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日本人の時間意識による教育の可能性

なぜ「ゴッドファーザー」「スター・ウォーズ」シリーズは「つまらない」?

よく知られているアメリカ映画のシリーズ作品に、「ゴッドファーザー」と「スター・ウォーズ」がある。
両シリーズには次の二つの共通点があるように思う。
一つは、数世代に渡る家族の歴史の物語であること。
もう一つは、シリーズの最初に公開された作品は大変魅力的であったが、最終話に対しては凡作と感じる人が多いと推測される点である。

続編が制作されるに連れて面白さが減っていくことは、シリーズものの宿命のように言われがちだが、この2シリーズにおいては別の要因があるように思う。
それは、欧米人の時間に関する意識に起因していると考えている。

阿部謹也氏は、「時間意識と死生観-西欧の場合」(『時間と時―今日を豊かにするために―』,学会出版センター,2002)において、西欧の時間意識が歴史の変遷とともに、直線的なものに変化したことを述べている。
直線的な時間意識は、近代における自然科学の発展とも密接に繋がっており、「世界」を「原因」から「結果」に向かって一方向に流れていくものとして捉える見方である。西欧においては、「物語」もまた「始め-中-終わり」という直線的な展開が定型になる。

この西欧的な時間意識に基づく「物語」の構成に対して、次のやまだようこ氏の問いを対照させると、先の二つの映画の「つまらなさ」の理由がわかるように思う。

やまだようこ氏は、ナラティブ研究の立場から、クロノジカルな時間と異なる、逆行したり、回帰したり、循環したり、止まったりする多様な時間概念を提示している。そして、人は誰でも死に至るが、「人生は死によって完結・完成すると考えていいのか」と問うている(『やまだようこ著作集第5巻 ナラティブ研究 語りの共同生成』p.63, 新曜社,2021)。

「スター・ウォーズ」の映画シリーズそのものは、「エピソード4」におけるルークの騎士道的冒険譚で始まるのだが、三世代に渡る暗黒面と「フォース」との戦いという全体ストーリーに回収され、「フォース」、すなわち「理性」が勝利し、暗黒面の「死」によって完結する。途中、「父親殺し」の「罪」もエピソード化されるが、これもエリクソン的な自己の超克という直線的な「成長」と「発達」の物語の中に回収されて終わりを迎える。そもそも、人間や世界を暗黒面と「フォース」という二元論で捉えているという後味の悪さも残る。

また、貧しいイタリア移民がアメリカという国で生きていくための苦闘を現実的に描くことから始まった「ゴッドファーザー」シリーズも、瓦解する家族の物語として終末を直線的に迎える。最後、ギャング組織としての「ファミリー」は存続するが、私たちはその「ファミリー」の今後に、コルレオーネ家の「苦悩」や「闘争」の家族史を重ねて見ることはできない。その後のギャングファミリーの歩みは次の世代による別の物語になるであろうことが予測され、そこに、ビトー・コルレオーネが船上から自由の女神を仰ぎ見た地点に戻り重ねることは拒否されている。

どちらのシリーズも、エンドロールとともに私たちの「映画」というテクストを「読む」行為もは、そこで終わる。

私はそこに、「つまらなさ」「物足りなさ」を感じるのである。

なぜ「ファミリーヒストリー」は「おもしろい」?

さらに、両シリーズをNHK番組の「ファミリーヒストリー」と比較すると、時間意識と物語との関係がより鮮明になる。
「ファミリーヒストリー」もまた、家族の「物語」である。スタジオに出演した芸能・スポーツなど各界の著名人の先祖を遡り現在へとたどる。
「家族の物語」である点は同じだが、私は、こちらは「面白い」と感じてしまうのだ。

それはなぜか。
その理由は、フィクションかノンフィクションかの違いではない。西欧と日本の物語を語る時間概念の相違によるものだろう。

「ファミリーヒストリー」では、「現在」の位置から祖父母や父母などの「過去」へと時間が遡り、祖父母や父母の生きてきた場所や時間、すなわち「出来事」が、現在の視点から意味づけられて語られる。しかし、それだけではない。その意味づけ方は、時間を逆行するのみでなく祖父母や父母の位置から順行して現在を捉えようとするときもあれば、祖父母と父母の間を往還するときもある。それらによって、スタジオの「主人公」の「家族」の物語が幾重にも繋がり重なっていく。つまり、私たちはそうした「逆行したり、回帰したり、循環したり、止まったりする」時間テクストにより、重層的に「思い」や「出来事」がつながっているある家族の歴史の意味を読み取るのである。

先の阿部謹也氏は、上掲書で、西欧の直線的な時間意識に対して、日本人の時間意識は円環的であると述べている。
この時間意識の相違が、「作品」の作り方、すなわち「物語」の時間の語り方に現れているのではないかと私は思うのである。
そして、それが、「つまらなさ」と「おもしろさ」の分水嶺になっているのではないだろうか。

もちろん、時間の逆行や往還は正しくは円環的時間とは異なる。しかし私は、円環的時間を、ただ同じ軌道で正円を描き続けることでなく、ましてや螺旋的に発展していくことではなくて、過去、現在、未来が往還的でもある大小様々な円で繋がっている時間として捉えたい。

