見出し画像

蜷川正大「なぜ経団連事件は起きたのか 民族派は国家の危機を察知する〝触覚〟」(『維新と興亜』第8号、令和3年8月)

右翼が財界を襲った戦後初めての事件


── 経団連事件の目的は何だったのでしょうか。
蜷川 戦後、右翼が財界を襲ったのは経団連事件が初めてです。野村先生が経団連を標的にしたのは、日本の文化と伝統を慈しみ、培ってきた我々の大地、うるわしき山河を、彼らが経済至上主義によって引き裂いてしまったと考えたからです。しかも、財界首脳は戦前的な勢力や風潮は望ましくないという姿勢を貫き、戦後のナショナリズムを巧みに反共にすり替え、企業防衛の思想へ転化させてきました。野村先生は、こうした財界の姿勢は容認できないと考えました。野村先生は日本を弱体化させている「戦後体制」を打破するためには、それを支えている政界やマスコミとともに、財界を糺さなければならないと考えていたのです。
 ところが、野村先生の行動は当時の右翼陣営からはあまり評価されませんでした。反共右翼が強い時代だったからです。経団連事件の檄文を高く評価した石原慎太郎氏は、例外的な存在でした。
 事件発生直後、経団連の土光敏夫会長が「経団連会長室を襲ったのは右翼だ、との情報だが、本来私は右翼であり、右翼から狙われるなどということは、おかしな話だ」と語ったことは、当時の右翼がどう認識されていたかを如実に示しています。共産主義に反対し、体制を守るのが右翼だととらえられていた時代だったということです。評論家の猪野健治先生や竹中労氏は、経団連事件を、反共一辺倒で体制擁護派と誤解されてきた戦後の右翼が、右翼本来の姿勢を明確に打ち出し、アピールした極めて象徴的な事件だったと位置付けています。
── 檄文(十八頁参照)は営利至上主義、経済至上主義を厳しく批判するとともに、「水俣病患者・スモン病患者の心痛に対して、一度でも敬虔な反省をもったことがあるのか」と公害をもたらした企業の責任を追及しました。
蜷川 当時、公害問題で企業を攻撃していたのは左翼であり、「企業を攻撃する左翼を右翼が叩く」という図式がありました。右翼には、公害問題には取り組まなければならないが、それは左翼を利することになるという考えがあったのだと思います。野村先生の行動を理解したのは、葦津珍彦氏や毛呂清輝氏など、戦前から昭和維新運動に挺身してきた人たちでした。三上卓先生が作った「青年日本の歌」に「財閥富を誇れども社稷を念う心なし」とあるように、戦前の民族派は民衆の膏血を搾る財閥を糾弾していました。
 野村先生は「新右翼」と呼ばれましたが、むしろ戦前の民族派への回帰ととらえた方がいいと思います。もともと、野村先生は若い頃に起こした事件で下獄した時に、三上先生の門下生である青木哲氏と出会い民族派思想に目覚めました。特に、野村先生は大川周明、影山正治、蓮田善明の三人から強い思想的影響を受けました。
── なぜ野村先生は、戦後誰もやらなかった行動を起こすことができたのでしょうか。
蜷川 日本社会の問題の本質が見えていたのだと思います。野村先生は昭和三十八(一九六三)年七月十五日に河野一郎邸を焼き討ちにして実刑判決を受け、昭和五十(一九七五)年まで十二年も服役していました。
 娑婆にいれば、氾濫する情報に振り回され、何が問題の本質かが逆に見えにくくなります。目まぐるしく動く政治情勢に対応して運動を続けるうちに、やがて昭和維新運動の精神を忘却し、あるべき運動の姿を見失ってしまいがちです。獄中にいたからこそ、野村先生は純粋性を維持できたのだと思います。獄中では過去の事しか思いません。野村先生は、十二年間獄中にいたので、雑音を耳にすることもなく、自分の考え方を純粋培養し続けることができたように感じます。だからこそ、十二年ぶりに娑婆に出てきた時、変わり果てた日本の姿に大きなショックを受けたのでしょう。
── 経団連事件の計画はどのようにして始まったのですか。
蜷川 野村先生が出獄した直後の昭和五十年八月、日本赤軍によるクアラルンプール事件が発生しました。武装した日本赤軍のメンバーが、クアラルンプールのアメリカ大使館を襲撃、占拠し、アメリカの総領事らを人質に取って、人質の解放と引き換えに、日本国内で服役・拘置中の活動家七人の釈放を日本政府に要求してきたのです。日本政府はこの要求に応じ、「超法規的措置」として日本赤軍に参加意思がある五人を釈放・出国させました。
 野村先生は、日本赤軍が白昼堂々、日本政府を恫喝する現場を見せつけられながら、民族派が手も足も出せず、最後まで拱手傍観してしまったことに衝撃を受けました。翌昭和五十一年十一月十日の天皇在位五十周年祝祭を狙い、再び日本赤軍の出動が噂されていました。野村先生は、そうした事態が起こった場合、民族派が蹶起し、例えば日教組本部を占拠し、政府に対して、日本赤軍の要求に応じるべきではないと迫るというようなことを考えるようになっていました。これが、経団連事件を計画するきっかけとなりました。
── 昭和五十年の出獄後、野村先生は民族派学生との関係を強めていました。
野村 私が野村先生と初めてお会いしたのは、先生が出獄した直後です。「今、どんな本を読んでいるのか」と先生から尋ねられた私は、「新人物往来社から刊行された『岡本公三裁判全記録』を読んでいます」と答えました。すると先生は、「俺は難しいことはわからないが、パレスチナ解放運動は、本来日本の民族派がやらなければいけないことじゃないのか。そういう話ができるやつはいるのか」とおっしゃいました。
 やがて、既存の右翼と一線を画して、戦後体制打倒を掲げる民族派学生と野村先生との交流が深まっていきました。出獄してから野村先生は蒲田に住んでいましたが、隣の蓮沼駅の近くに「山河」というスナックを開店しました。やがてそこは民族派の梁山泊の様相を呈するようになったのです。

