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杉田庄一物語 第三部「ミッドウェイ海戦」 その23 捲土重来、内地へ

 六月十日、大本営はミッドウェイ海戦の結果について事実とは異なる報道を行う。この日に発表された大本営発表は次のようになっていた。

「東太平洋全海域に作戦中の帝国海軍部隊は六月四日アリューシャン列島の敵拠点ダッチハーバー並びに同列島一帯を急襲し四日、五日両日にわたり反復之を攻撃せり。一方同五日洋心の敵根拠地ミッドウェーに対し猛烈なる急襲を敢行すると共に、同方面に増援中の米艦隊を捕捉猛攻を加え、敵海上及び航空兵力並びに重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり。さらに同七日以後陸軍部隊と緊密なる協同の下にアリューシャン列島の諸要点を攻略し目下なお作戦中。現在迄に判明せる戦果左の如し

「一 ミッドウェー方面
(イ)米空母エンタープライズ型一隻及びホーネット型一隻撃沈
(ロ)彼我上空に於いて撃墜せる飛行機約百二十機
(ハ)重要軍事施設爆砕
〜(中略)
三 本作戦に於ける我が方損害
(イ)空母一隻喪失、同一隻大破 巡洋艦一隻大破
(ロ)未帰還飛行機三十五機・・・」

 大本営発表は戦果を誇張し、損害を過少にしていた。ミッドウェイ海戦以降、このような偏向した報道傾向が強くなる。しかも統制を強めたため新聞は大本営発表しか報道できなくなり、国民はひたすらその新聞発表からの情報を鵜呑みにするしかなかった。

 山本長官の思いは複雑だった。山本はミッドウェイ作戦で米機動部隊を潰してから講和へもちこもうと考えていた。いくらかでも米国から譲歩を引き出せば浮かれている国内情勢も納得するだろうし、場合によっては自分が交渉の先頭に立てば国民も納得するかもしれないと思っていたはずだ。しかし、結果は裏目に出て二度目の早期講和の機会を失った。河井継之助の小千谷談判が山本の頭によぎったことであろう。

 小千谷談判とは、長岡藩と新政府軍が対峙しているときに家老である河井継之助が藩の中立存続を願いにいった先で、土佐藩の岩村精一郎によって一蹴された交渉のことである。河井は、長岡藩の中立だけでなく会津藩を説得する講和交渉を行うことも提案している。しかし、岩村は「時間稼ぎだろう」と一切応じなかった。そのため、北越戦争が起こり、長岡は城と共に焼け野原になる。長岡藩の同じく家老であった山本帯刀は、恭順すれば命だけは助けると言われたが断り、二十代で斬首されている。この山本家を養子として継いだのが高野(山本)五十六である。戦争を食い止めようとして必死で活動していたにも関わらず、自らが大将として戦わねばならなかった河井の生き様は、まったく山本の生き様に重なってしまうのである。
 長岡といえば花火が有名であるが、もともとは北越戦争からの復興を祈って打ち上げられていた。長岡空襲のあった二年後から再び花火は復興をめざして打ち上げられている。中越地震のあとも長岡市民たちは震災復興を祈願して花火の打ち上げを絶やさなかった。今も復興のシンボルとして世界一といわれる花火「フェニックス」として続いている。そして、2007年からはこの長岡花火が平和の象徴「鎮魂の花火」として因縁のあるハワイでも打ち上げられている。

 話をもどして、ミッドウェイ海戦後の山本は「全部僕の責任だからね。南雲艦隊の悪口は言っちゃいかんぞ」と言って、長官私室に閉じこもっていた。

 六月二十四日、空母「隼鷹」とともに六空別働隊は大湊に到着した。飛行機はそのまま「隼鷹」に残して、人員だけ陸路で木更津に帰ることになる。

 六月二十五日、ミッドウェイに向かうはずだった「慶洋丸」が横須賀港に戻った。約四十日ぶりであった。木更津基地に戻って来ると、情報を秘匿するために数日間は隊舎に衛兵付きで閉じ込められ、しばらくは罪人扱いのようだったと杉野が書いている。

 ミッドウェイに関する話は厳禁となり、杉田ら若手隊員は詳しい内容を知らされないまま、訓練を行うことになった。ただ、新聞に書かれている内容と実態が異なることは気付いていた。

 訓練を行うにも、ミッドウェイ海戦に参加した零戦はすべて失われたため、六空保有機は木更津に残されていた零戦三機と九六戦三機、九九艦爆三機にすぎなかった。「隼鷹(じゅんよう)」とともに戻ってきた零戦十二機は、そのまま「隼鷹」に残されることになった。

 足りなくなった航空機の補充が急がれた。とりあえず元山空から零戦が七機、大湊空から零戦三機、九六戦三機が木更津に集められた。その後も補充が進められたが定数を満たすのは難しかった。

<参考>


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