見出し画像

文語文であるぞ。

先に書いたおやじの涼宮ハルヒ初体験に「すき」を数点頂いて、気をよくしたのでまた書きます。送ってくれた皆様、ありがとうございます。今度は山本夏彦です。明治生まれの気骨あふれる頑固おやじだ。よく話を聞かないと怒られるぞ。「過去に生きる」と名乗っている通り、今回は文語文だ。

今は口語の時代。戦後にそうなったと思っていたらすでに、明治、大正期にその口語分への流れがあったとのことだ。何が文語文と違うのかというと、言葉遣いだけじゃないんですね。文語では余韻が違う、リズムがあった、共通のモラルがあった。それゆえに口語では詩が書けなくなった、ということのようだ。

夏彦師は続ける。文語が読めなければ古典が読めない。したがって戦争をまたず我々は断絶していたのだと。断絶!えらいこっちゃで。私たちは知らぬ間に、しかも生まれる前からすでに断絶していたのだ。トランプさんが大統領になる、はるかに前からだ。なんということだ。

文語文の説明をしたいんだけど、書中にある例文は、無学な私には到底手に負えそうにない。そこでこのビデオを見てほしい。

今からもう10年以上前なんだね。シャキーンという子供向け早起き番組で島崎藤村の若菜集から「知るや君」という詩を選び、歌にしたのがこの曲です。この歌がいいのは、文語の他に口語訳の歌も放送した点。文語と口語の比較にはうってつけだ。このビデオはその2曲が収められている。親切な人っているんだね。ありがとう。

聴いてみてほしい。うまく説明はできないのが残念だが、文語のほうが歌詞としてマッチしているように思える。詩としては七五調の文語のほうが断然自然に聞こえる。リズムも美しい。不思議なもんだ。

解釈をしてみると、文語では「知るや君」。口語訳では「知ってるかい」となっている。これだけでも随分あっさりした印象がある。「知るや君」とくると、「君は知っているだろうか、いや知らないんだよなあ(知ってほしいんだがなあ)《反語》」というような思念が入り込んでいると感じる。「知るや君」という、たった4文字の中にだ。これが余韻の正体だ。

一方、「知ってるかい」とくると、口語としては間違いじゃないが、ともすすると「なんだい、知らないことをおちょくっているのかい?」と受け取られそうな聞き方だ。軽いんだよ。やっぱり違うね。

若菜集は教科書にも(多分)出てくる明治を代表する詩集で、当時の美しい乙女たちがこぞって読んだベストセラーだったらしい。藤村が彼女たちに「知るや君」と問いかけたのは、貞節だったり、気骨を秘めた従順さであったり、ほのかな恋心であっただろう。今の時代から見ると古臭い美徳なのかもしれぬが、文語で問われると、それまでの歴史、培われた文化、その土地・人の変遷など、バックにいろんなものが含まれているように思える。重層的な問いかけなのだ。「胸にひそめる琴の音を知るや君」なんて、女性の恋心の機微を具現化しているようなフレーズだ。

口語にはずいぶん分が悪い内容を書いてきたが、文語が何たるかを知ると、口語体の俳句、短歌、自由詩は少し物足りないものに思える。だからこそ優れた口語の作品、例えば俵万智さんの「サラダ記念日」がどれだけすごい作品だったかわかるというものだ。

もう一つ、口語の物足りなさを補うために、顔文字、記号を文章に織り交ぜることが一般的になってきたのかもしれない。口語での文意を補うため、誤解のなきものにするため、こちらの感情をはっきりするため、にこちゃんマークを添えているのだ。

知らず知らずに口語の欠点を補う方法を日本人は身に付けたのかもしれない。そんなヒントを明治生まれの爺に教わったような気がする。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?