂わせていた。
「食わないのかい?」
「別腹よ」
 何と何のだよ、とは突っこまない。妻の後頭部はがら空きなので突っこみ放題だったが、そんなことでいちいち突っこんでいたら、今頃は。と、考えた所で、妻が、妻の後頭部が叫んだ。
「見えてきた」
「ほんとかよ」無論俺の位置からはわからない。妻の位置からでないと見えない。
 南アルプス浮上走行トンネルっだっけ。
 ともかくその南アルプス浮上走行トンネルが見えてきたらしい。妻の観察によると。
「二五キロメートル続くんでしょ」
「三分な。カップヌードルもできちゃうぞ」
「お腹空いてると待つ時間が長いのよね」
「何の話だよ」
「空腹だとカップヌードルができるのが長く感じる話よ」
 相対性理論かよって、俺は言いかけてやっぱり止めた。リニアモーターカーと物理学はまったく関係ないわけではないが、そんな講釈をこんなショートショートでしてもそれはショートショートではなくなってしまう。相対的に。長編に、いや中編になってしまう。そんなこと誰も求めていない。
「いよいよ」妻が言う。「来たわ来たわ」
 来たぞ来たぞ、俺は内心そう言った。
 代わりに言う。「三人で見たかったな」
 妻がちょっとこちらに顔を向け、意味ありげに俯いて俺に言った。「この子もきっと自分の目で見たかったんでしょうね」妻が笑った。
 俺は困惑顔で、「えっ?」と聞き返したが妻は答えず、次の瞬間その時を迎えた。
 俺たちを乗せたリニアモーターカーが、長いトンネルに入った。二五キロメートルの、三分で通過する、南アルプス浮上走行トンネルに。
「すごい」妻が喜びの声をあげた。
 流石の俺も妻の後頭部越しに声をもらした。「すげえな、こりゃあ、ほんとにすごい」
 リニアモーターカーはリニアーに空を飛んでいた。
 二五キロメートルを、三分間、リニアモーターカーは飛んでいくのだ。
「見て見て、あれ」妻がまた俺にちょっと顔を向け、すぐに窓の外に目を戻した。
 俺は妻を後ろから抱くようにして窓の外を見た。
 富士山だった。
 マウント・フジ。いや、マウント・ザ・フジ。
 妻は笑った。俺も笑った。妻の腹にいる新たな命も笑った。
 山梨県から静岡県を経て、長野県を結ぶ全長二五キロメートル、およそ三分間のその浮上走行は、南アルプス浮上走行トンネルと俗称される空中トンネルを抜けた先は、無論長野県で、岐阜県を経由して目的地の名古屋まで、陸路でリニアーに、リニアモーターカーは走って、時速五○○キロメートルの超電導が成した高速で、俺と妻を、それと妻の中にいる新たな命を運んで、俺たちは今無重力に飛んでいた。

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