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上越note#2「杉田庄一顕彰碑」<浦川原区>

浦川原には観光名所はない!と浦川原在住者からキッパリ言われたが、そんなことはない。時には、磯部山中腹にある小蒲生田集落に「杉田庄一」の顕彰碑にぜひ行ってみてほしい。

磯部山の中腹に十数戸の集落があり、その中に杉田庄一の生家があった。今は生家跡地に顕彰碑がたっている。また、すぐ近くにお墓もあるので寄ってみてほしい。


顕彰碑にお参りする隊長

杉田庄一は、第二次世界大戦時の日本海軍航空隊で「至宝」とまでいわれた戦闘機搭乗員。ミッドウェイ海戦後、日本が守勢に転じた頃にラバウルの戦場にデビュー。その後、敗戦までの2年あまりを国を守るための戦いに身を投じた。多くの仲間が空戦で倒れていく中を抜群の空戦技術で敵を倒し続け、「空戦の神様」といわれた。昭和20年4月15日に鹿児島県の鹿屋基地への空襲で撃墜されるまでの活躍は伝説となっている。映画や漫画、コミックなどにもとりあげられる日本を代表するエースパイロットなのだ。

顕彰碑裏面

裏面の碑文は次のように書かれている。
「大正13年(1924)7月1日この地に生まれる。15歳で海軍に入隊し、予科連を経て航空搭乗員としてラバウル航空戦などを歴戦、山本五十六司令長官の護衛機だった。戦争末期、技量優秀として第三四三海軍航空隊員に選ばれ、日本本土防空の任にあたる。昭和20年(1945)4月15日、鹿児島県鹿屋基地にて出撃直後に被弾戦死する。20歳であった。部下を愛し上官からも厚く信頼され、戦死後に全軍布告個人感状が出された。」

小蒲生田は3m近く雪のつもる豪雪地だ。磯部山の南側に位置し、そこからぽっかりとひらけた空が見える。杉田の育った頃は杉の木はなかったと思われるので、まわりを森で囲まれたこの地から空を見上げ、飛行機にあこがれていたんだろうなと思いをはせる。

杉田は20歳で戦死した。
いつの世でも戦争は若者の命をかけて行われる。
多くの若者はその意味すらよくわからないま戦場に投じられる。
少なくても杉田は国を守りたいと戦った。

杉田が死んで80年。
今、また戦争のある世界になってしまった。
平和な戦後を生きてきた自分は恥いらねばならん。


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