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「子ども理解」を見直そう

「子ども理解」は「正しかった」か?

学校現場もまた新年度がスタートし、約一か月が経過しました。
大型連休を迎え、ほっと一息というところでしょうか。
新しく出会った子供たちとのこの一か月を振り返り、改めて子供を見つめ直している時かもしれません。

ではここまでの間に理解した子供の姿、それは「正しい」でしょうか。
その「子ども理解」は、実は「まちがい」ではありませんか。

さて、「まちがい」と今言いましたが、それは、子供の行動や発言などの記録や記憶のミスであるとか、行動や発言からの捉え違いとかを指しているのではありません。
また、先入観による思い込みを指摘したいのでもありません

いや、その前に、そもそも子供の「正しい」理解などありえないと思われるかもしれません。確かに、「子ども理解」は日々行うものであり、それにつれて理解した子供の「姿」も、日々更新していくものでしょう。

しかし、ここで私が述べている「まちがい」や「正しくない」とは、これらのことではありません。
私たちはついつい目の前の子供を「実体」として捉えた「子ども理解」をしていないだろうか、ということなのです。

「子ども理解」は関係概念

教師は子供を理解するのに、特権的な位置に立つことはできません。
子供が実験室に存在していて、教師はガラス一枚隔てたこちら側からその様子を観察しているのではないのです。

実際、教師ならば恐らく誰でも、日頃から子供と自分との関係を相互性で捉えていると思います。
「教師が<変われ>ば、子供も<変わる>」
「教師が子供の見方を変えることで、子供の異なった面が見えてくる」
などの考え方は、どの教師にとっても常識でしょう。

にもかかわらず、教師はいざ子供を理解しようとすると、実体として「子供」を捉えてしまいます。
もちろん、生身の子供はそこに存在しています。
しかし、その生身の子供の「姿」として教師が理解したその「子供」は、あくまでその教師の目が捉えた関係概念に過ぎません。実体ではないのです。
つまり思い切って言えば、「子ども理解」とは教師が目の前のある生身の子供の言動などを基に、関係概念としてのある「子供」を構成することだ、ということになるのです。

教師の子どもを捉える見方はどこから?

教師の見方が「子供」をつくり出しているわけですから、まさに、「教師が子供の見方を変えることで、子供の異なった面が見えてくる」ことになります。
したがって教師が見方を変えることにより、理論的には子供の一つの表れから多様な解釈を導くことができるのですから、よりその子に「迫る」「理解」や豊かな「子ども理解」が可能になるはずです。
ところが、実際の場において、教師が子供を捉える見方を変えることは容易ではありません。

私は以前この「リフレク帳164」において、ガーゲン(2004)が社会構成主義の立場から、教師が子供に「上手な文章を書く」ことを当たり前のように求めていることに対して、そうした「標準的な書き方」の指導は上司に対して明瞭かつ効率的に報告する従属的な立場の人間を育てることにつながるという見方ができると指摘していることを紹介しました(東村知子訳 『あなたへの社会構成主義』ナカニシヤ出版)。

「上手な文章を書く」指導をすることは子供にとって「よい」ことだという考え方は疑いのないことのように思われます。しかし見方を変えれば、それは「社会」にとって都合のよい子供を育てる方法であると言えるのです。

けれども、私達教師は、なかなかこのようには見方や考え方を変えることができません。
教師は教育行為において、自らが児童・生徒だった時の経験や教師としての実践を通して形成してきた見方や考え方に強く影響を受けています。そして何よりも、そうした見方や考え方をつくり上げてきた社会や制度の網の目に絡み取られ、規定されてしまっています。

省察的に子供を捉える

それでも私達教師が、「子ども理解」における自らの子供の捉え方を相対化し、自覚的な「子ども理解」を望むならば、どのように省察的に「子ども理解」を進めたらよいのでしょうか。

管見では、「子ども理解」における心構えといったものや具体的な観察の方法などは提示されているものの、それは実体概念として「子ども理解」を扱っているものがほとんどであり、関係概念として考察を加えて生成した理論モデルがいまだ見当たらないのが現状であると思います。
また、反省的実践家としての教師が求められて久しいのですが、こちらもそのための方法を具体的に導くための理論モデルが生成されていないようです。

そこで今は、まず意識的に「子ども理解」をすることが必要だと考えます。例えば自分の捉え方を別の角度から見るとどうなるのか、子供の立場から考えるどのような捉え方だといえるのか、などと自分の見方を開いていくのです。
また、複数の人間、例えば教師集団で子供の「事実」を捉え合ったり、地域や保護者の子供への見方に耳を傾けたりすることは、極めて有効だと思います。
その意味において、私は、「チーム担任制」の導入は効果を上げるのではないかと考えています。