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競争を否定する運動会は子供に何を残すか

サッカーの国際試合において,、ある国の選手が極めて悪質な行為をしている光景をテレビで視聴した。
意図的に危険なプレーをしたり、試合後に審判を恫喝したりしている姿から、スポーツ競技において勝利にしか価値を見いだせない知識の浅さや未熟な人間性が透けて見えていたように思う。
怒りがコントロールできなかったり、ウォーターボーイに拳を振り上げてみせたりする態度が大変幼稚に感じられたのは、それが原因だろう。

こういう様子を見た日本人、特に教育関係者はどう考えるだろうか。

サッカーの話をしているのではない。
運動会、ひいては体育授業のことを考えたいのである。

近年、「競争をさせない」運動会を行う学校がある。
例えば、徒競走を実施しないとか、実施したとしても順位をつけない。
徒競走だけでなく、個人競技や団体競技を実施しない。
さらに、学校全体として集団(色)対抗の形式にしないなどの方法での運動会である。

こうした運動会を進めている教師や関係者の視点からすると、某国の反スポーツマン的な態度は、まさに「競争をさせた」ことが原因であるということになるのだろう。

その考え方は妥当だろうか。

答えは否であろう。

なぜなら、某国の選手に欠如していた、例えば対戦相手の選手・チームをリスペクトしたり、大会の運営を支えている関係者に感謝の気持ちをもったりする考え方や態度は、競い合うからこそ学ぶことができるものだからである。

また、競い合うことによって、選手・子供などの「学び手」は、記録の伸びを比較したり、技能の質を評価したりする競技の捉え方も学ぶことができる。
試合に至るまでの努力や仲間との協力、そして試合中のフェアな態度など精神的な面によって自他を価値付ける評価の視点も得ることもできる。

つまり、競争を「勝敗」という単一な見方によって捉えるのではなく、多面的・多角的にその意義を認識することができるようになるのである。

もちろん、そのためには、「競技」を教材として媒介させた意図的・計画的な指導が必要である。

そう考えたならば、「競争が子供をスポイルする」という主張の背景には、子供をただ競わせるだけの指導しかしていないという事実があるのではないかと思えてくる。

さらに、「競争をさせない」、つまり「競争することに価値を認めない」という考え方や指導には、看過できない危険性があると考える。
子供たちが将来生きる社会には、競争が存在するからというのではない。
今、その子供の生きている「子供社会」が既に「競争」を内包しているからである。

ペーパーテストの結果や運動能力の優劣、図工作品の評価等、「表」の学校文化規準から、学級内でのキャラクター、人気、容姿や服装、家庭環境などの「裏」の規準に至るまで、子供相互に常にあらゆる観点によって大なり小なり比較し合い優劣を競い合っているのが現実だ。

中には見過ごすべきではない序列化もあるだろう。

しかし最も問題なのは、そうした「子供競争社会」の事実を教師も子供も認知していながら、あたかも理想郷に住んでいるかのような、「皆で手を繋いでゴールしましょう」という指導をすることではないだろうか。
それは、子供に都合の悪い事実は覆い隠すこと、「嘘」をつくことを奨励する教育となり、陰湿で不健全な競い合いを助長させることに繋がるはずである。

むしろ、「競争」の意義を多面的・多角的に捉えることのできる力を育むことが、「子供社会」に発生し続ける「競争」に適切な判断や行動を通して対応していく力を養うことになるであろう。

もちろん、全ての教育活動を競争によって行うことが誤りであることは言うまでもない。
競争しないことで学べる内容もあれば、競争概念とは全く範疇の異なる学習内容も存在する。
また、競争させてはいけないものもある。その典型が「忘れ物」に関する競争であろう。かつて子供の忘れ物の数を表したグラフを教室に掲示するという愚かな教育方法が受け継がれていた時代があったのである。

一方、競争を否定するわけではなく、運動会の目的そのものを変えて、全く競争しない運動会、例えば日常の体育学習の発表会のような方式による新たな「運動会」を創出するアイデアは有り得るだろう。それは教育方法の選択肢の一つだ。
東京や京都を目的地としていた修学旅行を海や山での自然体験に変更することと同様である。

見直すべきは、競争の全てを「悪」と捉える極端で狭量な認識であろう。
競争によって学べる内容があることに目を向けるなど、子供の健全な成長を願うために、何を残し、何を変えるべきか、熟慮をする必要がある。