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進撃する巨象、あるいは怪獣王ゴジラの奉呈

 ゴジラがマサチューセッツ州ボストンで咆哮をあげるのと同時刻、タイ王国ナコーンサワン県の巨象の群れが一斉にボストンへ向かって進撃をはじめた。
 自身らも怪獣の一種であると主張する彼らは、キング・オブ・モンスターたるゴジラにその旨を陳情するためボストンへと向かったのだ。
 巨象の群れは進路上の建造物や作物を無慈悲に破壊しながら向かったが、ギドラを発端とした世界的な怪獣の混乱の後始末に手一杯でそれが鎮圧されることはなかった。
 その結果は、自らも怪獣であると主張する巨象らにとっては不満が残るものとなった。だがそれによって、彼らはバンコク港にある大型タンカー船を制圧することに成功した。
 もっとも、操船技術を持たない彼らはそこで立ち往生することになった。
 同時刻、タイ政府はある一人の男を洋上でデッドロック状態にあるタンカー船へ差し向けた。
 男の名はパンナー・イーラム。古代の戦士の末裔であり、現在は王国へ献上する象を育てる守り人であった。
 怪獣騒動の後始末に追われる政府にとって巨象の鎮圧に軍隊を差し向ける余裕はなく、全てを古代の戦闘術を持ち、象と心を通わせることのできるパンナー・イーラムに一任した。
 パンナー・イーラムは生まれた頃から象に囲まれて過ごしてきた。守り人の一族である彼は、父に古代の戦闘術と象への接し方を教わった。この二つの教えには共通点があった。それはリスペクトであった。歴史へのリスペクト、自然へのリスペクト、他者へのリスペクト、そして象へのリスペクト。
 リスペクト無きものに先はない。それは実際真理であると、パンナー・イーラムは幼心にそう思った。
 それが一変したのは2014年。ムートー事件である。
 これは一般には知られていない事柄だが、オアフ島で暴れるムートーを追ったゴジラはタイ王国を横断したとされている。
 その進路上には、パンナー・イーラムの村もあった。
 無慈悲に踏み荒らされ、木や家屋の下敷きになった象の姿を見たパンナー・イーラムは、そこにリスペクトがあるとは思えなかった。
 だがゴジラは、怪獣どもは、今もこうしてのうのうと生きている。
 以来、家を飛び出したパンナー・イーラムはバンコクで借金取りとして太古の戦闘術を振るう日々を過ごしていた。力任せにして金を踏み取る行為は、他者へのリスペクトから最もかけ離れた行為であり、それはゴジラに蹂躙されたあの日の自分を慰める行為でもあった。
 来る2019年。タイ政府から呼び出されたパンナー・イーラムは再び守り人として戻ってほしいと顔馴染みの高官から依頼される。
 だがパンナー・イーラムはも再び象と関わるつもりはなかった。また、他者にこれ以上人生を振り回されるのも御免被りたかった。
 高額の金を提示されてもパンナー・イーラムの考えは変わらなかった。
 その後帰路につき、バンコクの町から夕陽を見上げた時、考えが変わった。
 なぜ彼らは自分に象の鎮圧を依頼したのだろうか? 怪獣に手一杯だからか? 政府の余力がないから? それもある。だが、本質は「どうでもいい」だ。タンカー船で立ち往生する象も、自分と同じだと思った。
 パンナー・イーラムは高官に連絡を入れると、ただ一言「やる」と告げた。そうしてパンナー・イーラムは象が立ち往生するタンカー船へ向かって走り出したのだ。

 タンカー船では大量の巨象が群れを成していた。船上の余計なものは彼らによって海へ沈められ、今は餓死しないよう政府が手配した餌の山に埋もれていた。
 パンナー・イーラムがタンカー船に降り立つと、象は自然と道を開けた。
 その向こうに群れのボスがいる。甲板の先にいる象を見たパンナー・イーラムは、驚きに目を見開いた。その象に見覚えがあった。
「テルコ……」
 他でもない、群れのボスは4年前、ゴジラによって蹂躙された村の象の生き残りであった。
 彼女の名前はテルコ。パンナー・イーラムの父プラッチャヤー・イーラムが昔付き合っていた日本人観光客の名前からとったそうだ。母のいない彼にとってテルコは大切な家族であり、友人だった。
