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「令和の日本型学校教育」提言の問題点を乗り越えて


1 「令和の日本型学校教育」提言の有する問題

令和2(平成32)(2020)年4月から、現行の学習指導要領が小学校で全面実施された。

その4月から一年も満たない令和3年1月26日、中央教育審議会から、「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~(答申)」(以下、「令和3年答申」)が、「目指すべき新しい時代の学校教育の姿」として提言される。
 
この矢継ぎ早の教育施策の提示の仕方とその内容によって、教育現場では大きな問題が発生していると考える。
それは、一人一人の子供の確かな資質・能力が育っていかないということである。
 
以下、「令和3年答申」に加え、「学習指導要領の趣旨の実現に向けた個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実に関する参考資料(令和3年3月版)」も踏まえながら、その問題の理由・原因を述べる。
 

2 問題の原因(1) 急ぎすぎた提言

第一の原因は、現場での「新」学習指導要領に対する理解が漸く進み、「主体的・対話的で深い学び」の授業が形を整え始めていた矢先に、「令和3年答申」によってヴァージョン・アップした学びの姿を要求してしまったことである。
つまり、急ぎすぎたのである。
 
そのため、令和3年答申の内容は現場に広まらなかった。
かろうじて「伝わった」場合も、その理解は表面的なものに留まっていた。
 
私が勤務していた学校などでは、令和3年度の1年間、職員間で「令和の日本型学校教育」という言葉が交わされた記憶はない。
 
その一方で、GIGAスクール構想の下、ほぼ同時期に一人一台タブレット端末が配備された。
それにより、(これこそが「急いだ本当の理由」なのだと推測されるのだが、だからこそ、)「令和の日本型学校教育」とは、「つまり、授業でタブレットを使うことだ」という浅薄な解釈が教師の間で行われた。
 
実際のところ、令和3年答申では、ICTの積極的活用が呼び掛けられ、その効果で「令和の日本型学校教育」を実現させる旨が記載されているのだから、その流れは、当然だったかもしれない。
「タブレットありき」の発想だったのである。
 
そのため、「主体的・対話的で深い学び」の授業と「令和の日本型学校教育」の関連や、そもそもの「令和の日本型学校教育」についての理解があやふやになり、「ともかくタブレットを使う」授業が何となく目指されることになった。
そして、「タブレットさえ使っていればいい」という意識と、「でも、使い方が分からないので使えない」という困惑が現場に広がった。
また、当然、教師の仕事量は増加した。
 
「新しい授業」への不十分な理解と突然のタブレット導入の結果として、教師と子供による「主体的・対話的で深い学び」の追求が薄まることとなった。

これでは、一人一人の子供に確かな資質・能力を育む授業を創造できるわけがない。
 
 

3 問題の原因(2) 内包する矛盾

続けて、資質・能力を育む授業を阻む第二の原因を述べる。
それは、「主体的・対話的で深い学び」と「令和の日本型学校教育」を並べた時、学習観・学力観、方法論などにおいて、そこに三つの矛盾が存在することである。
 
一つめの矛盾は、「個別最適な学び」の具体的な方策である「指導の個別化」と「学習の個性化」が、対立する学習概念であるということだ。
端的に言えば、「指導の個別化」は能力主義であり、「学習の個性化」は、能力よりも個々の子供の興味や関心を優先する。
どちらも、「個に応じた指導」という点では一致しているが、その内実は大きく異なるのである。
 
二つめは、「指導の個別化」と「主体的・対話的で深い学び」の間の矛盾である。
「主体的・対話的で深い学び」における「対話的な学び」が拠って立つ学習理論は、「学習は社会的に構成される」という考え方である。それに対して、「指導の個別化」、とりわけ、「令和の日本型学校教育」で求めているタブレットを用いた個別の指導方法は、個人主義の考え方なのである。
子供は他者との対話を通して機能する知識が構成できるとする「社会的構成主義」に対して、個人主義の学習方法は、根本的に相容れない。
 
そして三つめの矛盾は、「学習の個性化」と「主体的・対話的で深い学び」との間にある。
「主体的・対話的で深い学び」の具現化において、カリキュラム・マネジメントは、必須であった。
資質・能力の育成にあっては、各教科等の枠を超えて知識を繋げることでそれを有用なものにすることが可能になる。
だが、「学習の個性化」を追求しようとしたならば、その行き着くところは子供の人数分のカリキュラムである。
もしそれを実現しようとしたら、教師は途方に暮れてしまうだろう。
 
なお、令和3年答申にも、カリキュラム・マネジメントの重要性は述べられているが、その力点は、「個別最適な学び」の実現にシフトしているように読める。
 
 
以上、「主体的・対話的で深い学び」と「令和の日本型学校教育」には、三つの矛盾があることを指摘した。
だが、詳しく見ると、その矛盾はさらに広がる。
「令和の日本型学校教育」における今一つの鍵概念である「協働的な学び」とは、「主体的・対話的で深い学び」、特に「対話的な学び」とほぼ同義であると考えられる。
文科省は、両者の違いを明確に示していないが、ほぼ同じものとして読み取れる。
 
