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雑文(16)「穴掘り」

 どれだけ掘ったのか、どれだけ掘ればよいのか、俺にはわからない。
 地面にシャベル先端を突き刺し、靴底で踏んでシャベル半分以上を地中に埋まらすと、腰を落として両腕に力を込めて土を掬い上げ、腰元まで持ち上げた土を、一定速度一定間隔で巡回する滑車のポリバケツの中に放って、シャベルを壁に立てかけて冷えて凝り固まった腰を叩きながら俺は、掘り進めた穴底から地上に運ばれる山盛りのポリバケツの底面を黙って見上げ、もはや小さな光りの点になった掘り始めの入り口に目を細める。
 独りで掘るのを選んだ。壁越しに隣人と声かけしながら掘る人々がいるらしいが、玩具のスコップで遊ぶ頃より誰とも会話せずに、ひたすら土を掘って、中には物好きで俺に喋りかけてくる変わり者がいたが、黙々と掘っていると誰も俺に構わなくなった。当然、降りてきたポリバケツの中には両親からの贈り物が、それは俺の好みに関わらず、父と母から与えられ、俺は拒否せずにそれらを受取り、愛情を注がれながら穴を掘ってきた。
 俺の穴は小狭だった。両腕を真横に伸ばすと片方の指先が壁に触れ、もう片方の指先からあと少し先に壁があるから、だいたい一八○センチメートルくらいの直径二メートルにも満たない小さな円形の穴だ。噂で聞くところ、これよりも倍の穴、いや五倍や六倍の直径の穴を掘る人々がいるらしいが、なぜそこまで広い穴にしたがるのか、俺にはわからない。小狭な穴の方が掘りやすいのに、あえて大きな穴にしたいのか、彼らの気持ちがわからない。いずれにせよ、俺の穴は人ひとりがすっぽり入っても窮屈を感じない手頃な小さな穴だった。
 滑車ロープに等間隔に配置されたポリバケツ群の中身はたいてい空だが、たまに報酬に、それは掘削の見返りに、赤い林檎がひとつポリバケツの中にあり、掴み取ると俺は、林檎を囓りながら小休止をとり、減った腹を満たして、疲れた心を癒やす。生気を養うとまた俺はシャベルを手に土を掘り起こし、滑車のポリバケツに盛って、続々やってくる空のポリバケツに急かされながら土掘りに専念する。
 若い頃は入り口が近かったからか、空気が濃く、澄んでいたように思うが、長らく掘って深さが増すと地上から入り込む空気の濃度は明らかに薄く、澱み、呼吸するのが最近では困難になったと感じる。幼い頃は一日中掘っていても全く疲れなかったのだが、持ち上げた土をポリバケツに移し替える時にたまに手元が狂い、掬った土を地面に落としてしまう、年のせいもあるが、空気の薄さ、それに周囲の暗さも俺に悪影響を与えていると不安になる。
 どれだけ掘ったのか、どれだけ掘ればよいのか、俺にはわからない。
 俺は孤独だが、君ぐらいしか語る相手がいないから当然だが、これは生まれ持った本能なのか、穴を掘り続け、なんのために掘っているのか、それに迷いながら戸惑いながら俺はやはり、掘る手を止められない。誰も訪問しない穴の中で、遠に父母の支援がなくなった穴の中で、俺は独り穴を掘り、たまに上を見上げて、はるか遠くにある小さな光りを眺めながら、顔をまた下に向けて土を掘って、対価に支給される林檎を囓って、誰とも喋らずに穴の深みに向かうしかない。
 林檎の他に、ささやかな嗜好品や必要最低限の日用品もポリバケツの中にあり、薄暗い穴の中で、好きな作家の小説を読んだり、小型のモニター画面に映された流行の海外ドラマを観賞して感動したり、顔の見えない誰か知らない人が書いたネットニュースの批評コメントを読んだり、掘る時間以外は適当に時間を潰し、明日掘る力を養い、適度な休憩を取りながら俺は、掘り進めてきた。掘る理由がわからないから、掘る以外になにか夢中になれるものがなければ、掘るのを継続するのは難しい。
 壁に手のひらを当てると地質はだいぶ硬いなと感じる。もっと柔かった地質は深さが増すにつれて硬度も増し、地面にシャベルを突き刺すのに十分な力を要する。だが、本能に逆らえずに俺は土を掘り起こし、定期的にやってくるポリバケツの中に土を盛って、なぜという理由を封印して掘削に励まなければならない。
 ここまでよく掘ったものだと、正直俺は思う。独りで、誰に励まされずに孤独に耐え、ひたむきに掘ってきたなと思う。誰から褒められずに、誰から叱られずに、穴を掘ってきた。小狭な自分だけの穴を、途中でシャベルを投げ捨てずに、与えられた林檎だけを囓って、肉体を酷使し、精神をすり減らし、よくぞ掘ってきたと俺は俺を褒めてあげたい。よくやってきたな俺と、そう褒めてやりたい。
 土だった。それは掘った土ではない。それは見上げた先から、それは少しずつ確実に降り注ぎ、眺める俺の顔を叩き、汚し、侮辱する。土が降って、徐々にそれは量を増やし、俺の後頭部を叩き、それは、掘り起こす土の量よりも増え、一定速度でやってくるポリバケツに載せる量を超え、シャベルを持つ両手が次第に鈍り、やがて止まり、土を掘る手は完全に止まってしまう。予感だった。それは近い将来確実にやってくる未来だと俺は直感した。
 なんのために掘らせたのか、俺にはわからない。
 だが、だいぶ深くまで掘り進め、先はまだあると俺にはわかった。けれど、降ってくる土が俺の掘削作業を妨害し、それ以上の掘り起こしを止めさせようと、俺に警告する。
 お前はもう土を掘れない、もっと深く掘るのは許されないのだ。
 と、どこからか聞こえてくるようだ。俺はそれがなんの警告なのか、当然ながらわからない。
 当惑しながらも頭上に降ってくる土の勢いは増すことはあっても減ることはない。俺の困惑を無視し、俺の土掘りを嘲笑うように、なにかの皮肉なのか、掘った代わりにそれ以上の土を、上を睨む俺の顔面を打ち、無言の仕打ちを投げかける。どういう意味があるのか、どれほど考えても俺にはわからない。
 処理しきれない量の土が放り込まれる段階になって俺の足は埋まり、手は完全に停止し、あいかわらずやってくる滑車のポリバケツに少しも土を載せられずに、歯痒い思いを噛みしめ、俺は土の中に埋まっていく。
 ずいぶん深くまで掘ってきたものだ。
 それが俺の最期の言葉になった。

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