 ゴジラの蹂躙によってとっくに死んだものだと思っていた。だがこうして生き延びて、強大な群れの頂点に立っているとは思いもしなかった。
 パンナー・イーラムが近づくと、テルコは差し出すように首を垂れた。パンナー・イーラムは彼女の額に触れる。その時、自分がなぜ象と関わるのを避けていたのを思い出した。
 父曰く、象は己を映す鏡なのだそうだ。象の持つ深い琥珀色の瞳は、真実を映し出すのだと。
 テルコの瞳は、怒りに燃えていた。そして己の瞳も怒りに燃えていた。
 そうだ、自分は怒っていたのだと、パンナー・イーラムはようやく思い至った。パンナー・イーラムは己のやるべきことを瞬時に理解した。
 気がつくと、パンナー・イーラムは守り人の証を握っていた。二度と見ることのないと思っていたそれを。パンナー・イーラムは、腕に守り人の証を縛り付ける。

 30分後、政府の高官の元へ一本の電話が入る。パンナー・イーラムを監視するよう指令を下した部下からだ。解決したにしては随分早い。電話に出ると部下の慌てた声が聞こえた。報告を聞き終えた高官は、80年の歴史を持つペルシャ絨毯にタバコの焦げ跡を残した。

 巨象の群れを乗せたタンカー船は静かに動き出した。目標はボストン。怪獣王たるゴジラのいる街に向かって、タンカー船は大きな汽笛をあげた。

 ボストン市民のアンドリュー・アダムズはボストンより南に位置するミルトンの町を放浪していた。家は怪獣たちのリングとなった。ボストンは消し飛んだ。もはや帰る場所はない。ボストン市民のための避難キャンプもあるが、そこにいたとして、なにがあるというのか。家も仕事も家族も友人もボストンにあった。今はなにもない。こうして寝泊りしているキャンプカーだって、本当は盗難車だ。
 マカロニ&チーズの缶詰を開けると、景気のいい音ともに胃の重たくなるようなチーズの香りが車内に蔓延する。フォークを使って缶詰から直接食べる。冷え切って美味しくはないが、腹は満たされた。
 備え付けのラジオからボストンの情報が流れてくる。アンドリューは小さく息を吐いてラジオの電源を落とす。
 ゴジラに恨みはない。ギドラにも。あれらはもう災害のようなものだ。嵐に怒る者がいるだろうか。地震に復讐を誓う者がいるだろうか。怪獣によって大切なものを失えば、その感情の行先は自分の内側にしかない。アンドリューも結局、そうするしかなかった。
 車の窓がノックされる。
 ドアを開けると、そこには警官が二人いた。
「やあ、どうも」
 アンドリューは会釈すると、二人の警官のうち太ったほうが歯を剥いて笑顔を浮かべた。
「通報があった。近所の人からだ」
「俺はいるだけだ」
「ああ、だが」
 太った警官は肩をすくめる。
「通報は通報だ」
「そうか」
 もう一方の警官はただ静かにガムを噛んでいる。焦点の合わない目で、あらぬ方向を向いている。
「よかったらマカロニチーズ食べるか」
「おっと買収するつもりか? 悪党だな」
 太った警官がガムを噛んでる警官と目を見合わせる。
「だが俺は屈しないぞ。家で女房がまっている。息子も。パパは正義の警官だって」
「そうか? そうは見えない。揺らいでいるぞ。マカロニチーズだ。なあ、強情になるのは止せ。警察の仕事だってそんな金払いよくないんだろ」
 太った警官はふっと、破顔した。
「いただくよ」
 缶詰から紙皿にわけてよこす。警官はそれを口にする。
「うん。うまいな。缶詰か?」
「ああ」
「どうりで。覚えのある味だ。他のやつにはわからない。だが俺は警官だからな」
 太った警官はマカロニチーズを食べ終えると、紙皿をアンドリューに渡す。
「美味かったよ。ありがとうな。だが、警官として一つアドバイスしてやる」
 太った警官はアンドリューの肩に手を置く。
「マカロニチーズは温めて食べろ」
「ご忠告どうも。じゃあ車を移動させるよ」
「ああ、南の方にいけ。ジョーってやつが経営しているダイナーなら駐車場を貸してくれる」
「わかった。どうもありがとう」
