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上越立ち止まりスポット17(タコ公園と国体道路)

国体道路と聞いても、どこだかわからない地元の人間も多いのではないかな。私の小学生の頃にできた道路だ。1回目の新潟国体があった年にこの道路ができた。天皇が国体に合わせて巡行されるというのでできた道路だ。新潟国体、すぐに新潟地震、1回目の東京オリンピックもあって、華々しい年だった。当時、この横にある直江津中学校の隣に家があったので、家の前の道路だった。

幼い頃、母はよく私を連れて海に散歩に連れていってくれた。うっすらと覚えている。目的地は平和の塔だ。当時は松林ばかりでその中に直江津水族館があった。今の「うみがたり」の2代前の水族館だ。その水族館を抜けて海の近くまでいくと平和の塔があった。今も冬の波風に耐えてちゃんとある。

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平和の塔の前にミストの出る広場ができていた。保育園児が遊びに来ている。この写真を撮った場所は、うみがたりから海の方に出た交差点のある場所だ。

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うみがたり方向の海岸通り。直江津中等も見える。

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こちらは駐車場側と平和の塔。

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後ろにまわると「民主社会と福祉国家建設のため明治大正昭和の三代に亘り困難災禍のため尊い犠牲となられた方々の霊を顕彰し永久平和を祈念する 直江津平和塔建設会」とある。「平和塔」について調べて見たが、1960年9月設置しかわからない。作者は不詳(像足下に「TUBARI」のサイン)。情報不足である。昔から来ていたの・・・

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ここらへんに昔の直江津水族館があった。幼稚園の時に水族館の図画コンクールで金賞をもらい12色のクレヨンをもらった思い出がある。当時は松林だった。

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松がまだ残ってはいるが、数は少ない。

海岸通を下っていくと防風塀がある。昔はこのような塀のある家ばかりだった。今は朽ちかけているこの場所にしか見られない。冬に日本海の暴風雪をまともに受けるのでこのような防風塀がかかせなかったのだ。

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この海岸通を20代の頃、毎日のようにジョギングした。当時住んでいた家から国体道路を通り、この防風塀の角から関川河口の琴平神社で折り返して戻ってくる。往復で5kmくらいだ。

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直江津中学校にある石碑。今は保育園になったが昔は石碑の向こう側に直江津図書館があった。毎日のように借りにいくものだから、図書館の評価委員にならないかとさそわれたこともあった。

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石碑は「行幸記念碑」と書いてある。国体道路ができて天皇巡行があったと記念碑だ。その横にももう一つ石碑がある。

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「福島城跡土塁の碑」だ。福島城自体は、今の古城小学校の場所にあったのでかなり離れている。こんなにはなれた場所にまで福島城の土塁が築かれたということは、城の大きさが予想をはるかに超えている。江戸城に匹敵する大きさだったという。また、上杉氏を会津に移封したあとで、小さくなったとはいえ石高75万石だった。日本でも有数の城だったと思われる。福島城は完成して7年後に高田城に移された。上杉時代に築かれた豊かな越後を弱らせるという戦略上の意図があったといわれる。

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これが国体道路。タコ公園のタコが見える。正式名称は海浜公園だ。松林だったがもう沿道にしか松はない。中学生の頃、上級生に呼び出されて松林の中で殴られたり、授業を抜け出してドキドキしていたりと松林にも思い出がある。小学校の頃飼っていた犬(リキ)のもこの写真のどこかに埋まっている。

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