「ファミリーヒストリー」における語り方の時間をそのように捉えると、スタジオゲストの「家族」の「出来事」に自分を重ねる視聴者の割合が、少なくとも日本では「ゴッドファーザー」や「スター・ウォーズ」へのそれよりも多いのではないかとも思えてくる。

それは、視聴者の生育歴や境遇がスタジオゲストの「家族」と似通っているからということでは全くない。両映画シリーズの「家族・人物」が直線的な物語によって「閉じている」のに比べ、「ファミリーヒストリー」では、そのスタジオゲストの存在が過去と未来の家族史の時間上の様々な位置にあることを感じることから、自分も同じように家族史に位置づけることを行うのではないか。家族の過去の「出来事」を回想したり、想像したり、また未来を夢想したりして、今の自分を意味づける行為をスタジオゲストに重ねるのではないかと思う。

一言で言ってしまえば、「ファミリーヒストリー」の物語の描き方は日本人的であり、日本人視聴者に合っているのであり、それが「おもしろさ」につながっているということになるだろう。

ちなみに、NHK「ファミリーヒストリー」のHPによると、家族史としての映画「ゴッドファーザー」の存在が番組制作の動機の一つだったという。皮肉なものだ。出発点は同じなのに、西欧と日本の時間意識の違いが異なる結果を生み出しているようなのだ。

円環的時間意識によるオルタナティブ教育の可能性

さて、私は教育について考えたいのである。
「ゴッドファーザー」や「スター・ウォーズ」に比較して「ファミリーヒストリー」が作品として優れているといったことを言いたいのではない。
ここまでは、私が阿部謹也氏の論を知ることによって、二つの映画シリーズを「つまらない」と感じ「ファミリーヒストリー」を「面白い」と感じた自分の心性に合点がいったことを述べただけである。

私が言いたいのは、その円環的時間意識によるオルタナティブとしての教育の可能性である。

現在の日本の教育では、子供を「成長させる」ことが目的であるとして、それは疑われてもいない。
その背景には、「子供は成長していくもの」という直線的な成長観があるのではないか。
だが、その直線的な発達についての見方は、これまでの発達心理学を中心にして構成されてきた一つの概念に過ぎない。
そこに疑念を抱かないことによって生まれてくる問題もあるのではないか。

例えば、先に多様な時間のあり方を提示していたやまだようこ氏は、次のように述べている。

(有能さを獲得していくという直線的な成長モデルには、)「『成功-失敗』という評価がついてまわり、その枠にとらわれるかぎり、「優越感-劣等感」から解放されることは難しい。成功者ばかりがいる社会はありえない。選択肢が豊富に用意された少数の有能な成功者や熟達者を、多数の失敗者や劣等者が支える社会であってはならないだろう。

『やまだようこ著作集7巻 人生心理学 生涯発達のモデル』p.65, 新曜社,2021)p.65

私たち日本人は、今、昨日よりも今日、今日よりも明日とどこまでも成長していくことを追い求めて生きているのではないか。
そして、その成長モデルをそのまま教育に当てはめているのが現状ではないのか。
確かに「できないこと」が「できる」ようになることに価値は認められる。
だが、子供に直線的な成長を求め続けていくことは、果たして「正しい」のだろうか。

本来に日本人が円環的時間を生きてきた証拠は、今も至るところで見ることができる。

例えば、毎年、子供の誕生日を祝うのは、成長を喜ぶ意味もあろうが、「この一年間を生きてきた」という、「生」そのものの有り難さを祝っているのではないか。「怪我をしたり病気になったりもしたけれど、無事今年も誕生日を迎えることができた」と、この一年間も生きてまた誕生日を迎えることができたことを祝うのではないのだろうか。

また私たちは、年々の自然の変化に対して、「今年の桜は格別美しいな」とか、「今年の梅雨は、昨年のように川が決壊することがないように」と言う。毎年の地域の祭りを楽しみにしたり、「今年は早めに大掃除に取り掛かろう」と思ったりするなど、行事や生活を節のように心に留めたりもする。巡る季節や生活の移ろいとともに暮らしているのである。

まさに今、本年度の教育活動が始まろうとしている。
この円環的時間意識で考えると、それはどのようなものになるのであろうか。

「さあ、小学校一年生だよ。こども園から一歩進もう」とか、「学校のリーダーらしい六年生になろう」などと、春を迎えた子供たちに「目標」をもたせることの大切な面もあるのかもしれない。
しかし、「また巡ってきた今年の春は、新一年生はどんな笑顔を見せるかな」「今年の六年生のどんな学習に瞳を輝かせるかな」「最後の運動会では昨年とは違うどんな姿を見せるのかな」などと、「今年の子供の生」の姿に思いを寄せるような「春」の捉え方があってもいいのではないか。

そうした円環的な時間意識に基づく教育のあり方を構想することは、オルタナティブな教育への契機にならないだろうか。

過去のその子と比べたり、未来のその子へと繋いだりするのも、目の前のその子が「また巡ってきた今」をどのように意味づけるのかを理解するためである。
子供を「直線的に成長していく存在」として育もうとするのではなくて、「この『今』を豊かなものにしようとして生きている存在」として見る、そんな時間意識で子供に向かうことはできないだろうか。

また巡ってきた今年を、今日を、今この瞬間を、笑顔だったり、泣き顔だったりして生きる子供とともに生きようとする教師になるヒントが、円環的時間意識に基づく教育に見いだせないだろうか。


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