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杉田庄一物語 第三部「ミッドウェイ海戦」 その20 珊瑚海海戦

 五月八日に、新郷英城飛行隊長は元山空飛行隊長兼分隊長として転出、兼子正大尉が後任の飛行隊長として入れ替わることになった。しかし、前線で若手訓練を行うという案は新郷が去ったあとに採用されることになる。内容はともかく新郷の上司に噛み付く態度が影響したものと思われる。

 五月初旬、南洋部隊(指揮官井上成美海軍中将・第四艦隊司令長官)は三月にラエ、サラモア、四月にツラギ、ポートモレスビーを攻略するように計画していた。ラエ、サラモアの攻略に成功はしたが反撃を受け艦船に大きな損害を出したためポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)は一ヶ月延期して五月下旬実施予定となった。しかし、ミッドウェイ作戦(MI作戦)が前述のような理由で早められることになり、ポートモレスビーの攻略も五月初旬とされた。MO攻略部隊とMO機動部隊が用意されたが、事前の十分な打ち合わせや訓練を行うことができず、急ぎ戦場へ向かうことになった。

 五月七日、珊瑚海をポートモレスビーに向かっていたMO機動部隊が米陸軍機に捕捉されるが、幸いにも厚い雲に遮られた米海軍機はこれを発見することができなかった。日本軍側は、偵察を行っていた水上機の回収事故や貴重な飛行艇からの敵発見の報を無視するなどの失態で攻撃を行わなかった。双方とも絶好のチャンスを逃してしまう。

 五月八日、米空母「レキシントン」、「ヨークタウン」と日本の空母「瑞鶴」、「翔鶴」が、それぞれ相手艦が見えない距離から艦上機で攻撃し合うという史上初の空母同士の対決となった。この海戦から豪海軍も米海軍に合流しているが、数が少ないので便宜上、米海軍に含めて記述する。

 ほぼ同時刻に双方の索敵機群が相手の空母を発見し、ほぼ同時に双方の攻撃隊が発進し、お互いの空母に攻撃を行った。双方の攻撃隊が空中ですれ違うという緊迫した戦いになる。

 攻撃隊の機数は日本機が六十九機、米軍機が八十四機。空母「レキシントン」が魚雷を二発、爆弾二発を受けて数時間後に沈没した。空母「ヨークタウン」も爆弾一発を受けたが戦闘行動は可能であった。空母「翔鶴」は爆弾三発を受けて戦場を離脱した。

 双方とも相手空母を二隻とも撃沈したと過大に算定したが、同時に損害も甚大であると判断し第二次攻撃を中止して戦場から離れた。日本軍は、ポートモレスビー攻略も中止してしまう。この決定を下した井上長官は、のちに「いくじなし」と評価され事実上更迭されることになる。

 珊瑚海で行われたこの海戦では、空母「レキシントン」沈没、空母「ヨークタウン」大破となった米軍と空母「翔鶴」大破の日本軍では、わずかに日本軍側が勝利を得たように思える。しかし、米軍は大破した空母「ヨークタウン」を一週間という信じられない期間で修理し、ミッドウェイ作戦に参加させたのに対し、日本軍の空母は二隻とも内地で整備となってミッドウェイ作戦から外されている。何よりも搭載機の被害が大きかったのである。この差は、明らかに米軍の方に軍配があがる。

 いよいよミッドウェイでの海戦がはじまろうとしていた。

<参考>

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