したがって、「指導の個別化」と「主体的・対話的で深い学び」との矛盾は、「指導の個別化」と「協働的な学び」との矛盾でもあり、「学習の個性化」と「主体的・対話的で深い学び」との矛盾は、「学習の個性化」と「協働的な学び」との矛盾でもあるのだ。
 

4 矛盾がもたらす一層の問題

しかしながら、これだけの矛盾を抱えているにもかかわらず、「主体的・対話的で深い学び」と「令和の日本型学校教育」が妙にしっくりしていて、両者を統合的に推し進めていくことに違和感がないという教師が多いのかもしれない。
その理由は、現行学習指導要領においても、既に「個に応じた指導」の必要性が求められているからである。
さらに言えば、「個に応じた指導」、すなわち「指導の個別化」と「学習の個性化」は、これまでの日本の教育においてずっと大切にされてきた指導概念だからである。
 
その意味では、文科省は「折衷主義」であり、見方を変えれば、「現場主義」である。
 
これまで現場教師は、異なり対立する場合さえある学習観・学力観、方法論を、場に応じ子供に合わせてコラージュするようにして授業を形成してきたのである。
 
しかし、そのやり方には負の要素があったからこそ、今回の学習指導要領の改訂では、「何を」「どのように」まで踏み込んだのではなかったのか。
 
それが、既に述べているはずの「個に応じた指導」を衣装を替えて提示したために、「折衷主義」「現場主義」がより強調されることで曖昧化されてしまい、負の要素が逆に増幅される危惧が高まっていると考えられる。
 
ここで、誤解のないように、明言しておく。
私も、「個に応じた指導」は、絶対に必要であると考えている。
どの子にも、確かな資質・能力を育むためには、「個に応じた指導」は不可欠であるからだ。
 
だが、この多くの矛盾を内包したままの状態で教師が授業を進めていく限り、子供に確かな力は育めないはずだ。
拠って立つ学習観・学力観、方法論などが曖昧なままの実践は、その場や子供に引っ張られたり、それぞれの学習過程、例えば、個別化の学習と対話的な学びとの間に断絶を生んだりするからだ。
 
また、第一の原因のところでも指摘したように、安易なタブレット依存の授業によって、「個別最適な学び」が学習の孤立化につながることも合わせて危惧される。
例えば、「指導の個別化」の実際が、大手の進学塾が行っているようなタブレットを用いた繰り返し学習だというなら、文科省は、それで本当に資質・能力が育つと思っているのだろうか。
 

5 子供に確かな資質・能力を育む

ここまで、令和3年答申が、引き起こしている問題とその原因を述べてきた。
 
では、この性急なタブレット導入と矛盾を内包した令和3年答申の提言をどのように受け止めたならば、一人一人の子供に確かな資質・能力を育むことができるだろうか。
 
それは、「何を」「どのように」して子供たちの学習を成り立たせるのか、一人一人の教師が自分の授業行為の「根拠」を自覚することだと考える。
 
「矛盾」とは、振り子の揺れの両端に例えられよう。
振動している限りは、曖昧な実践にしかならない。
したがって、振り子の揺れを止めること、つまり、現行学習指導要領を目指すのであれば、その考え方に沿って子供を育もうとするしかない。
すなわち、当面は「主体的・対話的で深い学び」の実現によって資質・能力を育むことに注力するのである。
 
「令和の日本型学校教育」としての「指導の個別化」と「学習の個性化」は、あくまでもその際の<配慮事項>であり、<指導方法の一つ>として捉える。
「主体的・対話的で深い学び」を実現するために、「指導の個別化」と「学習の個性化」を用いるのである。
そう考えることで、目指す授業像が明確になり、「指導の個別化」と「学習の個性化」が形式的になったり行き過ぎたりすることを防止できるであろう。
 
タブレットも同様である。
目指すのは、「主体的・対話的で深い学び」であり、タブレットは、そのための道具でしかない。
ノートや鉛筆と同類の文房具であり、タブレットを使いこなす力が、21世紀スキルなどでは全くないことを確認するべきだ。
なおかつ、タブレット使用に伴うリスクが十分に明らかにされていないことを忘れず、慎重に使うべきだろう。
子供や教師がタブレットを「上手に」使用している授業が「よい授業」ではない。煽られてはいけない。
 
教育現場は「打ち出の小槌」ではない。
次々と求められる教育施策に振り回されてはいけない。
令和3年答申の有する問題点・矛盾を理解した上で足元を固め、「主体的・対話的で深い学び」を目指したい。
 
それが、子供たちにルビコン川を渡らせてしまった教師の責務である。