見出し画像

飛行機の本#33『最後の撃墜王』_紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯(碇義朗)

第二次世界大戦末期、昭和20年に日本海軍は選りすぐりの戦闘機パイロットを前線から集め、対米防空戦のために特別編成の部隊(343航空隊)を作る。最新鋭の戦闘機「紫電改」と技量抜群のパイロットで編成されたこの部隊は、半年間であったが負け戦の中にあって大いに活躍し、アメリカ軍を恐れさせた。菅野直は、その部隊長であり、生涯での総撃墜数は72機(個人撃墜+共同撃墜)というエースパイロットだった(5機以上撃墜するとエースと称される)。

士官になるには、海軍であっても陸軍であっても中学校(旧制)を卒業後に士官学校に入学しなければならない。トップクラスの大学に入るよりも難しいと言われる学力テストだけでなくアスリート並みの運動能力も必要である。これはどこの国でも同じ。日本での士官学校は海軍兵学校と陸軍士官学校。菅野は、昭和13年に2万人の受験者の中から合格した460名あまりの中の一人として海軍兵学校に入学する。戦争が近づいている気配があり、数年前の2倍近い合格者だったのだ。さらに戦争が始まった頃になると4000人近くが合格することになる。

菅野直は宮城県の現角田市の生まれでガキ大将でありながら成績は一番、やることは奇抜という少年であった。旧制中学校の頃は、郷土の詩人である石川啄木に傾倒する文学少年でもあった。身長は低い方で武道の試合では、剣道でも柔道でも小さいが故に相手の懐に入って敵を倒すことに優れていた。後年、戦闘機パイロットになっても同じように衝突寸前まで相手に近寄り、一撃離脱を得意とした。

南方ラバウル戦線で頭角を表すとその技量を見込まれた故に、本人が志願しても特攻隊には選出されなかった。343航空隊では戦闘第301飛行隊長として本土防空戦で活躍するが8月1日、屋久島上空で戦闘中に行方不明になり、そのまま帰ることはなかった。23歳であった。

その菅野直の第一の部下で、この本の中にもあちこちに登場するのが杉田庄一である。杉田は、丙種予科練出身の下士官パイロットである。菅野よりも3歳若く、昭和16年入隊の少年兵出身でわずかな期間で日本最多の撃墜数をマークしている。常に菅野についてまわり、兄のように慕っていた。杉田も菅野とともに343航空隊で活躍するが、昭和20年4月15日に離陸しようとしているところをグラマンF6Fに襲撃され、20歳で戦死する。撃墜数は、日本最高の単独撃墜70機、協同撃墜40機とされているが、実際の撃墜数は120機以上だったとも言われる。

杉田庄一は、現上越市の浦川原区小蒲生の生まれである。操縦技量が抜群で、山本五十六司令長官を護衛した6機の戦闘機パイロットの一人としても知られている。(アメリカ軍が暗号無線を解読していたため山本司令長官の乗った一式陸上攻撃機は待ち伏せされて撃墜される。杉田ら6機の護衛機は責任を取らされるように毎日出撃させられて杉田を除いて戦死あるいは戦傷で戦線離脱となる。)戦後作られた「零戦燃ゆ」の映画の主人公(浜田庄一)のモデルにもなった。


菅野直の搭乗機「紫電改」A343-15

画像1

「紫電改」は、第二次世界大戦期後期の日本海軍の戦闘機。日中戦争から太平洋戦争初期で活躍した「零戦」の時代は長く続かなかった。世界は2000馬力級の戦闘機の時代に急激に変化する中で、後継機と目された「烈風」が間に合わない。目がつけれらたのは水上戦闘機「強風」であった。これを陸上戦闘機化したものが「紫電」である。しかし、もともと水上戦闘機であったため中翼配置であり、長い脚をつけねばならなかった。そのため事故も多く、これを改良して低翼にして設計をリファインしたのが「紫電改」である。自動空戦フラップと層流翼が特徴。エンジンは「悲劇のエンジン」と呼ばれた中島製の誉2000馬力。戦後アメリカで実験データをとったときに、オクタン価の高いガソリンを使えたため驚異的な性能を記録している。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?