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飛行機の本#34『最後の紫電改パイロット』_不屈の空の男の空戦記録(笠井智一)

つい先日、1月9日に笠井智一さんが亡くなった。10日に共同通信の記事が流れ、その週はいくつかの新聞やSNSで笠井さん訃報がとりあげられた。私は縁があって「杉田庄一の実績を伝承する会」に関わっている。笠井さんは「杉田庄一」の直属部下であり、このときちょうどこの本を読んでいたのでこの訃報にたいへん驚いた。すこしドキドキして訃報を読んだ。

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共同通信の記事は次のようになっている。
「笠井智一氏(かさい・ともかず=旧海軍上等飛行兵曹)9日午後10時9分、慢性心不全のため兵庫県尼崎市の病院で死去、94歳。兵庫県篠山町(現・丹波篠山市)出身。自宅は兵庫県伊丹市。」

もう少し詳しい情報を付け加えると、四国松山で編成された海軍343航空隊の戦闘301飛行隊の第2区隊に属し、杉田庄一区隊長の2番機として編隊を組んでいた紫電改パイロットなのだ。15歳で志願し、そのときは17〜18歳だった。この間の記録をもとに書かれたのがこの本『最後の紫電改パイロット』なのだ。

笠井さんは、戦局が厳しくなった頃に志願したので満足に飛行機操縦を教えてもらうことなく、練習機でのわずかな飛行経験のみで最前線に送られる。ほとんどの同期はそこで戦闘に参加し、初戦で撃墜されていくが、笠井さんは杉田区隊長の部下になり徹底的に編隊飛行や戦闘をたたきこまれたおかげで生き延びることができる。仲間たちがつぎつぎと特攻部隊に組み込まれる中、自分たちは命ぜられない。思いつめた杉田区隊長についてこいと言われていっしょに特攻に志願する。しかし、司令から言われたのは内地に戻れという命令だった。

内地に戻ると343空の隊員になることを命ぜられる。343空は、昭和19年末に源田実大佐が本土防空のために最前線で活躍していた優秀な搭乗員を集めて特別に編成した海軍航空部隊なのだ。3つの戦闘飛行隊と1つの偵察飛行隊で構成されている。301飛行隊は菅野直飛行隊長(中尉)と隊長を支える杉田区隊長(上等飛行兵曹)の二人の超エース級搭乗員が中心になって編成される。笠井さんは杉田区隊長の2番機となり、さらに徹底的に教え込まれる。杉田区隊長は部下をなぐることのなかった下士官だが、編隊飛行や戦闘についてのミスだけは厳しく指導されたという。

「昭和20年に入ると343空の訓練が松山基地で本格的に始動した。戦闘301飛行隊の訓練は6つの区隊ごと、各4機編隊で行われた。第1区隊は菅野大尉直率、第2区隊長には杉田上飛曹が指定され、私は杉田兵曹の2番機を務めた。1つの区隊は2つのペア(1番機と3番機、2番機と4番機)で構成され、ペア同士は絶対に離れてはならず、つぎに区隊の4機が離れない編隊訓練を行った。急上昇、急降下、垂直旋回も宙返りも4機編隊で息を合わせて行うので難しい。杉田区隊の訓練は速度が300から350ノット以上に出ており、耳鳴りがしてよく端から飛行機雲が出続けるほどの激しい訓練だったが、新戦法で戦いに臨もうとする新戦闘機隊の搭乗員は皆誇りが高く、戦闘機隊の羨望の的であり、意気軒高だった。私は経験豊かな搭乗員にそれまで何人も接したが、包み隠さず操縦空戦技術を教えてくれたのは杉田上飛曹だけだった。それが後にどれほど役に立ったことが、私が今こうしてあるのも、杉田上飛曹の薫陶の賜物だと思っている。」

杉田区隊長は4月15日に戦死、菅野隊長も8月1日に空戦中行方不明になり、笠井さんは終戦を迎える。本を読むと何度も死地を乗り越えたパイロットたちのすさまじい話ですごいなあと思うのだが、そのときの実年齢が3人ともに若いので驚いてしまう。

菅野直  23歳(戦死後、少佐) 個人・協同撃墜 72機
杉田庄一 20歳(戦死後、少尉) 個人・協同撃墜 120~130機
笠井智一 18歳(戦後、上等飛行兵曹) 協同撃墜 10機

笠井さんは、戦後を一市民として生き延び、80歳を超えるまであまり語ることがなかったが、90歳近くなってから積極的に語りをはじめた。NHKのドキュメンタリーに出たり、講演したり、本を書いたりとその活動は精力的だった。講演の中の言葉が印象に残っている。「私は、軍国主義者ではないが、国や国旗を大切にしてもらいたい。」笠井さんの胸には、国のために戦い死んでいった仲間の思いを伝えたいという気持ちがあるのだろうなと推測する。

紫電改に関するnote
「川西 紫電改 N1K2-J」(1945)




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