言葉を越える

2020年11月17日
石井大輔


この「言葉を越える」とは僕自身の理念だ。
それは、僕の行動指針であり生き様、いわば軸であり核となる部分だ。
僕は、この「言葉を越える」を体現するために生きていく。

僕は、綺麗事が好きだ。
辞書で「綺麗事」と調べると、

① 手ぎわよく美しく仕上げること。また、よごさないできれいにすますこと。
② 現実を無視して、表面だけを取り繕うこと。体裁を繕うこと。また、体裁ばかりで現実味のない事柄。
③ 手などをよごさないですむ、楽な仕事。

とある。
僕の思う綺麗事は②に近く、理想を語っているものや聞こえのいい言葉だ。

僕は綺麗事に救われてきた。
「やりたいことで生きていく」「挑戦しよう」「自由に生きよう」「自己満に生きよう」「努力は必ず報われる」「愛は地球を救う」などなど、
世の中への生きづらさを覚えるようになってから、この言葉たちに背中を押してもらってきた。
時代の流れなのかもしれないが、ユーチューバーと言われる人たちをはじめとする、いわゆるインフルエンサーが言っている、こんな言葉たちに希望をもらってきた。

しかし、世の中は綺麗事では救えないこともあるらしい。
というか、むしろそっちの方が多いらしい。

2020年9月17日、友が自ら空へと旅立った。
詳しくはここでは書かないが、絶望した。
この世界を憎んだ。

この世の中は、自ら死を選択する人があまりにも多すぎる。
"生きる"ってこんなにも素晴らしいのに。
生きてさえいればどうにでもなるのに。
なぜだ?
死んだ彼ら彼女らは、おそらく世の綺麗事はただの戯言だとわかっていたのだろう。
だから、この世界に失望して、生きたくなくなったのだろう。

そもそも人は何のために生きるのだろう。
親のため?自分のため?愛するパートナーのため?子供のため?
僕は、生きる意味なんてのは正直ないと思っている。
いや違う。
死にゆくために生きているのだと思う。
残念ながら今の技術では不老不死の身体は手に入れられない。
母のお腹から顔を出した瞬間に、100%死ぬことだけは決まっているのだ。
そして、死んだ後に他の誰かが、“生きていた意味”を見つけてくれるのだ。
言い換えると、何かを残すために生きるとも言えるかもしれない。
なんともややこしくなってしまったが、まとめると「人は死にゆくために生きており、生きること自体に意味なんてものはないが、死んだ後に“生きていた意味”が見いだされる」だ。
だから、僕は人生とは死ぬまでの暇つぶしだと思っている。
せっかくなら最高の暇つぶしにしたい。

でもそんな暇つぶしにさえも嫌気がさしてしまうくらい、この世の中はクソったれなのだ。
悔しいが。

この暇つぶしにおける僕の使命として、死んだ友達から与えられたものがある。
「私と同じような人間を一人でも減らしてくれ」と。
与えられたと書いたが、間違いだ。
完全に僕のエゴだ。
しかし、この使命と果たすことができたなら、彼女が“生きていた意味”があるはずだ。
後に雲の上で再会を果たした際には、笑ってくれるだろうか。

では綺麗事でも救えない世の中をどうやって救うのか。
それは、言葉を超越するのだ。

思えば、僕が憧れた人々は「お前のため」なんて言わなかった。
でも、僕は言葉ではないものからそれを感じた。
今までしてきた選択も、表面上ではないもので判断してきたと思う。
もちろん、その人らは綺麗事も言っていたが、それに説得力があった。
例えば、「世の中カネじゃない」と言う2人がいたとしよう。
Aは全く働くこともせずに親に金をせびり、「カネより大事なものがある」と言っている。
Bは様々な挑戦をして失敗して紆余曲折あった末に「おカネより大事なものがある」と言っている。
放っている言葉は同じだが、僕はBが好きだし、言葉以上のものを感じると思う。

これは、例えにしか過ぎないが、何が言いたいかというと、綺麗事の裏にストーリーがあるかということだ。
何もやってない奴が綺麗事を言っても、ただの聞こえのいい言葉・戯言で終わってしまう。
それでは、救えない。

この世の中は様々なものが絡み合い複雑で曖昧なものだ。
生きることも、一番難しくて一番面白い、なんとも曖昧だ。
そんな世界で、何十億もの人が日々生きている。
みんな凄すぎる。
さっき、生きるって素晴らしいと書いたが訂正する。
素晴らしいと思えるのは、ほんのごく僅かだ。
星が消えて無くなる、一瞬の輝きのように。
ほとんどは面倒くさい。
何も考えずに生きれたらどれだけ楽か。
しかし、この地球という星に人の心をもって生まれた以上、この社会という枠組みの中で生きていく以上、それは無理だ。
生きるとか死ぬとか、そんな単純な話では語れない。
人はこの答えのない曖昧なものに、美しさを感じるのだろう。
実に面倒くさい生き物だ。
しかし、この曖昧な美しさが故に、客観的ではない目には見えない何かで苦しむ人がいる。

話を戻すと、最初にも書いたように僕は、
綺麗事が好きだ。
人が好きだ。言葉が好きだ。
だが、言葉でなんとかなるほど単純な世界ではないのも事実だ。
だからこそ、
好きだからこそ、
「言葉を越える」
これを体現していく。

生きていくしかない。

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