 アンドリューは車を移動させる。南のダイナーに向かうことも考えたが、北へ向かう。ボストンに近いほうだ。あの街にはもうなにもない。だが引力のように、いつも引き寄せられる。
 過去を失った男にできることは、もはや足踏みしかないということだ。

 地上最大の決戦を迎えたボストンは、今や王の間のような静謐さに包まれていた。その瓦礫の山の上で、ゴジラは眠る。もはやボストンは人の住む町ではない。怪獣の玉座として、何者も寄せ付けぬ神聖さを帯びていた。
 更地になったボストンは、小高い丘から簡単に見下ろすことができた。
 アンドリューは目を細める。あの決戦のあと、どういうわけかゴジラはボストンに居座った。怪我による休息か。それとも縄張りであることの主張か。とにかく、ボストンの街はゴジラが占拠しており、誰もこの街に帰ることができない。もっとも、帰ったところでなにかが残っているわけではない。
 アンドリューは足元にある石を拾うと、ゴジラに向かって放り投げた。空の元、放物線を描いた石はゴジラへ届くこともなく、へろへろと瓦礫の山に消えた。
 アンドリューも届くとは思っていなかった。ただの戯れ。冗談である。だが、アンドリューはにこりともしない。ただひたすら、深みを帯びた表情で石の向かった先を見つめている。
 アンドリューは丘の上で屈む。手頃な石を見つけ、それを拾おうとする。だが、石に向かって伸びた手がピタリと止まった。
 アンドリューは眉をひそめる。
 石が、小刻みに揺れていた。
 その石だけではない。丘全体が。否、ボストンの街が揺れていた。地震とは違う。それは怪獣の生み出すものと近かった。だが、同時に怪獣のものとはまったく違う振動であると、アンドリューは直観的に理解した。
 ふと、アンドリューはとあるラジオニュースの内容を思い出す。ボストンから遠く離れた国のニュースだ。まったくもって突拍子も無い内容であり、その時は聞き流していた。
 アンドリューは弾かれたように振り返る。
 その時、振動の生み出した電子的インシデントによって、ボストンの瓦礫に埋もれていた巨大スピーカーが誤作動を起こす。Spotifyに接続されたスピーカーから、大音量で2PAC[ft.50セント]の『The Realist Killaz』が流れる。大きな重低音がボストンの街を揺らす。
 そして夕陽の向こう!
 地平線を埋め尽くすのはおよそ1万5000を超す巨象の大群。先頭に立つは、怒りに燃えし巨象の女王テルコ。その背には女王の守り人、パンナー・イーラム。
 ワムパチュック州立公園近郊に漂着した巨象の群れは、まず手始めにミルトンの町を蹂躙した。ボストン市民の避難キャンプも、蹂躙した。そうしてここにたどり着いた。
 アンドリューは地平線を巨象が埋め尽くす光景をただ茫然と見つめていた。
 巨象たちは一抹の迷いもなく、ただ一点を見据えて躍進していた。アンドリューの背後はるか向こう。ゴジラである。
 まさか、彼らは挑むというのだろうか。ゴジラに。災害に。無茶な。だが、巨象の群れにそんな迷いは無かった。その瞳に怒りを宿していた。嵐に怒るものがいた。地震に復讐を誓うものがいた。巨象の群れが、この大いなるボストンを揺るがしていた。
 その地響きを一身に浴び、アンドリューは拳を握る。正気ではない。本気とは思えない。ゴジラに矮小な獣が挑むなど。できるはずがない。不可能だ。しかし、テルコの視線を正面に受け止めたアンドリューは揺らいでいた。もしかしたらと。まさかと。あるいはと。
 アンドリューの心になにかが灯ろうとしていた。
 その時であった。
 アンドリューの背後で巨大な粉塵が起こる。
 地を揺るがすほどの轟音と共に、アンドリューのすぐそばにひしゃげた地下鉄の車両が降ってくる。
 瓦礫から身を守るように身を縮めていると、アンドリューの頭上にサァッと黒く深い影が覆いかぶさる。あれほどボストンを震わせていた巨象の音が聞こえなくなる。いつしかSpotifyの再生も止まっていた。
 アンドリューは恐る恐る頭上を見上げた。
 まさに天地が逆さになったような錯覚。
 ああ、そうだった。どうして忘れてしまったのだろうか。ボストンへやってきたあの日、あの姿。
 地球が揺らいでいると錯覚するほどの咆哮がアンドリューを貫いた。
