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なぜ? 今、日記指導

なぜ日記を書かせるのか

過日まで、この「ヒント帳」で日記指導について説明してきた。

多忙な教師にとって、今、「日記指導」は「人気」がないのかもしれない。
その最も大きな理由は、子供の日記を読む時間のなさだろう。

確かに30冊前後の日記帳を読むのには時間がかかる。
しかもその日記帳に対して「赤」を入れる、つまり、添削をしたり、教師の言葉を書いたりするのは、「楽」な仕事ではない。

そこまでしなくても、国語の年間指導計画にちゃんと作文の時間が設けてあるので、作文指導はできる。
学校・教師によっては、「朝の学習」の時間を使って「作文ミニトレーニング」を継続的に実施しているという場合もあるだろう。

それなのに、なぜあえて日記を書かせるのか。

書くことを好きになってほしいから。
書くことによる表現力を育み、人とかかわる力を高めたいから。

保護者や子供たちに対してはそう語ってきた。
もちろん、これらも日記を書かせる大きな理由である。

しかし、それ以上に私が日記の意義として捉えていたことは、「その子を知る」ということだった。
この意図を、直接、保護者や子供に伝えることはしなかった。変に構えさせてしまうことで、子供の書くことに対する思いを阻害し、日記の文章を歪ませてしまうことを恐れたからである。
だが、「真」のねらいは、「その子を知る」ことにあった。

「その子を知る」とは?

「その子を知る」というと、日記を通してその子の生活の様子を知ることや、書くことにおける能力の実態を把握することを思うかもしれない。確かにそうした生活面や学習面における子ども理解の側面もあるが、私が知りたい肝心な点はそこではない。

私が知りたいのは、その子の「ものの見方や考え方」である。
もっと言うならば、「その子らしさ」であり、「その子ならではのよさ」である。

教師の好んで使うレトリックに、子供を「見る」のでなく「視る」ことが大切だ云々がある。
私たちは言葉で世界を切り取るので、確かに言葉を変えることで、教育に新たな光を当てることができる。
「視る」ことで、「新しい子供理解」の可能性も広がるだろう。
だが私の場合は、「見て」も「視て」も、「その子らしさ」や「その子のよさ」はそれほど把握できなかった。

そもそも人は外見ではわからない点が多い。
ある年に受け持った女子の場合、前年度の担任による記録には、「いつも不機嫌そうにしている」といった旨の記述があった。確かにその子供は、そう言いたくなる表情を普段していた。
だが、違っていた。
私はその子の日記を通して、紛争地域や開発途上国における子供たちの実態に心を痛めていることや、だからこそ修学旅行の自由行動でユニセフに行くことを強く願っていることを知った。
その子供の場合は、見た目の印象と内面はまったく異なっていた。

「みている」だけではわからない、場合によっては誤解してしまうかもしれない子供の姿が、私の場合は日記から「見えてくる」ことが多かったのである。

また、日記に対する私の言葉を通して、「語り合う」ことや「一緒に考え合う」ことができたように思えたときもあった。
<あなたのことを少しだけど知ることができたような気がして嬉しく思っている>というメッセージを、もちろん直接そんな言葉は使わなかったが、伝えることができているのではないかと感じたときもあった。
そして、そんな一人一人の子供の「姿」を学級通信で周りの子供たちに伝えることも並行して行った。

日記で子供が変わる?

「日記をその子の生きる場所にしたかった」などという傲慢な考えはまったくなかったが、普段の生活では気付くことができなかったその子の姿が、その文字から少しでも読み取れる「場所」になるように努力をしたつもりである。
(しかし、いきなりそんな日記を書ける子はほとんどいないので、以前お伝えした段階的な日記指導が私には必要だった。)

不遜な言い方になるが、日記によって、学級生活や人間関係が安定していた子が何人かいたように私は捉えている。
もちろん、日記以外の「場所」が適している子供、必要な子供もいる。
日記という一つの手段ですべての子を知ろうとか、何とかしようなどいうのは、論外である。

だが、少なくとも日記指導は、私には不可欠だった。

ぜひ日記指導をオススメしたいのもそうした理由からだ。

一度に30冊読むことが大変ならば、一日の6人ずつ日記を宿題に出すシステムにするとよい。一日6冊読むのは、それほど苦にはならないだろう。

トライする価値はある。