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今年も国語入試問題に落胆する

公立高校の入試問題や大学入学共通テストの問題が新聞等で公開されている。
今年度も、その国語科の問題を見て落胆した。

指導要領が変わり、「学習者中心」の考え方にシフトをし、「主体的・対話的で深い学び」と「個別最適な学び」が強調されている。だが、それにもかかわらず、今年度の問題もまた、それらが反映されていなかったからだ。

結局のところ、出題者が求めているものは、次の二つである。

・指導要領に述べられている資質・能力

・常識度

「指導要領に述べられている資質・能力」とは、例えば「中学校学習指導要領 国語」の「イ 目的に応じて複数の情報を整理しながら適切な情報を得たり、登場人物の言動の意味などについて考えたりして内容を解釈する(力)」(第2学年)である。

「常識度」とは、日本を中心とした共同体では、例えば一般的に人物の行動の理由・心情はどのように推し量れるかを判断する力のことである。
石原千秋氏は、『「読者はどこにいるのか」読者論入門』(河出文庫,2021
)の中で、入試国語では人物の「気持ち」ばかりが問われており、これは文学的感性を問うているのではなく、感性の常識度を問うているにすぎないこと、だから答えを一つに決められるのだということを指摘している。

「指導要領に述べられている資質・能力」を求める問題が出題されているのならば、入試として極めて適切ではないかと思う方がいらっしゃるかもしれない。
だが、指導要領において中学卒業時に求められている、例えば「読むこと」の資質・能力には、読むことで「自分の考えを広げたり深めたりすること」や「自分の意見をもつこと」などの内容も含まれている。
しかし、こうした力が解答に求められている入試問題は、管見では見当たらないのである。
「考えの形成・共有」に当たるこれらの力こそ、むしろ今求められているものであり、「学習者中心」の授業における「主体的・対話的で深い学び」「個別最適な学び」によって育まれることが期待されているものなのにだ。

入試問題の中には、対話的な学習場面が想定されていたり、受験者のテクストへの考えを求めていたりするかのような問題も見受けられるが、それらは実はテクストを「正しく」読むことで選択肢の中から適切なものを導くことが可能な問題である。
求められているのは、選択肢に潜り込んでいる「誤り・引っ掛け」を見抜きつつ、テクストを一義的に「正しく」読む力なのである。
「読んで考える力」などでは決してない。
記述式問題であっても同様で、問いに対してテクストの中から適切な箇所を選び、指定の文字数に要約する力が求められているだけである。
そんなところで、「個性」を発揮したら「✕」になる。

いや、こうした力は、「主体的・対話的で深い学び」の過程で生徒同士が磨き合うことによって高まるのだ、また「個別最適な学び」によって一人一人の生徒のものになるのだと反論される方がいらっしゃるだろうか。

確かに、「常識度」を求められる問題においては、「主体的・対話的で深い学び」、特に「対話的な学び方」が貢献する側面をもつことは否めない。テクストの解釈という行為が、特定の社会的・文化的・歴史的文脈に埋め込まれていることは確かであり、多様な他者の読み方を比較検討することは、生徒の常識度を高めることにつながるだろう。

だが、入試問題に答えて「◯」を得るための最適な学習方法は、問題集を用いた受験勉強である。もし、「個別最適な学び」が効果を発揮するとしたら、それはタブレットを個々の生徒の実態に合わせた「問題」を解くという「学習塾の勉強方法」に用いた場合だろう。

かくして生徒にとっての学習の目的は受験で「◯」になる答え方を身に付けることになる。
そして強制的ではなく、その答え方を積極的に身に付けようとする学び方が、「主体的」で「学習者中心」であるという意味に変換される。

多くの受験生を客観的に一定の時間内で「選別」するためには限界があり、そうした入試問題にせざるを得ない。「学習者中心」「主体的・対話的で深い学び」「個別最適な学び」における生徒の表れは内申点で評価すると言う人もいるだろう。

だが、その内申点に、どれだけ授業中の生徒の学びの姿が反映しているだろうか。
内申点の中の割合を大きく占めているのは、定期テストの結果と、その結果の向上のために積極的に取り組む態度ではないのか。

私が最も危惧するのは、例えば「学習者中心」「主体的・対話的で深い学び」「個別最適な学び」といった文科省の言葉がタテマエとしてしか受け止められなくなることである。

いや、そうした状況はもう何十年も前から常態化している。
だから、「入試・受験が教育改革のボトルネック」と言われ続けてきたのだ。

児童・生徒、そして保護者の関心があるのは、結局、「受験」である。
それ以外の教育政策はタテマエであり、スローガンとしてしか見られていないだろう。
だから若者は政治不信に陥るのだと言ったら、過言だろうか。

教室がオーセンティックな学びの場となり、「主体的・対話的で深い学び」が共同体の常識度を高めるだけのものにならないようにするために、私たちはもっと受験・入試問題と向き合わなくてはならない。ずっと以前から、時は至っている。