 怪獣王ゴジラが、大地に立っていた。
 アンドリューは恐怖とも感嘆ともとれぬ息を吐き出す。
 マサチューセッツ州ボストン。アメリカで最もタフな街は、今や瓦礫しかない荒野と化している。思い出も歴史も、すべて怪獣同士の争いによって消えた。いつしかまたボストン市民がこの街に戻ってくるかもしれない。だが、今はなにもない。ただその荒野で怪獣王と巨象の群れがにらみ合っている。片や異端の王ギドラを下し、怪獣の頂点に上り詰めたゴジラ。片やタイを蹂躙し、海を渡り、そしてマサチューセッツをも蹂躙した巨象の大群、その頂点たるテルコ。両者の間に一陣の風が吹く。
 ゴジラが吼える。
 同時に群れの先頭に立つテルコが吼える。呼応するように、1万5000の巨象も猛り吼える。折り重なった咆哮は破壊的周波数となってボストンに響き渡る。先頭に立つテルコが、大地を蹴った!再びスピーカーがSpotifyに接続され、ラン・ザ・ジュエルズの『Blockbuster Night Part1』が再生される。およそ1万5000を越える巨象の群れが同時にゴジラへ向かって進撃を開始する。
 象の平均速度は時速約40キロ。だがタイを踏破し海を渡った胆力と肉体を持つ巨象の群れは、時速60キロをゆうに越していた。
 1万5000の質量を持つ強大の群れが、ひとつの塊となって時速60キロで突き進む。その爆発的エネルギーがボストンの大地を砕き、天にまで届きそうなほどの粉塵を巻き起こしていた。
 ゴジラがそれを迎え撃つ。その神話的光景を、アンドリューは傍からうかがっていた。キャンピングカーで避難した先でアンドリューはただ茫然と見つめていた。
 すると、背後から声がかかる。
「すごい光景だな」
「あんたは……」
 そこには太った警官がいた。彼はコーヒーを啜りながらパトカーにもたれかかっている。
「どうしてここに?」
「通報があった。ゴジラと狂った巨象が暴れまわる現場にまぬけがいるってね」
「俺はいるだけだ」
「ああ、そうだったな」
「相棒はどうした」
「逃げたよ」
「そうか」
 警官はアンドリューの隣に立つ。
「ゴジラとギドラがボストンで殴り合うのを見て、これ以上頭のおかしい光景はないと思っていたがな」
 太った警官はハッと笑う。
「どっちが勝つと思う?」 
 確かに巨象の持つエネルギーは凄まじい。ともすればゴジラを刺すことのできる気迫に満ち溢れている。だがこうして傍から見てみると、まるで人と蟻。あるいは風車に挑むドン・キホーテだ。とても敵うとは思えなかった。
「言うまでもないな」
 太った警官は肩をすくめる。
 その時である。突如巨象の大群はテルコを残して二又に分かれる。
 太った警官は訝しむように唸る。
 アンドリューはキャンピングカーから取り出した双眼鏡を覗き、群れのほうを見る。
 よく見ると、巨象の群れから太く長いワイヤーが伸びており、なにか巨大なものを牽いていた。アンドリューは目をこらす。粉塵に向こうにうっすらと巨大な影が見える。
「まさか……」
 アンドリューは愕然として双眼鏡を落とす。
 それは巨大なタンカー船だった。
 船首と船尾から伸びるワイヤーは、それぞれ右翼左翼に分かれた巨象の群れに繋がっていた。全長およそ300メートルの巨大タンカー船が、瓦礫の海を掻き分けながら横なぎに突き進んでいる。それは粉塵となってゴジラからは視認することができない。
「おいおい……」
 拾った双眼鏡を覗き込んだ太った警官は、気が抜けたように笑う。
 地上を走破するタンカー船。およそ現実の光景とは思えない。だが1万5000の怒れる巨象の群れが、それを成していた。
 巨象の女王、テルコが吼え、ゴジラの股下を駆けぬける。
 続けて巨象の群れがゴジラの脇を通り過ぎる。
 ゴジラは訝しむように群れの先を睨む。
 ゴジラは確かに強大である。怪獣王の名に恥じぬ巨体を持っている。だがそれ故に彼には見えなかった。巨象の群れがその背後に潜ませた、必殺の一撃を。
 巨大タンカー船が、ゴジラの足元を捉えた。
 完全に虚を突いた。
