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世の中には、聞かない方がよいことが……

 このところFBの投稿やYouTubeへの動画アップでベートーヴェンやらブルックナーやらマーラーやらの大交響曲ばかりきいていて、どれも大好きな曲とはいえ少しくたびれてしまい、今日は無性にベートーヴェンの弦楽四重奏曲、それも十四番作品131がききたくなった。この曲のことを思い浮かべると必ず私の頭の中で鳴り出すのが、不滅の名演、人類の至宝と称えられるカペー四重奏団の奏でる音だ。今から九十年以上前、1928年(昭和三年)の太古録音だが、私にとっては何ものにも代えられない至高至純の演奏。カペー以後にも多くの名カルテット、名演奏があることは承知しているが、この曲だけは何としても、カペーでなくてはきいた気がしない。実際、《カペーのベートーヴェン》というのは、カザルスのバッハやフルトヴェングラーのベートーヴェンと同様、人類の歴史上でミケランジェロの彫刻とかレンブラントの絵がそうであるのと同じ意味での文化遺産なのである。

 何しろ神棚に上がっているクラスの名演奏だけに、これまでに数々の復刻盤がリリースされ、私も片っ端からきいてきたが、最も優れた復刻と名高いのは日本コロンビアの「DXMシリーズ」というLPである。ずいぶん以前にとある愛好家のご厚意できかせていただいたが、別次元の素晴らしい復刻音に仰天させられたのを覚えている。これは電気録音最初期のものだけに、通常のSP盤再生と復刻では非常にスクラッチ・ノイズのレベルが高く、繊細な楽音が埋もれがちになる。かといってノイズを低減すると今度は楽音が生気を失い、演奏本来の姿を大いに損ねてしまう。新星堂のCDやグッディーズの「ダイレクトトランスファー」はどちらも素晴らしい復刻だったが、針音はかなり大きい。一方、ノイズを抑えて楽音を台無しにしてしまった復刻の例は――いや、これは言うのを控えておこう。ところがDXM盤LPは、ノイズのレベルは上述のSP復刻よりも圧倒的に低く、なのに楽音はさらに明瞭で生気と力強さがあり、カペーのヴァイオリンの神韻縹渺、霊妙不可思議な音色をみごとに捉えていたのである。その秘密は、SP盤をプレスする元となる金属原盤(メタルマスター)を直接コピーしたテープを使用したからだと知った。SP時代の録音を復刻する上で最上の方法が取られていたわけである。

 最近、たまたまこのDXM盤が製作された裏事情を知ることができた。何と、この復刻を手掛けたのは、現在グッディーズの「ダイレクトトランスファー」シリーズで世界最高峰(と私は考える)のSP復刻盤を世に送り出している、オーディオ研究家の新 忠篤氏だったのだ。氏が若き日に日本コロンビアに勤務していた頃にこの盤を担当したらしい。新氏は『ラジオ技術』2012年11月号でその秘話を明かしている。

「私が日本コロムビアの洋楽部勤務のかけ出しのころ、復刻盤のDXMシリーズを担当させてもらった。コロムビアの原盤倉庫にあった、戦前イギリス・コロムビアから送られたメタル・マザーを、FAIRCHILDの220Cと電音のPUC-3の3mil針付SP用カートリッジで、自分の手でテープにコピーした。もう30年も前のことだが、メタル・マザーで聴いた作品131のあの澄みきった開始部に、この世にこんなすばらしい音を出す四重奏団があるものかと心が震えた。その音はそっくりDXMに入っている。」

 現在、このDXM盤のLPは非常な高値で取り引きされており、おいそれと手を出せるものではない。日本コロンビアに今も原盤があるならそれで新たに復刻盤を出せないかと思うのだが、何でも権利関係の難しい問題があってこのメタルマスターは使用できないのだそうだ。

 さて、ここで今日私がきいていた、つまり今回公開する音源の話になる。ここまでの話からすれば当然DXM盤だろうと期待されるだろうが、そうではない。ここから話は音盤蒐集道の奥座敷へと入っていくのだ。もう何年も前のことだが、さる音盤蒐集家X氏とのやり取りの中で、私がカペーのDXM盤の話を持ち出し、しきりに賞賛したところ、X氏は「これをきいてみて下さい」と言って数点のデジタル・ファイルを譲ってくれた。一聴、私ははっとした。これはもしかして、DXM盤ではなかろうか? X氏に尋ねたところ、そうではないと答えが返ってきた。「しかし、ノイズレベルの低さといい、響きの明瞭さ、力強さといい、これは絶対にメタルマスターからの復刻としか思えませんよ。一体、この音源はどこで――」その質問に、X氏の返答はなかった。その後、何となくX氏とは疎遠になり、いつしか連絡も通じなくなった。

 世の中には、聞かない方がよいこと、聞くべきではないことが時に存在する。私がした質問も、そういう種類の質問だったのだろう。


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