民族派は国家の危機を察知する〝触覚〟


── 経団連事件から十年後の昭和六十二(一九八七)年に、蜷川さんたちは住友不動産の安藤太郎会長宅に篭城し、その悪行を厳しく糾弾しました。
蜷川 当時、住友不動産など大手不動産業者は、土地ブームに便乗し、豊富な資金力を使って「土地コロガシ」を行っていました。その結果、土地は値上りし、サラリーマンが一生かかっても都心では一坪の土地さえ手に入れることのできない状況を招いていました。彼らは、土地を単なる投機の対象としたマネーゲームに終始していたのです。我々が経団連事件を意識し、蹶起に踏み切ったのは言うまでもありません。
── 平成十(一九九八)年一月には板垣哲雄氏による東京証券取引所事件が、また平成十六(二〇〇四)年十一月には木川智氏による大成建設銃撃事件がありましたが、その後財界、企業を標的とした民族派による事件は起きていません。民族派は体制に歯向かう牙を抜かれてしまったのでしょうか。
蜷川 確かに民族派が持っていた反体制的な側面が失われつつあるように思います。民族派は在野にいて、日本のあるべき姿を訴えるべき存在です。野村先生は、常に「左翼が人民の〝前衛〟であるならば、民族派は国家の危機を察知する〝触覚〟の役割を担わなければならない」と語り、肉体言語を駆使して権力悪や巨大な不条理と戦いました。
 私は、肉体言語つまり直接行動を担保し、留保しつつ言論活動を行うのが、民族派の立場だと考えています。ただし、それは必ずしもテロを意味するわけではなく、「斬奸の思想」を体現するということです。
 一方、右派に占める民族派の位置も変化しています。かつては愛国的な主張をするのはほぼ民族派だけでしたが、愛国的主張を唱える「保守層」が増えました。そのこと自体は結構なことですが、保守の間口が広くなり過ぎて、「何を保守するのか」「何と戦うのか」が定まらなくなっています。「保守」を自称する人たちの中には、戦後の五十五年体制を保守しようとしている人たちがいるようにも見えます。我々民族派が保守しようとしているのは、日本の伝統文化であり、その原点である御皇室の存在です。我々は今こそ民族派の原点に立ち返るべきだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?