 だがゴジラは巨体を翻すと、巨大タンカー船とがっぷり四つで組み合った。ゴジラと巨大タンカーがぶつかり合うことで生じた圧倒的破壊衝撃はアンドリューのところまで届く。太った警官は尻もちをついた。
 ビンと、タンカー船から伸びるワイヤーが張り詰める。その先に繋がれた巨象の群れは、地面を踏みしめる。一匹の巨象がブフォッと息を吐く。
 ゴジラが唸る。テルコが吼える。アンドリューは唾を飲み込む。
 そしてワイヤーが軋み、
「……マジかよ」
 この時、アンドリューの心臓が再び高鳴るのを感じた。ゴジラとギドラの争乱のあと、まるで錆びついたエンジンのように何も感じなくなった心臓が、再びドクドクと動き出す。
 ゴジラがボストンの大地へと崩れ落ちる。
 およそ1万5000を越す巨象の群れ。されどたかが巨象の群れである。が、ゴジラを地面に叩き伏せた。ゴジラは吼えながら粉塵と瓦礫の海へと沈んでいく。
 巨象の群れは止まらない。タンカーを引きずり進み続ける。
 突如、左翼を進む巨象の群れがワイヤーからパージされる。右翼の群れはその場で急ブレーキをかける。行き場を無くした巨大タンカー船の慣性エネルギーは瓦礫を削り倒す鋼鉄の津波と化す。ワイヤーはピンと張り詰め、巨象の群れを支点に回転する。巨大タンカー船は横滑りで瓦礫をなぎ倒す。
 ワイヤーに繋がれた巨象の群れは一か所に集まり、ただ遠心力に振り回されないよう耐える。巨大タンカー船の重量はおよそ15万トン。そこに遠心力のエネルギーが加わり、半分に分かれて総数7500となった巨象の群れにとうてい耐え切れるものではない。だが、とにかくそうなっていた。彼らは大地に根をおろすがごとく踏ん張り、巨大タンカー船は横滑りで回転していた。
 地面に臥すゴジラの頭蓋にめがけて、巨大タンカー船が直撃する。金属がひしゃげると共に、ゴジラは吼える。さらに歪んだ巨大タンカー船から火花が発生し、巨大タンカー船に積載された石油タンクに引火する。衝撃波がアンドリューと警官を襲い、大きな爆発がボストンを飲み込む。
 ボストンの街に巨大な火柱が上がる。
 爆発的な炎エネルギーは大地を焼き、空を焦がし、空に向かって吼えるゴジラをも飲み込んだ。
 それを見てアンドリューは喉を震わせる。
 ゴジラがマサチューセッツ州ボストンで咆哮をあげるのと同時刻、タイ王国ナコーンサワン県の巨象の群れが一斉にボストンへ向かって進撃をはじめた。
 自身らも怪獣の一種であると主張する彼らは、キング・オブ・モンスターたるゴジラにその旨を陳情するためボストンへと向かったのだ。
 そして今。彼らは怪獣王ゴジラを炎の海に沈めた。
 果たして誰がこの結末を予想しただろうか。誰が巨象の群れがゴジラを打ち倒すと期待しただろうか。誰もいない。こうして目の前で広がる光景を見ているアンドリューでさえも、いまだ信じられずにいた。
 女王テルコとその守り人パンナー・イーラムはただ静かにその火柱を見つめている。果たして彼らはなにを思うのか。
 その時である。もうもうと立ち込める火柱が、黒い風によって切り裂かれた。次の瞬間、右翼の群れが吹き飛ばされる。一拍おいて、左翼の群れも吹き飛ばされる。その間、わずか3秒。
 Spotifyの音楽が切り替わり、ファロア・モンチの『Simon Says』が流れる。不気味な重低音が、空気を震わせる。
 ゆらめく炎の柱から、漆黒を纏いし巨大な影がぬっとあらわれる。黒黒洞とした溶岩めいた皮膚は灼熱の気配を纏っている。怪獣王ゴジラ。まったくもって無傷。まったくもって無敵。ゴジラはそのぎょろりとした目で眼下を睨む。
 巨象の群れは壊滅状態だった。尻尾をわずか二振り。ゴジラがしたのはただそれだけだ。女王テルコは地面に膝をつき、パンナー・イーラムは瓦礫の下敷きとなっていた。
 その惨状をアンドリューは静かに見つめていた。その背中に警官が声をかける。
「行くのか?」
「……ああ」
「正気か?」
「正気だ」
「そうか、だがなんのために行く」
 アンドリューは振り返る。
「もう二度と立ち止まらないために」
 そうだ、立ち止まる必要はない。ここに至って、ようやくアンドリューは答えを得た。その様子を見た警官が微笑んだ。
「持ってけ」
 警官は拳銃を差し出す。
