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覚書――フルトヴェングラーとチェリビダッケのこと


*はじめに―― 過日、小川榮太郎氏の動画「クラシック放談~フルトヴェングラーとカラヤン 運命の二大巨星」に対談相手として出演し、いくらかの勝手なお喋りをしてお茶濁しをしたのだが、この番組を視聴されたある方(仮にAさんとする)からご感想と質問を頂戴した。内容は主に二十五年前に小川氏とした対談での私の放言に関するもので、昔のことでもあり答えに窮したのだが、当時の自分に見えていたものを想い起しながら回答を書いていて、今も昔も我々が置かれている状況や問題にはさほど変わりはなく、当時私が抱いていた「危機」の感覚が自分の中で依然として消えていないことを我ながら面白いと思った。これを覚書として残しておくのはまず私自身のためだが、同じ危機の感覚を所有する、どこかにいる誰かのためでもある。

 Aさんから頂戴した感想を以下、引用する。

「石村さん、はじめまして。『フルトヴェングラーとカラヤン』を過日読了し、上のビデオクリップも拝見しました。というより、この本を読みながら関連録音をYoutubeで探していたら、突如この動画が出現し、驚きました。大変興味深いお話を、ありがとうございます。
 同書所収の小川榮太郎さんとの対談で、石村さんはチェリビダッケを「最後のヨーロッパ人」と呼んでおられます。「歴史的に存在し、歴史的に認識する最後の人」(p.291)とのことですが、私にはこの点がかなり難解です。ご解説いただければ、ありがたく存じます。また、ここはフルトヴェングラーを語り合う場なので、フルトヴェングラーはこの点においてどうであったかも、お考えを披露いただければ、一層ありがたいです。
 チェリビダッケ亡き後、欧州大陸にいるのは、もはや「ヨーロッパ人」ではないホモ・サピエンスなのでありましょうや。となれば、三島由紀夫の自決以後50年、この列島に生息する我々も同様なのでしょうか?興味津々です。」

 以下は私の回答。

「A様、ご高覧有難うございます。小川氏の重厚精緻な議論にひきかえ小生は勝手気儘な放言ばかりでしたのでお言葉には大変恐縮です。

 頂戴したお題はどれも大きなもので、このコメント欄で数行でお答えするのは私の菲才には荷が重いのですが、今言える限りのことをなるべく簡潔に書きたいと思います。

 件の対談はもう二十五年も前のもので、今読み直すと随分難しいことを言ってやがる、というのが正直な感想ですが、当時私がチェリビダッケに仮託していたイメージは、ルネサンス人としてのヨーロッパ人でした。いわば数百年の時を隔ててギリシャ、ローマの文明に「古典」という理想像を発見し、再興しようと試みた天才たちの系譜です。

 チェリにとってのヨーロッパとはヴィーンやミュンヘン、ローマ、ミラノ、パリにあるものではなかった。彼にとってそうした都市や地方で守られていた文化伝統は「ローカリズム」という雑多なものに見えた。ローカリズムとは、特定の風土の中で育まれ、無意識・無自覚に継承され続ける文化、いわば「自然な」ヨーロッパです。一方で広域的なヨーロッパ文明は近代の爛熟と頽廃、衰退を経て現代の破壊と荒廃に至り、そうした時代の推移に応じて様々な「新しい」試みが「現代性」「前衛」を標榜し、思想や芸術の世界をリードしていると自負していた。さらにはアメリカニズム=大衆文化と商業主義によるグローバリズムの大波がローカリズムを侵食し、「現代」「前衛」をも取り込み呑み込んでいた。こうした時代風景の中で「純粋な」ヨーロッパのイデアを自らの音楽を通じて体現し、真っ向から対抗しようとしたのがチェリビダッケであり、音楽に限らずどの分野にももうそんな存在はいなかった。そういう意味で「最後のヨーロッパ人」というテーゼを提起したように思います。

 そして、チェリが「純粋ヨーロッパ」を〝発見〟したのは明らかにフルトヴェングラーを通じてでした。フルトヴェングラーはドイツ音楽の権化、守護神と言われますし当人もそう自負していたはずですが、フルトヴェングラーのドイツはローカリズムでは明らかになかった。彼の演奏には所謂「田舎臭さ」(ローカリズムの観点からはこれは「美質」でもあるのですが)がまるでありません。彼にとってのドイツ文化は、ギリシャ・ローマ文明の精粋を継承する正統文化だった。日本の話で譬えれば、大阪文化の精粋はお笑いや食い倒れ、大阪商人ではなく仁徳天皇の御代に栄えた古代文明である、といったようなものでしょうか(むろん、現在の大阪の文化にその痕跡を見出すのは難しいですが)。

 ではフルトヴェングラーはルネサンス人としてのヨーロッパ人だったのか。そうではなく、彼の自己認識は完全にギリシャ・ローマの「文明人」だったと私は見ています。ギリシャ、ローマを「発見」したヨーロッパ人ではなく、現にそれを当たり前の文化として生きている人。簡単に言えばアナクロニストですが、彼にとっては自分が時代を錯誤しているのではなく、時代の方が錯誤しているという認識だったと思います。そこに小川氏の言うフルトヴェングラーの「批評性」がある。彼の芸術は存命中から「現代・前衛」の陣営から「古臭い」と批判されていましたが、70年を経てそうした現代芸術・前衛芸術はとうに忘れ去られ、古臭いとさえ誰も言いません。フルトヴェングラーに言わせれば、自分の芸術は「古臭い」のではなく、歴然と「古い」、すなわちギリシャ・ローマの古典そのものであり、だから時代を超越するのだということになります。

 では翻って現代に生きる我々は何者なのか。ヨーロッパにおいても日本においてもローカリズムは各地でなお存続しています。その生命は昔も今も常にグローバリズムの暴力的侵襲に晒され、破壊の危機に瀕していますが、人間の「保守的本能」はそう簡単に消え去りはしません。ですが、フルトヴェングラーのような古代文明を具現する天才や、チェリビダッケのように文明を発見し復興する歴史家(これをわが江戸時代の古学、国学者の試みになぞらえてもよいように思います)が現代にも現れない限り、グローバリズムという破壊(かつてのキリスト教、産業革命と帝国主義、マルクス主義同様)に抗してローカリズムという「自然」が自らを保守し続けることはますます難しくなるでしょう。昭和の後半に三島や小林秀雄はこの危機を見て、それぞれのやり方で警鐘を鳴らしました。その警告音は今も鳴り続けていますが、その音が今はたして何人に聞こえているでしょうか。

 長文の上に乱文失礼致しました。」

 全く、長文の上に乱文だが、覚書なのだから私にとってはこれでよい。いずれまたこの問いに戻ってきて、何かを書くことになるかもしれないし、ならないかもしれない。覚書とは直観の記録であって、物を書くとはその検証作業と他者への伝達行程に外ならないが、もう若くもない私にはその作業と伝達というのが面倒なのである。(了)

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