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杉田庄一物語 序

 これはミッドウェイ海戦後、敗北を重ねる日本を守るため最前線で戦い続けた海軍戦闘機搭乗員杉田庄一の物語である。杉田は大正十三年、新潟県頸城郡安塚村小蒲生田(現上越市浦川原区)の農家に六男三女の次男として生まれた。十五歳で海軍に志願し、戦闘機搭乗員となって太平洋戦争の戦場で戦い、二十歳で戦死した。「空戦の神様」と呼ばれるような活躍をし、世界の伝説的パイロットとしてスミソニアン博物館に写真展示されている。

 杉田がはじめて戦場の空を飛んだのは、ミッドウェイ海戦で日本が大敗北を喫したあとのラバウルだった。ミッドウェイ海戦後、日本は体勢挽回に努めようとして戦うが、講和の機会を得ることなく敗北に敗北を重ねることになる。杉田はその最前線の空で戦い続けた。ラバウル航空戦、マリアナ沖航空戦、比島沖航空戦、神風特攻隊直掩、そして沖縄戦まで杉田は戦場の空を飛び続けた。

 杉田は山本五十六連合艦隊司令長官の護衛機として飛んだ時、その長官を戦死させてしまっている。杉田はそのことを語ることなく、死に場所を求めるような戦いを続けた。多くの先輩や仲間や後輩が倒れて行く中で、杉田は腕を磨き、いつしか「空戦の神様」と言われるようになった。

 杉田が死んだ時、全軍布告の感状が出されている。そこには「個人撃墜七十機、共同撃墜三十機」と書かれているが、公式記録を日本海軍が残しているわけではなく、撃墜機数にはあまり意味はない。ただ、その空戦技術はだれしもが認めており、多くの戦記や記録に残されている。
 杉田は自分自身で記録を残していない。不明なことも多くある。先輩、同僚、後輩が語った言葉や記録をもとに杉田正一物語をまとめていこうと思う。


スミソニアン博物館には世界のエースパイロットの展示コーナーがある。
日本人では西澤広義(上)と杉田庄一(下)の写真が展示されている

※ タイトルの紫電改のイラストは、イタリア在住のエンジニアであるFlavio Silverstri(フラビオ・シルベストリ)氏の描いた杉田庄一の乗機。Silverstri氏は英語や日本語の文献をGoogleで翻訳して杉田の研究をしている。


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