「いいのか?」
 アンドリューが問うと、警官は小さく肩をすくめた。
「誰も見ちゃいないさ、兄弟」

 キャンピングカーにキーを差し込みひねる。エンジンがうねりをあげ、タコメーターが上昇する。Spotifyのプレイリストを開き、DJシャドウの『Rocket Fuel』を再生する。音量ゲージが急上昇し、アンドリューはアクセルを踏みぬいた。
 ボストンの瓦礫を踏み越えてゴジラに向かって走り抜ける。
 アンドリューは運転しながら煙草に火を着ける。
 一瞬、テルコとパンナー・イーラムと視線が交差するも、すぐに前を向く。目指すは怪獣王ゴジラ。ひたすらアクセルを踏み、ボストンの大地を駆け抜ける。もはや塵と芥しかない。だがアンドリューは再びボストンを駆けていた。
 アンドリューはアクセルを瓦礫で固定すると、そのまま天窓から顔を出す。ゴジラの巨体が眼前に広がる。
 アンドリューの片手には発炎筒が握られている。
 アンドリューは片眉を上げ、紫煙を吐き出すとタバコの火を発炎筒に着火した。
 発火した発煙筒はもうもうと煙を吐き出し、キャンピングカーの後ろに軌跡を描く。アンドリューは目を細める。ゴジラに狙いをつけると、発炎筒を放り投げた。
 空の元、発炎筒は放物線を描き──アンドリューは狙いをつけ、引き金を引いた。
 ゴジラの眼前。発炎筒は小さく破裂する。タンカー船に比べれば、あまりにも小さな爆発。されどゴジラは気が逸れた。それが矮小な人間が仕掛けた小さな最後っ屁と気づくまでのわずか0コンマ数秒。
 キャンピングカーは大きな瓦礫に躓き、横転する。
 ゴジラは直ぐに視線を戻す。
 そこには瓦礫を押しのけて女王テルコが立っていた。その背には、満身創痍の身体をものともせず、パンナー・イーラムが跨っている。もはや他に立ち上がる者はいない。巨象の群れは壊滅状態にあった。しかし、彼らの表情には一切の陰りもなかった。
 パンナー・イーラムは叫ぶ。それと同時にテルコは大地を蹴り、ゴジラに向かって突進する。その表情には死地に向かう戦士の恐怖も、あるいは殉教者じみた狂乱もなかった。ただ目の前を見据え進む者の目だった。
 陽が沈もうとしていた。黄昏の夕闇に、不釣り合いなほど青白い光が浮かぶ。それは遡上する鯉の如く空へと伸びる。ゴジラの歪な背びれがうごめき、発光していた。その光をアンドリューは知っていた。全てを無に帰す破壊の光。それは放射熱線と呼ばれている。
 その光を見たパンナー・イーラムは笑った。一緒になってテルコも笑った。笑いながら駆ける。アンドリューは、ついに彼らが求めていたものを手に入れたんだと理解する。
 矮小な獣と人間二匹に対してあまりにも膨大なエネルギーが放たれようとしていた。その放射熱線は、間違いなく怪獣王ゴジラから巨象の女王テルコへの、最初で最後の奉呈だった。
 やがて光が明滅し、放たれた。
 神々しいエネルギーの奔流がボストンの街を包み込み、あとには何も残らなかった。

 あれから二週間が経った。ボストンの街には人が戻っていた。といってもまだ人が住めるような状態ではない。だが皆この街を一からやり直すために立ち上がり、今はこうして一つずつ瓦礫を撤去している。
 その集団の中にアンドリューの姿もあった。あの太った警官の姿も。ボストンの街は決して終わらない。
 巨象大乱闘のあと、ゴジラは海へと帰っていった。巨象の群れがそれを成したのか、それともただの気まぐれか。もっとも偶然に物語を見出すのが人という生き物だ。少なくとも、真実の物語はアンドリューの胸の中にある。
 アンドリューが瓦礫をどけると、見覚えのあるワッペンが目に入る。パンナー・イーラムのしていた、守り人の証。アンドリューは目を細めると、守り人の証を握りしめる。
 失ったものは二度と戻らない。だが前に進むことはできる。何故なら我々には歩くための足があるのだから。
 頬に風が過り、アンドリューは静かに目を瞑る。
 風の中に、巨象の足音が聞こえた気がした。

進撃する巨象、あるいは怪獣王ゴジラの奉呈〈完〉

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